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2008年6月

2008/06/30

■節子への挽歌302:節子、ジャケットを買ってしまいました

節子
娘たちが、私にジャケットやシャツを買うように勧めます。
今の着ているのはもう生地が擦れていると言うのです。
私は目が悪いので気にはならないのですが。
そしてついに彼らのおかげでジャケットを買ってしまいました。
節子からもいつももう少しちゃんとした服を買ったらと言われていました。
私にはその気は全くなかったので、節子の要請はほとんど受けませんでしたが、娘には断りきれません。
いずれにしろ節子が病気になって以来、衣服を購入したのは初めてです。
節子がいなくなってからわかったことですが、
肌着類などは、私の性格を見越してか、節子が私の一生分を買ってくれていました。

私の消費活動はいささか偏っており、お金を使うのはわずかな書籍代だけでした。
酒も煙草も、ゴルフもギャンブルもやりません。
お金のかかる趣味も全くありません。
衣食住のうち、衣服と食にはほとんどお金をかけません。
ファッションにもグルメにも全く関心はありません。
ですからお金がなくても生きていけるのです。

にもかかわらず、家族は私のことを無駄遣いが多いといいます。
確かに、レーザーディスクのプレイヤーを突然2台購入したり、断るはずのリゾートマンションを買ってしまったり、見もしない絵画全集や文学全集を注文してしまったり、以前はそんなこともありました。
お金があるとついつい無駄なものを買うため、最近はお金を持たないようにしていますので、衝動買いはなくなりました。
それに最近は書籍もあんまり購入しなくなりました。
そんなわけで、ともかくお金は使わないのです。

ですから真面目に働けばわが家は大金持ちになれたはずです。
節子と結婚する時、酒も煙草も飲まないのならお金がたまって仕方がないねと節子側の親戚の人からいわれました。
しかし、不思議なもので、入ったお金は自然と出て行くものです。
それに、いろいろあって、ほどほどのお金が入ったり入らなかったりする人生でした。
ですからお金持ちにはならず、わが家は幸せを維持できたのかもしれません。
節子もたぶんそれを歓迎していました。
節子もまたブランド品や貴金属などにはほとんど関心がなく、それにお金がたくさんあったら管理できないタイプでした。

会社を定年前に辞めた時、3000万円の退職金をもらいました。
そんな大金は手にしたこともなく、そのせいで数年後にはほぼ同額の借金に変っていました。
お金で不幸になることはありますが、たぶん幸せになることはないでしょう。
まあ、お金を持ったことのない者の偏見かもしれませんが。

また書かなくてもいいことを書いてしまいました。
節子に笑われそうですが、節子も私と同じく、言わなくてもいいことを言うタイプでした。

ジャケットを購入してからもう1か月以上たちましたが、まだカバーに入ったままです。
着るシーズンが終わってしまいました。
買わなくても良かったなという気もします。
それに、佐々木さんと約束した「本来無一物」指向と反します。
主体性がない人の生き方は矛盾だらけです。はい。

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■遅すぎる卵の値上げ

長い間、値上げと縁のなかった卵の値上げが話題になっています。
その影響は少なくないようですが、私自身は値上げに賛成です。
卵は安すぎると常々思っています。
1個、10円未満で売られている卵もあります。
どう考えても安すぎます。

商品は安ければいいというものではありません。
経済活動を持続させ、生活を安定させていくためには、
その生産が無理なくできるようなコストを消費者は負担しなければいけません。
それがなければいつか問題が発生します。
昨今の食品メーカーの不祥事のすべては、たぶんそうした「コストダウン至上主義」の結果です。

ものには「適切なコスト」があるはずです。
それを忘れてはなりません。
市場や需給関係が価格を決め、コストを決めるのはどう考えても本末転倒です。
コストが価格を決め、それに基づいて価値が決まるのが自然です。
しかし、競争を前提にした市場経済では、価値は分裂します。
つまり使用価値と交換価値ですが、前にも書きましたが、大切なのは使用価値です。

市場経済や競争原理はまた、コストダウンを強要します。
そして、コストダウン発想の経済はどう考えても持続可能性と矛盾します。
持続可能性やサステイナブル・エコノミーを語る人への、私の不信感はそこにあります。
いまの経済パラダイムでは、持続可能性は実現できるはずはありません。
経済のパラダイムを変えなければいけません。

バナナも安すぎますし、自動車も安すぎます。
安く生産する技術は、ほとんどの場合、どこかにしわ寄せをします。
その結果、取り返しのつかない事態を招くこともあります。
コストダウンは「経済」の発展につながるかもしれませんが、生活の向上は意味しません。
価格の安さを求める消費者は、消費機関にされているだけです。
そのおかしさに気づくべきです。

そうはいっても、卵などの基礎食材が高くなると庶民の生活は苦しくなる。
それをどうするかという問題はあります。
その問題を解くためには、必要生活費を計算しなおし、
最低賃金を見直し、税負担を見直す必要があります。
つまり、卵が安いことと人間の労働対価や生存コスト(生活保障費)が安いことはセットになっているのです。
その悪循環を断たねば問題は解決しません。

卵業者に税金を投入しながら、新しい経済パラダイムに移行することも可能かもしれませんが、
先ずは卵を値上げするのが現実的でしょう。
現在の経済システムのほころびが見えてくるでしょうから。

早く卵は値上げすべきです。
国内の卵業者がいなくなってしまう前に。
そして私たちの生活を守るために。
食糧自給率を下げることに協力した消費者から脱却する契機にしなければいけません。

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2008/06/29

■諫早湾干拓の不幸と間違い

歴史的な文化遺跡は一度壊すと回復は絶望的です。
そのため保護される仕組みができていますが、その保護によって遺跡が発見された土地を所有している地主は、その土地の活用に関して大きな制約を受けます。
そうしたことの根底には、たぶん総有的な発想があるのだろうと思います。
私有地だからと言って、勝手に個人的な都合で何でもできるわけではありません。

では自然はどうでしょうか。
特に多くの人が使っている山林や河川や海はどうでしょうか。
それらはそもそも私的所有の対象にはなじまないと思いますが、同時に統治者の自由な処理の対象にもならないように思います。
自然は大きなコモンズ(みんなのもの、総有の対象)ではないかと私は思います。
文化遺跡以上に、保全の仕組みをしっかりとつくっておくべきではないかと思いますが、そうはなっていません。

諫早湾干拓のための水門は、自然を畏れぬ冒涜的な行為だと思いますが、残念ながら統治者や国民はそれを許しました。
地元の漁民たちさえも、当初はあまり強い反対運動には参加しなかったという話も聞きました。
しかし水門を閉じてからの漁業への影響は甚大でした。
自殺者も出ましたし、死滅した生物もいたかもしれません。
干拓の目的もまたほとんど成果をあげていないような報告もあります。

諫早湾干拓訴訟の佐賀地裁判決が一昨日(6月27日)出されました。
国に潮受け堤防の排水門を常時開門するよう命ずる内容です。
朝日新聞は、「諫早湾干拓事業は、文部科学省の外郭団体が科学技術分野における重大な「失敗百選」に選んでいる。なにしろ干拓に2533億円の巨費をかけながら、将来の農業生産額は2%にも満たない年間45億円である。無駄な巨大公共事業の典型である」と報じています。
外郭団体が費用をかけて調査しなくても、そんなことは10年前からわかっていたはずです。
とりわけ漁民たちにはわかっていたでしょう。
でも正面から反対運動は起こせなかった。
私は最近の報道で漁業関係者たちの声を読んで、正直、何をいまさらと思いました。
しかし、漁民の人たちも、行政を信じたり、あるいはほかの誰かのことを配慮したり、いろいろ事情があったのでしょう。

干拓を進める側の県職員にも決して悪意はなかったでしょう。
私の友人も関わっていましたが、彼は悪意など皆無の人物です。
彼らは推進派の学者たちの権威あるデータを信じたのです。
水俣病の教訓があったにも関わらず、
今回も現場で暮らしている漁民たちの本当の意見にはたどりつけなかったのでしょう。
そして不幸で無駄な結果になってしまったわけです。

手元に2001年に発表された『市民による諫早干拓「時のアセス」』の報告書があります。
なぜ「市民による」なのか。
「住民による」報告書だったら、だいぶ違った内容になっていたでしょう。
その後の動きも変っていたはずです。

事情を一番良く知っているはずの「住民」がいつも中心にいないのが、あらゆる問題の間違いの原因です。
現場の人たちにとっては、とても不幸な時代ですが、社会全体にとって間違いなく不幸な時代ではないかと思います。

そのことは、環境問題に限ったことではありません。
福祉も教育も、すべてにおいて現場がおろそかにされているのが気になります。

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■節子への挽歌301:家族の絆

今日は節子への報告です。
家族を失うと、遺された家族にはさまざまなストレスが生まれます。
このブログでは、私のことしか書いていませんが、
わが家には同居している娘が2人とチビ太くんという犬がいます。
そうした私以外の家族にもそれぞれ大きなストレスはかかっています。
もっともチビ太はあんまり感じていないのかもしれません。
節子がいなくなってからも、特に大きな変化はありません。
動物のスピリチュアリティには大きな関心を持っていますが、チビ太にはどうもスピリチュアリティを感じません。
彼は、薄情な近代犬なのです。いやはや困ったものです。

節子がいなくなってから、一番、精神的にダウンしたのは私です。
それまでは一応、私たち夫婦が家族の中心でしたが、それは節子がいればこそでした。
その家族の中心がなくなってしまったのです。
節子のいない私は、いわゆる「腑抜け」のような存在になっていたはずです。
私がなんとか踏みとどまれたのは、同居していた娘たちのおかげです。
私は実に幸運だったのです。
娘たちに感謝しています。

しかし、私が支えられた分、逆に娘たちのストレスはさらに上乗せされたでしょう。
それはわかっていましたが、娘たちに甘えることにしました。
彼女らも、自分自身の問題もいろいろと抱えているはずですから、大変だったと思います。

最近、漸く、そうした状況を受け止められるようになってきました。
つい先日、3人で食事に行きましたが、節子のいない意味を改めて実感しました。
お互いに精一杯支え合いながら、私のように寂しさや悲しさをストレートに出せない性格なのです。
その分、内部に蓄積されるはずです。
それをもっと思いやらねばならないと改めて思いました。
このままだと、誰かが倒れかねないと思いました。
愛する人を失った人の思いは複雑で、たとえ親子といえども理解などできませんが、思いやることはできます。
大切なのは、理解できないことを認識した上で、何ができるかを考えることかもしれません。

そんな思いになりだしていた矢先、一昨日、わが家一番の頑張り屋の次女が倒れてしまいました。
積もり積もったストレスが引き起こしたことだったのでしょう。
幸いに長女が在宅でした。
おろおろする私とは別に、彼女がてきぱきと状況を仕切ってくれました。
そのおかげで、大事には至らず、次女も回復しつつあります。
今回は、長女の適切な行動に助けられました。

病院からの帰路、長女が、最近、ちょっとギスギスしていたね、と言いました。
節子がいなくなってから、家族はお互いのことを気遣いしあいすぎて、それが逆にお互いのストレスを高めあっていたのかもしれません。
長女もそれを感じていたのです。

節子がいなくなった後、私と節子が入れ替わっていたほうが娘たちには良かっただろうにと、何回も思いました。
しかし、それは無責任な逃避的発言だったのです。
現実をもっと見据えなければいけません。
最近は、「節子だったらどうしただろうか」と考えるようにしています。
しかし今はまだ、その度に節子との思い出が出てきてしまい、判断できなくなります。

次女が身体で表現してくれた事件のおかげで、ちょっと意識しあいすぎていた家族の関係が変りそうです。
今日は、静かに自宅で3人、過ごしています。

節子
娘たちは、本当によくしてくれますし、それぞれ少しずつですが、前進しています。
安心してください。
まあ、私もだいぶしっかりしてきました。はい。

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2008/06/28

■節子への挽歌300:「別の世界の人」になった寂しさ

今日は精神の健康の話です。
節子がいなくなってから、私の精神状況はかなり不安定です。
しかし、その不安定さは、たぶん友人が思っているのとは全く違うはずです。
どんなに親しい人でもこの寂しさはわかってもらえないだろうなと思う一方で、
日常的な意味での寂しさはほかの人が思うほどのものではないような気がします。
つまり、当事者でないとわからない、不思議な寂しさです。

先日、夫婦づきあいしていた同世代夫妻のご主人から電話がありました。
一度お伺いしたいと思っているのだが、悲嘆にくれている佐藤さんに何を話せばいいのかわからなくて、今日まで連絡できなかった、というのです。
その気持ちはよくわかります。
きっと私も同じ立場だったらそうでしょう。
事実、今でも電話できない友人がいます。

この種の話はいろんな人からお聞きします。
会いに来てくれた人がほとんど例外なく言うのは、「佐藤さんが思ったより元気でよかった」という言葉です。
そう言ってもらえるのはとてもうれしいのですが、
そんなに私は落ち込んでいると思われているのだろうかという、もうひとつの寂しさも感じます。
つまり、妻を亡くしたことで別の世界の人になってしまったというように思われているのかという気がするのです。

それが不満であるわけではありません。
実は自分自身も、「別の世界の人」になったと自覚しているのです。
そして、そのことが私の寂しさであり、その世界にまだなじんでいないための精神的不安定さなのです。
ちょっとややこしいですね。

ですから、こちらの世界で生きている場合は、さほど寂しくなく元気なのですが、
突然、「別の世界」に意識が跳んでしまうことがあるのです。
そうなってしまうと、途端に息苦しくなるのです。
意識が一変し、それまで話していたことが遠くに行ってしまうのです。
なんで自分はここにいるのだろう、というような感覚が高まってきます。
そして現世の言葉と違った言語感覚になってしまうのです。
目の前で談笑している友人の声がどこか遠くに聞こえだすのです。
なぜか大きな疲労感も全身を襲ってきます。

こうなるのは時々なのですが、多くの人が集まる会や楽しい会食時になりやすいのです。
ですからできるだけパーティや同窓会には参加したくありません。
周りの友人たちが、どこか別の世界の人に見えてくるのは、とても寂しいものなのです。
そんなわけで、節子がいなくなってから、同窓会的なものには一度も出ていません。
小学校も大学も、会社も同好会も、ぜんぶ欠席です。
いつになったら参加できるようになるでしょうか。

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2008/06/27

■節子への挽歌299:健康管理に少し気をつけるようになりました

節子
最近、ブログやホームページに、あまり体調が良くないことを書いたせいか、いろんな人が心配してくれます。
節子もきっとそちらから見ていて、心配しているかもしれませんね。
しかし、早くこちらに来てよと思っているかもしれませんよね。
そのあたりをどう考えればいいか、いつも悩みます。

根本さんはラジオ体操を勧めてきました。
近くに住む兄は一緒に健康診断に行こうと無理やり申込まされました。
若い友人たちから、身体には気をつけて下さいね。とよく言われますが、みんなとても心配してくれるのです。
最近、わが娘たちまでもがやけに親切なのです。

身体状況は必ずしも良いわけではありません。
軽い手足のしびれが続いていますし、頭もあまりすっきりしないことが多いのです。
一時は血圧が高く、下が110前後になっていたこともあり、さすがにお医者さんに行こうと思ったのですが、
そのうちにまた100以下に降りてきました。
先日書いたWii Fitで毎日トレーニングをしだしたので、最近は95前後で定着しだしました。
何のことはない運動不足だったわけです。

節子がいなくなってからの家族のストレスはかなり大きいのですが、
最近はそれぞれがストレスを消化しだしています。
そして、お互いにストレスを高めあう局面から支え合いで削減する局面に入っています。
Wii Fit は、そうした環境をいい方向に加速してくれています。

Wii Fitで盛り上がっている家族の様子を節子が見ていてくれるといいなと、思うと同時に、
ここに節子がいたら、もっと賑やかになるのにといつも思います。
3人ともどこかで節子を意識しながら、時々、節子の名前も飛び交っています。
節子がいたら、笑い転げて腸ねん転を起こすかもしれません。
それに節子がいたら、記録の最下位は必ずしも私が独占することにはならないでしょう。
体育会系好きのわりには、節子の運動神経もそれほどではありませんでしたから。

昨夜は久しぶりに家族3人で、時々みんなでいっていた近くのレストランで食事をしました。
節子がいた時ほど話が弾まなかったですが、
節子の名前は何回も出ていました。
何かとても奇妙な気持ちです。


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2008/06/26

■一つでもいいからきちんとけじめてほしい

居酒屋タクシー問題の調査結果と処分が発表されました。
しかしけじめはついていないというべきでしょう。
この問題は15年?ほど前の官僚の過剰接待問題の時にもわかっていたはずです。
当時、私も時々、仕事先の企業が用意してくれたタクシー券で帰ることがありました。
そこで運転手と会話していて、驚くべき話をいろいろと聞きました。
その多くは、最近話題になっているような話です。
白紙のタクシー券を渡してペイバックしてもらうとか、自宅と正反対のほうを経由して帰宅するとか、といった話はよく聞きました。
官僚の過剰接待の事件化で、そうしたことはなくなったのだろうと思っていました。
しかし、なくなってはいませんでした。

こういうことが実に多いです。
マスコミが話題にし、関係者も解決を約束したにもかかわらず、再度話題になるような事件は少なくありません。
天下り人事や談合事件は、話題になり続けていても繰り返されます。
だれも本気で取り組んでいないからです。
マスコミも、解決に向けてのフォローはしません。
テレビのキャスターも、毎回同じコメントをするだけです。

今朝のテレビで、民主党の長妻議員が、
今回の居酒屋タクシー事件に関して、水増し請求の実態を調査させてくれと役所に要求したにもかかわらず拒否されたことを告発し、同席していた自民党の山本議員に、与党からも調査を働きかけてくれと呼びかけました。
山本議員は、こうした問題はむしろ与党こそがしっかりと追及すべきだといいながらも、長妻議員の呼びかけを無視しました。
この問題に関しては「怒り」を常々口にしている司会者のみのもんたも、長妻議員の発言を聞き流しました。
要するに、みんな本気でやろうとはしていないのです。
長妻議員だけは本気だと感じますが。

居酒屋タクシーの受益者と同じようなことをやっているのが、多くの政治家でしょうから、彼らにはそうした状況の根絶は無理かもしれません。
大臣などの答弁を聞いていると、白々しさを感じます。
それに、多くの国民は長妻さんほど怒ってはいませんし、実体をしっかり見ようなどとは考えていないかもしれません。
なんで悪いのかと、今でも言う人はいます。
社会の常識が、そうなってきているのでしょうか。
長妻さんの怒りが、なかなか前に進まないのは、そうした状況のせいかもしれません。

今回発表された処罰に関しては、ほとんど意味のない、内輪だけの処罰です。
そんな処罰はする必要もありません。
やるべきは「名前の公表」です。
個人名を出すのはプライバシーに関わるなどと言う人がいるかもしれませんが、犯罪を起こした人の名前は公表すべきです。
犯罪ではないというならば、これほど大騒ぎする必要はありません。
いじれにしろ、減給や停職が処罰だなどと考えるのは時代遅れだと私は思います。
公表は見せしめかといわれそうですが、それくらいの緊張感が公務に取り組む人には必要だということです。
その緊張感が欠落しているのです。
緊張感の欠落は、何も官僚や政治家に限ったことではありません。
私自身、ささやかに仕事をしていますが、そうした風潮を強く感じます。
「いい仕事」をしたいと思っている人は、あまり見かけられなくなりました。

いずれにしろ、一つでもいいから問題をしっかりと最期まで解決することをやってほしいです。
問題が多すぎるためか、すべてのことがうやむやに終わってしまっている気がします。
マスコミも同じです。
問題を取り上げている回数が多いのを自慢するのではなく、きちんと問題解決に向けての取り組みを心がけるべきだと思います。

居酒屋タクシー事件は矮小な問題だと思いますが、それへの対応には本質的な問題が象徴されています。
そこから社会の実相が見えてくるような気がします

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■節子への挽歌298:「話しかける」ことは「聴きかける」こと

愛する人を失った時の話し方シリーズ第3弾です。

今日は立場を逆転させて少し書いてみます。
伴侶を失った人に、どう話しかけたらいいのかという話です。
自分が話しかけられる立場になって、いろいろと感ずることがあります。

人によって話しかけ方は大きく違います。
先日、道でお会いした近くのTさんは、こう話してきました。
お元気になられましたか。
無理ですよね。
まだ信じられないですよね。
とても素直に受け入れら、ついついいろんなことを話してしまいました。

実は、このように素直に受け入れられることは意外と少ないのです。
伴侶を失った人は、もしかしたら被害者意識が強すぎるのかもしれません。
いじけている可能性もありますし、見栄を張りたがっていることもあります。
まあ簡単にいえば、奇妙に言葉に過剰反応しがちなのです。
どうもこれは私だけではないようです。

話したくなる状況をつくる、これが会話の基本ですが、
節子との別れによって、そのことを改めて強く思い知らされました。
「話しかける」ということは、もしかしたら「聴きかける」(そんな言葉はないでしょうが)と言うことなのかもしれません。

節子との、この5年間で、ケアとかコミュニケーションについてたくさんのことに気づかされ、学んだように思います。
節子が身をもって教えてくれたのです。
にもかかわらず、最近の私は、どう考えても話しすぎのようです。
それはどこかに「不安」があるからかもしれません。
「沈黙」と「饒舌」は、どうやらコインの表裏です。
そのことにも気づかされました。

ところで、今日のテーマ、「伴侶を失った人にどう話しかけたらいいか」ですが、
たぶん一番いいのは、全く意識しないことです。
これまで通り、いつも通り、が、たぶん「正解」です。
中途半端な気遣いは、きっと逆効果になるでしょう。
子どもたちは大人の不誠実さを見抜く感性を持っていますが、
伴侶を失った大人も、それに似た感性を回復しているような気がします。
相手の心が直接、伝わってくるのです。

ですから、会わないのが一番いいかもしれません。
過剰感性化している「伴侶を失った人」はまさに「さわらぬ神になんとやら」です。
でも、たぶん「伴侶を失った人」は意識とは反対に会いたがっているのです。
そこがややこしいところです。

以前と同じように接して、別れ際に「ちょっと変わったね」と無意味な会話(意味を与えてはいけません)をするのがいいかもしれません。
今回書いたことは、私だけの特殊事例かもしれませんね。
でもまあ悩ましい問題です。
今日は、「愛する人を失った人への話し方講座」でした。
全く役に立たない講座で、すみません。

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2008/06/25

■何か見落としていることはないのか

最近、あまり天気予報が当たりません。
この数日も雨模様ということでしたが、青空の見えるよい天気が続いています。
天気予測の技術は、ソフト面でもハード面でも進歩しているはずです。
予測するための要素データは範囲も精度も高まっているはずです。
にもかかわらず、なぜ予報精度は高まらないのでしょうか。
いや高まっているかもしれないのですが、私の生活感覚からすれば、むしろ外れる度合いが多いように思います。

精度が高くなったが故に、はずれ感が高まっているということはあるかもしれません。
これは面白い問題を示唆しています。
いささか飛躍しますが、顧客満足の体制を組めば組むほど、顧客の不満は高まるということにもつながる話です。
このあたりを書き出すと、際限なく話が広がりそうですが、
今回、書きたいと思ったのは、そういうことではありません。
「何か見落としていることはないのか」ということです。
主語は、やや大げさですが、近代技術あるいは現代の知です。

先日開通した副都心線は連日、技術的な事故続きです。
これまでの体験をもとに、さまざまなシミュレーションが行われたはずです。
なぜでしょうか。

後期高齢者医療制度はどうでしょうか。
きっと数理的には目的に沿った仕組みが構築されていたのだろうと思います。
しかし、うまくいきませんでした。

イージス艦の事件はどうでしょうか。
きりがありませんが、
無関係のような、これらの問題はすべてつながっているのではないか。
そんな気がします。

要するに、私たちは常に何かを見落としているのです。
にもかかわらず、見落としていることがあるという認識が、最近、弱くなってきているような、そんな気がしてなりません。
それこそまさに「機械的発想」「科学的発想」「バーチャル世界発想」なのです。
その見落としているものからの反撃が、さまざまなところで始まりだしています。
天気予報とは無縁のように思えますが、実は天気予報も含めて、それらはつながっているように思います。
それに気付くと、身の処し方も変わってくるかもしれません。
そして、天気予報は外れるからこそ価値があると思えるようになるかもしれません。

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■節子への挽歌297:伴侶の死の語り方

最近、経験したことですが、初対面の同世代の男性と話していて、伴侶の話になりました。
いろいろと話しながら、結局は女房に頭があがらないし、女房が一番の支えですね、佐藤さんもそうでしょう、女房を大事にしないといけませんね、というようなことを言われました。
もちろん、その人は私が妻を亡くしたことなど全く知りません。
私は、そうですね、としか応えられませんでした。
そのため話の盛り上がりはちょっと砕けてしまいました。
実は最近妻を亡くして、などといえば、さらに話は冷えてしまったかもしれません。

妻の死を知っている人と会った時、ついつい節子の気丈な闘病振りを話してしまったことがあります。
まさに告別式のあいさつで話したようなことを話したのですが、その人はたぶん戸惑ったことでしょう。
節子を見送った後、私は見境なく、みんなに節子の話をしました。
「お父さんは詳しく話すけど、みんなは戸惑うよ」と娘によく注意されました。
節子のことを少し話し出すと、今でも途中で止まらなくなるのです。

何回か引用させてもらった「あなたにあえてよかった」の大浦さんが、こうメールしてきました。

「娘の悲しいできごとを、よく公開できますね」と言われたことがあります。
「甦るために私は死ぬのだ!」との郁代の声を確かに聞きながら本を書きました。
「郁代!あなたを決して死なせない!」との思いでした。
元気な時もそうでしたが、亡くなっても強い意思が伝わってくるのです。

大浦さんの場合は伴侶ではなく、娘さんでした。
ですからなおのこと大浦さんの思いは、私には共有できるはずはありませんが、この気持ちはとてもよくわかります。
共有してはもらえないとしても、話さずにはいられないのです。
大浦さんのお気持ちがよくわかります。

しかし、そうした話を聞かされた時、どう応えればいいでしょうか。
これは難問です。
もし聴く側にまわったら、私はたぶん応えられないだけでなく、引いてしまうかもしれません。
にもかかわらず、話す側の私は時に話してしまうわけです。
その気持ちの根底には、節子のことをもっと知ってほしいという気持ちがあるのです。
節子のことを知るはずのない初対面の人にさえ、節子のことを知ってほしいという、おかしな気持ちさえ出てくるのです。

愛する人を失った人は、やはりちょっとおかしくなっているのでしょうか。
でも愛する人を失うということは、おかしくなってもおかしくないくらいの、事件なのです。
失ってからでは遅いのです。
みなさんも、愛する人をしっかりと守ってやってください。
守れなかったことの挫折感は、たとえようもなく大きいです。

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2008/06/24

■節子への挽歌296:愛する人の死についての体験は他の人と共有できるか

一昨日、せっかく献花に来てくださった田辺さんと節子のことを話さなかったことがちょっと気になりましたので、それに関することを今日は書きます。

伴侶を失った人は、伴侶の死についてどう話したらいいのか。
話されたほうは、どう対処したらいいか。
これは難しい問題です。

愛する人の死についての体験は、たぶん決して他の人とは共有できません。
なぜかといえば、愛する人との関係は特別だからです。
「愛する人」を喪失しただけではなく、その関係、つまり自らの生活の大きな部分が喪失してしまったのです。
愛する人を失った人にとって、それは個人の死ではなく、関係の死、それまでの人生の終わりでもあるのです。
そのことを、他の人と共有できることが出来るはずはありません。

わが家の場合、娘が2人いますが、娘たちもまた「愛する母親」を失いました。
節子を愛していたという点では、私と同じかもしれませんが、関係はそれぞれに違います。
ですから、私は決して、娘たちの気持ちを共有化できませんし、娘たちもまた私の気持ちを共有化できません。
それぞれ微妙に違うのです。
どちらが悲しみが大きいとか深いとかいう話ではありません。
質が違うのです。
大きなところではわかりあえ、支えあえますが、どこかで違いをそれぞれ実感しているように思います。
ですから家族同士でも、愛するものの死について話すのは必ずしも簡単ではありません。
私たち家族の中では、よく「節子」の名前は出ますし、節子の思い出は語られますが、お互いにあまり深入りはしないような気がします。
というよりも、できないのです。
深入りすると、思いの違いが見えてくるという不安もありますし、それぞれがせっかく再構築してきた平穏を崩してしまう可能性もあるからです。
何だか誤解されそうで、「冷たい家族だな」と思われそうな気がしてきましたが、私たち家族の中では今もなお、節子が生きていることは間違いない現実でもあればこその話かもしれません。

書こうと思っていたことと違う方向に話が進んでしまいました。
家族間の話ではなく、友人知人、あるいは節子を知らない人との「伴侶の死」もしくは「伴侶」の話をすることを書こうと思っていたのですが、書きながら考えるタイプなので、違う話になってしまいました。
日を改めます。

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■「不都合な真実」から「目指すべきビジョン」に

先日、K2登頂に成功したKさんにお聞きした話ですが、普段、人間は持てるエネルギーの1割程度しか活用していないが、死に瀕する状況では5~7割の能力を発揮するのだそうです。
K2は登頂する点ではエベレストよりも危険度が高く、遭難者も多い山です。
Kさんが死を賭して登頂に挑戦した理由の一つは、自分の持つ能力を思い切り出し切る体験をしたかったからですが、エネルギーを出し切った後の下山時の疲労感は、これまで体験したことのないものだったそうです。
しかし、生命力を出し切った感覚は、一度味わうとまた味わいたくなるようです。
人間は蓄積するエネルギーを放出する場が、時に必要なのかもしれません。

昨今の日本は、やや安心安全の水準が低下したとはいえ、日常的には生命の不安をあまり感じない社会でしょう。
そこではみんな生命力の1割しか発揮していないわけです。
とすれば、社会に蓄積されるエネルギーを放出する仕組みをどうつくるかは重要な課題です。
それが「ハレ」の仕組みであり、スポーツやサーカスの効用かもしれません。
戦争もまた、その不幸な結果なのかもしれません。
しかし、どうせなら社会に蓄積されるエネルギーを、プラスの方向で活かしていきたいものです。
そのためには、「夢」や「希望」、「ビジョン」といった「大きな物語」が必要です。
たぶん、いまの世界にはそれが欠けています。
ゴアの「不都合な真実」は、エネルギーの点火する要素は持っていますが、その小さな火を集めていく「物語」がないのが残念です。

社会(組織)はそれを構成しているメンバーの生命力によって形成されています。
一人ひとりのメンバーのエネルギーがちょっと高まっただけで、それらを集積すると膨大なエネルギーになります。
そのエネルギーを統合し、効果的に活用していくことができれば、組織も社会も飛躍的に元気になるはずです。
残念ながら、現実はそれと反対の方向へと動いています。

いささか抽象的なことを書いてしまいましたが、
この視点で今起こっているさまざまなことを考えると、また違った視野が開けてきます。
マルチチュードがどの方向に動き出すか、いままさにそのせめぎあいが進んでいますが、「いのち」を預けられる物語を生み出すのはどちら側でしょうか。

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2008/06/23

■節子への挽歌295:私にとっては存在しない日の記憶画像

節子
昨日は田辺大さんが我孫子まで献花にきてくれました。
田辺さんは盲ろう者の働き場づくりに取り組んでいる社会起業家です。
節子とは話をしたことはないかもしれませんが、「手がたりの田辺さん」といえば、節子は思い出すでしょう。
時々、私たちの間でも話題になった人ですから。

節子のお通夜は、ちょうど田辺さんの活動がテレビかラジオで紹介される時間だったのではないかと記憶しています。
にもかかわらず田辺さんは来てくれました。
一言だけ話を交わしましたが、その時の様子を今でもなぜか鮮明に覚えています。
あの時は大勢の人にお会いしましたが、私自身、気が動転していたはずなのに、なぜかその日会った人たちの様子が映画の画面のようにはっきりと思い出されるのです。
しかも、不思議なのですが、それぞれが「その人らしく」動いているのです。

たとえば、某企業のIMさん。
まさか彼が来るとは思ってもいませんでしたが(伝えていませんでしたので)、告別式の日、IMさんが私を送ろうとしてウロウロしている風景が頭に焼き付いています。
IMさんとは一言も話していませんが。
我孫子に住むMさん、あるいはユニバーサルデザイン関係のNPOをやっているOさんもリアリティのないままに、その姿だけは鮮明に残っています。
2人ともなぜか所在なげにウロウロしているのです。
はしゃいでいるように見える友人知人の顔の映像も残っていますし、
その反対に、硬直して言葉を失っている友人の表情の残像もあります。
そしてそうした様々な姿に対応している自分の姿も、見えているのです。
はしゃいでいる人にははしゃぎながら、
硬直している人には硬直しながら、
ウロウロしている人にはウロウロしながら。
もっとも、それらが「実像」なのか、私が勝手に創造してしまった「虚像」なのか、必ずしも自信がありません。
節子と別れた日の記憶は、私にはとても不思議なことばかりなのです。
あの2日間は、私には本当は存在しない日なのかもしれません。

それはともかく、田辺さんはずっと気にしてくれていたのです。
今日、突然電話がかかってきて、これから行ってもいいかというのです。
雨の中を節子が好きそうな白い花を持ってやってきてくれました。
節子の話をするのがなぜか辛い気がして、節子の位牌の前で全く節子とは無縁の話をしてしまいました。

田辺さんを見送った後、節子のことを少し話せばよかったと後悔しました。
昨日はもう1人、節子が知っている若者も訪ねてきてくれました。
彼とも節子の話を全くしなかったことに、いま気づきました。

節子のことを話すのは、実は結構難しいのです。
何を話せばいいのでしょうか。
それに話しだすと止まらなくなるおそれもあります。
だから節子のことを話さないでもいいように、他のことを急いで話してしまうのかもしれません。
困ったものです。

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2008/06/22

■「千軒あれば共過ぎ」

数日前に、鹿児島県立短期大学の斉藤悦則准教授の論文を読んでいたら、
「千軒あれば共過ぎ(せんげんあればともすぎ)」という言葉が出てきました。
家が千軒もあれば、ひとつの経済圏として、外に頼らなくても自立していける社会になる、
というような意味だそうです。
ネットで調べたら、司馬遼太郎の「以下、無用のことながら」というエッセー集にも出てくるようです。
広島県の福山市は昔「草戸千軒(くさどせんげん)」といわれたそうですが、
千軒とは「まち」を表わす言葉のようです。
共過ぎとは友過ぎとも書くようですが、持ちつ持たれつ世渡りをすること。
つまり、お互いに支え合いながら(需要と供給を完結させながら)生活していくことだそうです。
経済的に言えば、千軒もあれば、商工業もなりたつというわけです。
ちなみに、これは核家族化が進む前の話ですから、
千軒とは人口にすれば、5000~6000人という感じでしょうか。
生活圏としては理想的な規模ではないかと、私は思います。
大雑把に言えば、小学校学区規模でしょうか。
まちづくりに関わってきた体験からも、顔が見える人間的な規模だと思います。
市町村合併ではなく、私は全国を千軒単位の地域社会に分けて、それを下からつなげていくことで、生活立脚の自治体構造ができるのではないかと思っています。
統治のためには市町村合併ですが、生活のためには市町村分割が効果的です。

昨今の日本社会の根本問題は、地域と生活とのつながりの弱まりです。
それを仕組み加速させているのが資本の論理です。
資本の論理などというと、何やら古めかしい印象がありますが、
いままさにそれが人間の世界を壊そうとしているような気がします。
資本というよりも、金融資本というべきでしょうか。
お金は、表情もなくわかりやすいので、結集しやすく合意しやすいのです。
同時に、地域(自然)を超えていますから、文化の違いなどとは無関係にグローバル化してしまうわけです。
いまそうした金融資本が世界を支配しているような気がします。
そこから抜け出るためには、もう一度、土に根ざした暮らしに立脚した、人間のための経済を考えなければいけません。
まずは千軒から発想していくのが効果的です。
社会もまた千軒から脱構築していくべきではないかと思います。

CWSコモンズの週間報告に、昨今の金融商品化社会の流れについての衝撃的な話を紹介しました。
「スモール・コミュニティ」からの社会の脱構築が、そこから抜ける方策に関する私の考えです。

たまたま今日、社会起業家の実践者にして研究者の田辺大さんが、女房への献花にわが家にきてくれました。
田辺さんと久しぶりに社会起業家論を話しているうちに、「千軒あれば共過ぎ」を思い出しました。
社会起業家という場合の「社会」って何なのでしょうか。
その議論が抜けている風潮がとても気になります。

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■節子への挽歌294:愛する人の存在がこの世から消えてしまうのは耐えられません

先日、「あなたにあえてよかった」の本を送ってきてくださった大浦さんは、
このブログの98「節子と世界のどちらを選ぶか」を読んで「私の気持ちそっくりそのまま」と思われたそうです。

大浦さんに

本はまだ読める状況にはありません。
少し読み出したら、不覚にも涙がとまらなくなり、やめました。
でも必ずいつか読ませてもらいます。
少し時間をください
とメールを書いたら、返事が来ました。
1周忌に合わせ本が出来上がったとき、
郁代の友人の多くから佐藤さんと同じ感想を頂いたのでした。
ですから、まだ日も浅い佐藤さんにお送りすること、本当はためらったのですが、
「節子の挽歌」を読ませて頂いているお礼にと思いました。
郁代は誰とでもすぐに仲良しになる子でしたから、
今ごろは節子さんと楽しく笑いあっているに違いありません。友人の手紙を本に載せるということは、
「一人ひとりの了解を得る作業」が必要になります。
見知らぬ外国の方と連絡を取り合うのは、1年以内でないと無理だろうとの思いから、必死になって取り組んだわけです。
倒れそうになりながら・・・。
その状況がよくわかります。
CWSコモンズのほうに書かせてもらいましたが、
愛する人が真剣に生きていたことを一人でも多くの人に知ってほしい。
愛する人のことを思い出してくれる人がいてほしい。
愛する人を亡くした人はみんなそう思うのです。
大浦さんは、最近のメールでこう書いています。
多くの方に郁代の人生を知ってほしいですから。
郁代の存在がこの世から消えてしまうのは耐えられませんから。
まったくそうなのです。
愛する人がこの世から消えてしまうことなど、思いもできないのです。
私はいまなお、節子がこの世からいなくなったことを受け入れられずにいるのです。
たぶんこの感覚は、私が生きている以上、続くのだと思います。

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2008/06/21

■なぜ自殺者が減らないのか

昨年も自殺者が3万人を超えました。
これで10年連続です。
自殺者が3万人を超えたのは1998年ですが、それまでは2万人から2万5000人前後を推移していたのです。
それが一挙に5000人も増えたわけですが、その内訳は男性自殺者の増加です。
その傾向がずっと続いています。
女性の自殺者は、それ以前と同じく、1万人未満のままです。
社会の変化に対する抵抗力の性差は、まさにいまの社会の本質を示唆しています。

この数年、マスコミでも自殺の問題がかなり取り上げられるようになってきましたし、自殺対策基本法もできました。
社会の関心も高まっています。
私が取り組んでいるコムケア活動でも、自殺予防に取り組んでいる仲間が数人います。
彼らの活動には頭が下がる思いがしています。
昨日、仲間の1人から、みんなで話しあってみたらどうかという提案がありました。
ぜひ話し合いの場を持ちたいと思います。
ご関心のある方はぜひご参加ください。
私のホームページ(CWSコモンズ)のお知らせのコーナーでご案内します。

自殺に関しては、死刑以上に発言が難しいですが、
私自身は、ほとんどの場合、自殺というよりも社会によって追い詰められた結果ではないかと思っています。
東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂さんが、その著者「東尋坊 命の灯台」で書いているように、ほんとうはみんな「生きたい」のです。
でも生きられない。だから追いやられた選択なのだと思います。

では誰がその選択をさせているのか。
いうまでもありませんが、当事者以外の私たちです。
社会をつくっているのは、いまこの時代を生きている私たちだからです。
だとすれば、私たちみんなに、そうした状況を変えていく力があるということです。
どうすればいいのか。
このブログで何回も書いているように、隣の人に声をかけることです。
友人知人のことをちょっと気にすることです。
「余計なお世話」をすることです。
それぞれの生き方をちょっと見直すことも大事かもしれません。
思い込んでいる考えをちょっと忘れるだけでもいいかもしれません。

真面目に汗して生きている人が「小さな安心」を獲得できるような、
少しずつみんなで重荷を背負いあう人のつながりを回復していくことができれば、
もっとみんな生きやすくなるかもしれません。

相変わらず脳天気な理想論だと、また批判を受けそうですが、
そうした「暮らし」のレベルからの発想が必要なのではないかと思います。
問題はたぶん「自殺」という行為にではなく、「暮らし」という日常にあるように思えてなりません。

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■節子への挽歌293:気楽に行こう、自然体で行こう2

昨日の時評編の続きです。
愛する人を失ったような、大きな環境変化を起こした人は、どう生きたらいいのか。

それ以前の「生き方」を忘れるのがいいかもしれません。
新しい環境の中での、新しい生き方を見つければいいと言うことです。
かつてのような意味で、「きちんと生活」する必要もなければ、無理して元気になる必要もないわけです。
「いつまでも悲しんでいないで、前向きに元気になっていかないと亡くなった妻も悲しむ」などと考える必要はありません。
悲しければ悲しむのがいいですし、元気が出なければ無理にだすこともない。
立ち上がれなければしゃがんでいたらいい。
それこそが「きちんとした生活」なのだと思えばいいのです。
そしてそれこそが、愛するものたち(自分も入ります)への鎮魂なのです。

これはもしかしたら、メンタルヘルス問題に通じています。
ちょっと変わった子が、発達障害などいうレッテルを貼られたり、
とても素直に生きている子が知的障害と考えられたりしてしまうことのマイナスも考えなければいけません。
人の生き方は単一ではありません。
異質な事象を分類し、名前をつけるのも、近代社会の特徴ですが、
それに縛られてしまっては本末転倒です。

なんだかまた時評編になってきてしまいました。
今回、書きたかったことは、環境が変化したら思い切り戸惑えばいい。
それは当然のことであり、以前の状況に戻ろうなどと思わなくてもいい。
そういうことです。
心療内科に行かなくてもいいのです。
精神が不安定で気が萎えていること。それこそがきっと正常なのでしょう。
伴侶を亡くして、おかしくならないほうがおかしいのです。
おかしくなっても、必ずいつか伴侶が治してくれるでしょう。
生前から、そうやってお互いに支え合ってきたのですから。

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2008/06/20

■生命体のホメオスタシスと意識体のホメオカオス

今日の挽歌編の続きです。
できれば、挽歌292のほうを先にお読みください。

常に変動している環境の中で、個体としての生命が存続していくためには、自らも環境に合わせて変化させるとともに、自らの個体性と同一性を維持するためにある範囲の中に生命体としての自らを恒常化させておく必要があります。
その作用をしているのがホメオスタシスです。
これに関しては、前の記事(挽歌292)に書きました。

ホメオスタシスは、理想としての静的な秩序(安定状態)を目標にしています。
しかし「生きている現実」では、そうした静的な秩序は存在しません。
常に動いていますし、秩序を形成する要素は無限に多様だからです。
そこで「複雑系」の議論では、多様性を維持した安定性機構としてのホメオカオスという概念が出てきました。
これは動的な恒常性維持といってもいいでしょう。
あるいは関係性を起点にして考える秩序ともいえます。
私たちの生活において重要なのは、ホメオカオスです。
これらに関しては、組織論などでいろいろな機会に書いてきましたが(たとえば企業文化論)、個人の生き方において言及するのは初めてかもしれません。

生物現象としてはホメオスタシスは重要です。
しかし、意識の世界では逆にホメオスタシスの呪縛が起こりえます。
たとえば、目標を設定するとそれが「理想」として固定されます。
そしてそれを基準にして、揺れ動く自分が評価され、理想に向かって近づくことが意識の深層にいたるまで強制されます。
問題は、その「目標」が多様な事情をかかえる個人単位ではなく、その集積によって生み出される幻想でしかない集団の目標に同調しがちだということです。
当該社会における平均的な、生命の通わない実体のない目標ということです。
社会の常識、社会の正義、社会の理想、いずれも社会を維持させていくためには不可欠なものでしょうが、個人には時に足かせになります。
秩序とは、そもそもそういうものですから、それは当然のことです。

個人は、その「平均的」な目標によって自分を評価し、自分を動機付けようとします。
そこに無理が生じ、人によっては「生きにくさ」を感じます。
それがある限度を超えると、メンタルダウンにつながっていきます。

個々人の事情は、情報社会の中では広範囲に集積され編集されますが、要素が多ければ多いほど、出来上がる結果は個人の事情から離脱していくように思います。
そして、たぶん真面目な人ほど、生きにくい世の中になっていくのです。

優等生だった人や真面目で優しい人が、突然に「あの人がまさか」というような、とんでもない事件を起こしてしまう。
もしかしたら、生命体としてのホメオスタシスに、意識体としてのホメオカオスが負けているのかもしれません。
組織の呪縛から抜けられずにいるのが多くの人なのです。
何しろ呪縛から抜け出てしまうと、違う意味の生きづらさが高まりますから。
「組織起点の社会」から「個人起点の社会」への移行期の現象です。
社会の構成原理のパラダイムシフトが完成するには100年はかかるでしょう。

過渡期として、自然体に生きることが難しくなっている現在、小賢しい知識や分別は捨てたほうが、大きな知恵と大きな分別に「生かされる」ことになるのかもしれません。
しかし、それにはそれなりの「覚悟」が必要です。

メンタルヘルス問題や自殺問題が社会の大きな課題になっていますが、その解決策の基本はこうしたところにあるような気がします。
そうしたことへの取り組みなしに解決は難しいでしょう。
今のような取り組みではたぶん成果は出てこないでしょう。

まずは「素直に生きること」を大事にしていきたいと、改めて思い出しています。

ところで、愛する人を失うような、急激に大きな環境変化を起こした人の場合、どうでしょうか。
また挽歌編に戻って、少し考えたいと思います。

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■節子への挽歌292:気楽に行こう、自然体で行こう1

上原さんのコメントを読んで以来、「立ち上がれない日々」のことを考えていました。
この言葉は、たぶん私も何回か使った言葉ですし、私の実状を的確に表現しているのですが、なぜか気になりだしました。
上原さんのコメントにもう一つ「きちんと生活」という言葉があったのがあ、そう考えだすきっかけでした。
私は「きちんと生活」しているのだろうか。
いや、どうして「立ち上がろう」としているのだろうか。
節子がいないいま、「きちんと生活」とはどういう生活なのだろうか。
気になりだすと、疑問は次々と広がります。
これが私の悪癖のひとつです。
まあ、自分では気に入っている癖なのですが。
もっとも節子ならば、きっと「また問題を難しくしているわね」と一笑に付すでしょう。

コメントへの私の回答に、

立ち上がれなくてもいいのかもしれません。
最近はそう開き直っています。
と何気なく書いたのですが、そこに答があるかもしれないと気づきました。

以前に比べて私の生活スタイルは一変しています。
これがいまの「立ち上がり方」であり、「生活の仕方」なのだと考えれば、気が楽になります。
私の信条は、Take it easy(気楽に行こう、自然体で行こう)です。
それを忘れていたのではないかと気づいたわけです。

まあ、日によって、重く沈んだり、気楽に前向きになったり、このブログも不安定ですが、
それこそが自然の生き方と考えればいいわけです。
愛する人、大切な人を失ったら、世界が変るのは当然です。
それまでのような生活はできなくなるのも当然です。
でも私たちは、きっと以前のような暮らしや元気に戻らなくてはと思うように仕組まれているのでしょう。
いわゆる生命体のホメオスタシス(恒常性維持機能)が、意識面でも作動しているのです。

ホメオスタシスは、「生物のもつ重要な性質のひとつで、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態が一定に保たれるという性質」(ウィキペディア)で、それが、生物が生物である要件のひとつであるとされています。
つまりこれがないと生物は時々刻々変化する環境のなかでは存続できないのです。
しかし、このホメオスタシスが、意識体としての人間を逆に迷わせているのかもしれません。
その結果が、昨今のメンタルヘルス問題かもしれまいと思い出しました。

問題はどうも「挽歌編」を超えだしました。
続きは「時評編」に書きます。

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2008/06/19

■節子への挽歌291:節子にメールが届いていました

節子
久しぶりに節子のメールボックスを見ました。
なんとメールが届いていました。
昔、お近くだった村岡さんからです。
実は村岡さんがこのブログに投稿してくださったのでわかったのですが。

節子のメールアドレスは、いまもそのまま残しています。
解約する気にはなれないのです。
村岡さんからのメールは、よく見たら私宛になっていました。

本日、河島様とご一緒にお墓参りをさせて戴きました。
暫し、節子さんと会話し、河島さんとは思い出話をしてきました。
あのカサブランカは、このお2人が供えてくださったのです。
村岡さんに電話させてもらったら、こんなうれしい話をしてくれました。
「節子さんは、ご自分が病気で大変なのに、私のことをいつも心配してくれていました。
やさしい方でしたね。」
とてもうれしくて、涙が出そうになりました。
親ばかならぬ、「夫ばか」といわれそうですが、節子がほめられると、たとえそれが誤解であろうととてもうれしいのです。
いえいえ、節子がやさしかったのは、たぶん事実です。
元気を出して話していたら、
「ご主人は元気そうですね」と言われてしまいました。
まあ、元気なのですが、何だか節子に悪いような気がしてしまいました。

「あなたにあえてよかった」の大浦さんから、こんなメールが届きました。

娘が言った言葉が思いだされました。
「お母さん、病気をして良いこともあったよ。
弱い立場の人の気持ちがよくわかったわ。
節子もそうでした。そして私もそのお裾分けをしてもらいました。
ですから、節子は自分が病気で大変だったからこそ、みんなにやさしくなれたのです。
村岡さんの言葉に戻れば、
「自分が大変なのに」ではなく、「自分が大変だからこそ」、村岡さんのことが気になったのです。
節子の身近にいて、そして節子と生活を共にしていて、節子ほどではないですが、私も少しやさしくなりました。
たぶん、ですが。

河島さんにもお電話しました。
ご主人が出ました。
なんとその後もご夫妻でお墓参りしてくれたのだそうです。
またまたうれしくて、感激してしまいました。
節子はほんとうにいい人たちに囲まれていたのです。
それで、もしかしたら神様に嫉妬されたのかもしれませんね。

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■死刑制度がなくても成り立つ社会の仕組みが課題

このブログでも「死刑制度」について書いてきたこともあって、
死刑執行が増えていることへの感想を書かなければいけないような気がしてきました。
気が乗りませんが、思いつくままに書きます。

制度があるのであれば、それは的確に執行されるべきだと思いますので、最近の執行率に関する違和感はありません。
むしろ判決が確定してからもこれほど長く執行されないのかということに違和感があります。
死刑確定囚が100人以上もいるというのも驚きです。
死刑判決を確定しておきながら、執行しないことの異常さを感じます。
いささかでも「疑義」があるのであれば、死刑判決が間違いだと思いますし、「疑義」がないのであれば、死刑の前に被告を立ち続けさせることの残酷さ、罪深さを感じます。
司法への不信感につながりかねません。

今回の宮崎被告に関しては、あまりにも執行が早すぎる、事件の原因究明も十分でなく、もっと事件を解明し、そこから学ぶべきだったのではないか、という意見を述べていた専門家がいました。
20年以上も時間があるのに、十分な学びができない専門家というのもおかしな存在ですが。
事件を繰り返さないために、事件の原因や背景を調べることは必要ですが、個別事件をいくら深く分析しても、事件の予防にはさほど役立たないでしょう。
類似事件の共通点に関する分析も出ていますが、事件はそれぞれに個別です。
そうした分析から出てくることは、もうみんなわかっていることのように思います。

問題は、起こったことの分析や調査ではなく、これから先に向けての私たちの生き方です。
佐木隆三さんが、家族のような身近なところから見直すべきだと話していましたが、とても共感できます。
過去の事件を過剰に報道し、むりやり原因を創りだしたり、社会を刺激したりするマスコミの姿勢には疑問を感じます。

死刑制度の問題を廃止するのであれば、その制度がなくても、社会の秩序が維持され、死刑を求めたくなるような残虐な事件が起きないような仕組み、あるいは、そうした残虐な事件の被害者になった人を救済する仕組みを考えなければいけません。
死刑制度廃止を主張する国会議員や法曹界の人たちは、単に死刑制度廃止を唱えるのではなく、そうしたオルタナティブを創案することにエネルギーを向けるべきだと思います。
日本では、死刑賛成者が多いということが持つ意味もしっかりと考えるべきでしょう。

過去の個別の事件をいくら克明に分析し報道しても、そういうことが出てくることはありません。
解決の鍵は、特殊な事件にあるのではなく、日常の私たちの生活にあるはずです。

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2008/06/18

■節子への挽歌290:2つの知性と2つの意志をもった一つの魂

今日は涙が出ない話にします。

先日、時評編でとりあげた社会哲学者のプルードンは、「家族」を重視していたようです。
そのプルードンの言葉として、次のようなものに出会いました。

結婚は異質な二要素の結合である。2つの知性と2つの意志をもった一つの魂である
この文章は、鹿児島県立短大の斉藤悦則教授のサイトで見つけました。
この言葉に続いて、斉藤教授はこう解説しています。
こうしたあり方が人間に成長をもたらす。
愛と愛が、自由と自由が交換される関係の中で、人は他者の人生をも「わがもの」として生きる。
相手が醜くなったからとか衰えたからといって、相手をとりかえることなど、この関係から本来出てくるものではないのです。
素直にうなずけます。
節子との関係は、まさにそうでした。
私たちは当初、異質である面のほうが圧倒的に多かったのです。
それが40年かけて、一つの塊になったように思います。

排除ではなく、包摂の関係は、必ずお互いを豊かにします。
それは精神の世界の話だけでなく、物質的な世界においても当てはまります。
たった2人だけの、そしてたかだか40年の体験でしかありませんが、それを実感しています。
経済や社会の基本にプルードンの思想を置いたら、きっと歴史は違ったものになっただろうなと思います。
興味のある人は、ぜひ斉藤教授のサイトをご覧ください。
「プルードンと現代」も刺激的です。

今日はちょっと挽歌らしからぬ記事になりました。

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■「おかしさ」が蔓延している中で、声をあげることの難しさ

また北海道開発局の官製談合事件が発覚しました。次々と出てきますが、これをどう考えるか、です。

先週、電車のなかで、40代前後の2人の男性が話している会話が、耳に入ってきました。
「なんであの人
が2000万円も給与をもらっているの、何もしていないのに」
「あの人のおかげで仕事が回ってくるそうだよ」
「それでもあの人たちがいる限り、利益はあがんないんじゃないの」
「おれたちも2000万円、もらいたいね」
と、まあそんな内容でした。
「天下り」した人の話のようでした。

官製談合にしろ、居酒屋タクシーの虚偽申請にしろ、昨今マスコミで取り上げられるようなことはもう長いこと行われていることであり、関係者やその周辺の人はみんな知っていることばかりだろうと思います。
少なくともそのいくつかは、私も見聞しています。
にもかかわらず、私は異議申し立てもせず、告発もしませんでした。
あまりの不快さにタクシー券を使わずに郵送で返却したことはありますが、これはバブル時の民間企業でした。
行政以上に官僚的だといわれた有名な会社の若い社員が先輩を接待し、私はなぜかそこに巻き込まれたのです。
官僚が私的な研究会に参加し、その間、公用車を待たせていることを体験したことは何回もありますし、官僚の接待に類した場に付き合わされたことも一度ならずあります。
とても不快でしたが、異論は唱えませんでした。
私は当時まだ、会社勤めだったこともありますが、それがこの世界の「常識」だと思っていたのかもしれません。

おかしいことを「おかしい」とみんなが思い出し、言い出したら、状況は変わるでしょうが、さまざまなしがらみの中で、それができないようになっているのが現在かもしれません。
電車の中の2人が、事実を告発しても、たぶん2人が会社で不利な扱いを受けて終わるだけでしょう。
マスコミは取り上げることはないでしょう。
そんな話はいくらでもあることを彼らは知っているからです。
「おかしさ」が広がり、常態化しています。
常態化しているから、みんな「おかしさ」に麻痺している面もあります。
それは自らもまた、そのおかしさに同調していくことを意味します。

そうした状況の中では、「おかしさ」は争いの具に使う好都合な材料になります。
閣僚人事で「身体検査」が話題になりましたが、そうした「おかしさの世界」で活動してきている人を蹴落とす材料を見つけるのは、そう難しいことではないでしょう。

最初の問題、「次々と不祥事が発覚することをどう考えるか」ですが、
「不祥事」が社会の常識になっているということです。
そして、現在のような社会を維持していくために、それが必要であり、価値があることなのです。
「愛国心」のために敵を倒し、愛する国(自国)の山河を破壊しないと、「売国奴」と指差され、回りの人たちに迷惑をかける。
そんな社会構造がいまも続いているわけです。
おかしいことに声をあげることの難しい社会は、どこかにひずみをもたらします。

社会構造原理を変えないと、この状況は変わらないように思います。
声を上げにくいでしょうが、「おかしいこと」をおかしいと言い出さなければいけないように思います。

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2008/06/17

■多田富雄さんの祈り

お元気の時の多田富雄さんに、一度、何かの集まりでお会いしたことがあります。
そういう場所で、私自身は著名な人には声をかけることはないのですが、
多田さんには思わず声をかけてしまったのを思い出します。
なぜ声をかけたのかわかりませんが、その時、たぶん私は多田さんの「生命の意味論」を読み終わった時で、まだ興奮が冷めていなかったのだろうと思います。
いうまでもなく、多田富雄さんは免疫学の先生です。

多田さんが脳梗塞で倒れたのは2001年でした。
そこから全く別のメッセージが出され始めました。
このブログでも一度書いたことがありますが、日本の医療制度への怒りです。

たとえば、昨年3月に講演された時の次の記事をご覧ください。
「無明なるこの世に見えて暗きほど星は眩しく光るものなれ」

その多田さんが、いま、朝日新聞のコラムでご自身のことを踏まえて書いています。
今日は6回目でしたが、タイトルは「介護に表れる人の本性」です。
その中に、こんな文章が出てきます。
とてもホッとさせられます。

介護の職員たちのたとえようもない優しさは何でしょう。
人の嫌がることでも喜々としてやってくれる。
介護には人の本性が表れます。
滅び行く者への共感。弱者の「あわれさ」への同情です。
これがある限り日本は大丈夫だと思いました。
繰り返しますが、本当にうれしい記事でした。
これは多田さんの「祈り」ではないかだろうかと思いました。
ちなみに、その前のタイトルは、
「きずな断ち切る自助努力」
「医療費を削る冷酷な国」
だったのです。

多田さんは今日の記事の最後にこう書いています。

人の幸せは、小さな安心がいつも確認できるところにあるのではないでしょうか。
何回も何回も読み直しました。
不思議ですが、涙が出てきました。
どうも最近は涙ばかり出てきて困ります。
多田さんに平安が訪れていることが、うれしくてなりません。

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■節子への挽歌289:「立ち上がれない日々」

大浦さんからの手紙を受け取った翌々日(6月14日)、このブログにコメントを書いてくださった方がいます。
上原みすずさんです。
読まれた方も入ると思いますが、こういうコメントです。

はじめまして 
節子様への想いがせつせつと伝わってきて私の想いと重なってつい書き込みをしてしまいました。
私も自分で心療内科へ行ってきましたが、時が解決をしてくれるのを待つしかないようです。
伴侶喪失より6年たっても立ち上がれない日々です。
佐藤様はきちんと生活してらして立派です。
私は知識も教養もないただのおばさんですが、又時々お邪魔さしてください。
また胸がつかえました。
上原さんも全く面識のない方です。
「立ち上がれない日々」
とてもよく実感できます。
友人知人にはわかってもらえませんが、ほんとうに「立ち上がれない」のです。
世界が一変し、その新しい世界で生きていくために少しずつ強くなっていく自分を感ずることはできるのですが、
その反面で、節子のいないそんな世界では元気に生きたくはないという、ちょっとひねくれた自分もいるのです。
ですから、いろいろな意味において、立ち上がれないのです。

愛する人を失って「立ち上がれない日々」を送っている人が、たくさんいる。
節子との別れを体験する以前は、そうしたことは頭では知っていましたが、
本当にはわかっていなかったのです。
いや、もしかして周りにいても気づかなかったのです。
たぶんいまの私の「立ち上がれない状況」は、外部からはほとんど見えないでしょう。
ということは、私もまた、そうした人たちの深い悲しみや寂しさに今でも気づいていないということです。
しかし、節子のおかげで、あるいはこのブログのおかげで、
そうした人たちのことが少し見え出したように思います。
それだけでもきっと私の人生は豊かなものになるはずです。
これはきっと節子からの贈り物なのです。

節子から教えてもらったことはたくさんありますが、
まだまだ気づいていないものがたくさんありそうです。
節子、ありがとう。

上原さんにも感謝します。
ありがとうございます。

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2008/06/16

■土壌のうすさ

岩手・宮城内陸地震で道や山が陥没したところの写真は衝撃的でした。
自然の力のすごさを思い知らされましたが、一番印象に残ったのは、樹木が生えている土壌部分の薄さでした。
しかもその土壌が、その下の岩盤の上にただ乗っているだけのように見えました。
土壌の脆さが実感できました。
私たちが生きている空間は思っている以上に小さいのです。
私たちはほんとうに脆さの上に辛うじて生存しているのです。
http://www.asahi.com/special/08006/gallery/TKY200806140236.html?ref=next

ミャンマーから四川、そして今度の地震。
自然の表情のあまりの激しさに、人間が見えにくくなっています。
私自身、感覚が少し麻痺しそうです。
何か書こうと思って、書き出しましたが、言葉になりません。

毎朝、祈ることしかできません。
被災された方たちに、1日も早い平安が訪れますように。

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■節子への挽歌288:墓前にカサブランカが供えられていました

節子
昨日、みんなでお墓に行きました。
最近は暑くなってきたので、花がすぐに枯れてしまいます。
枯れた花は節子が嫌うでしょうから、娘たちと鉢物にしようかと考えています。
昨日は、鉢物が用意できなかったので、庭の花を持っていきました。
節子が好きな花が、いま次々と咲き出しているのです。
先週供えた花は暑かったのでもう枯れてしまっているだろうと思って、お墓に着いたら、
供えた記憶のないカサブランカが見事に咲いていました。
まだ元気でしたので、きっと2~3日前に誰かが来てくれたようです。
だれでしょうか。
節子は知っているでしょうね。

時々、こうして花が供えられていることがあります。
私ではありえないことですが、花好きの節子ならではの話です。
お墓は、私たちが前に住んでいた家の近くにあるのです。
いまは転居しましたので、自宅からは4キロほどのところですが、それでも自転車でいける距離です。
きっと前に住んでいた近くの方が献花してくださったのでしょう。
それも私たちが大好きなカサブランカです。
私も節子も、カサブランカの香りも雰囲気も、好きでした。

私は毎週、お墓参りに来て、般若心経を唱えています。
家を出る時に、節子の位牌に「これから墓参りに行ってくるよ」と声をかけ、帰ると報告します。
今日は、「カサブランカが供えられていた」と報告しました。
これって、ちょっと変な気もしますが、私にはとても自然なのです。

来週は、節子が気に入りそうな鉢花をもって行く予定です。
娘に選んでもらっています。
節子は活花よりも土に根ざした鉢花がすきでしたから。

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2008/06/15

■後期高齢者政治家にも効用はあります

日曜日は毎朝、御厨貴さん司会のTBSテレビ時事放談を半分眠りながら聴いています。
いつも登場するのは、後期高齢者政治家です。
今朝のゲストは、野中広務さんと渡部恒三さんでした。

今回、あれっと思ったのは、野中さんが、郵政民営化で外資と私利のために動いた日本の政治家にみんなの財産が奪われたことを(間接的にでしたが)明確に示唆したことでした。
そして、小泉政権のツケはこれからまだ出てくるとも言いました。
いつも半分寝ているので、聞き違いかもしれませんが、確かにそのような主旨の発言でした。
それに、森さんと加藤さんが最近よりを戻した話には、「加藤の乱」を収めた自分を外したのはけしからんと怒っていました。
仲間から外された人は、こうやって真実を暴露していくのだろうと思いました。
後期高齢者医療制度に関しても、外資の働きかけであることを間接的でしたがはっきりと話しました。
きっと野中さんのところにはお金が回っていかなかったのでしょう。
怒っていましたから。

早朝6時からの番組ですが、面白いです。
政治家の実態が、時々ぽろっと見えてきます。

日本の長期金融機関や地域密着の信用金庫、あるいは郵便局、さらには最近の自主共済、そして国民皆保険や国民皆年金、そうしたものが次々と民営化や継続性の名の下に市場化されていくのが無念です。

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■節子への挽歌287:励まされるのは「遺されるもの」

本が送られてきました。
差出人は大浦静子さん。私と同世代です。
全く心当たりのない名前です。
住所を見たら金沢でした。
節子と一緒に金沢を歩いた時のことを思い出しました。
それだけで涙が出てしまいました。

本に手紙が添えられていました。

突然お便り致しますことおゆるしください。
「節子への挽歌」を毎回読ませて頂いているのですが、いつのまにか節子様が亡くなった娘郁代に、佐藤様が私に置き換わっていて毎回涙があふれ出てしまいます。
そう書き出されていました。
胸がつかえました。最近、時々、体験することです。

大浦さんは3年前、娘さん(郁代さん)を節子と同じ病気で亡くしたのです。
郁代さんが最期まで読んでいた本「いきがいの創造」の著者、飯田史彦さんのことを知りたくてネット検索して、このブログに出会ったのだそうです。
飯田さんの導きかもしれません。

同封されていた本は「あなたにあえてよかった」
「泣きながら綴った」追悼の本です、と大浦さんは書いています。
愛する人を失った時、何かしていないとどうしようもないのです。
大浦さんは、きっとこの本を創ることで、自らの魂を鎮めたのでしょう。
もちろん鎮めようはないのですが、そのお気持ちが痛いほどわかります。
本の最初のページに、「郁代がこの本を書かせてくれました」と書かれていますが、
先立つ人は常に遺される人に最大限の心遣いをしてくれます。
節子もそうでしたが、それを思うだけで胸がいたくなります。
時に泣くことも元気をくれます。

このたった数文字の文章が、私には呪文のように響きます。
とても今は読めないと思いました。
でもいつか「節子がこの本を読ませてくれました」と大浦さんに手紙を書けるようになるでしょう。

手紙にはもう一つ心に沁みる文章がありました。

34歳で亡くなった郁代は遺される家族、友人を最期まで励まし続けました。
愛する人に先立たれた当事者でなければたぶん書けない言葉です。
励まされるのは、実は「遺されるものたち」なのです。
「遺されるものたち」は、決して「先立つ人」を励ますことはできません。
ケアさえできず、実は「遺されるものたち」こそがケアされていることに気づかされます。

少し落ち着いたので、大浦さんのことを書き出したのですが、どうもまだ早すぎました。
節子のことと重なってしまい、続きが書けなくなりました。
涙でキーボードが打てなくなってしまったのです。
また近いうちに続きを書かせてもらいます。

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2008/06/14

■使用価値の生産が倍増すれば、その交換価値は半減する

「金融権力」を読んでから、プルードンの主張に興味を持ち始めています。
最近、注目されている社会哲学者のプルードンです。
彼の主著の一つが、「貧困の哲学―経済的諸矛盾の体系」です。
翻訳は出ていないのですが、その紹介論文を読んでいたら、こんなような趣旨の紹介文がありました。

価値には使用価値と交換価値の二つがあって、対立しあっている。使用価値の生産が倍増すれば、その交換価値は半減する。がんばって作ってもがんばった分だけ価値が下がる。プルードンは、こうした同じもののなかで価値が対立し合う謎を考えようとする。
紹介者は鹿児島県立短大の齊藤教授です。

がんばって野菜を作りすぎてしまうと値段が暴落し、せっかくの野菜を破棄するようなことになります。
その場合、野菜を破棄することで、交換によって獲得する貨幣(交換価値)は増加するわけですが、野菜は破棄されますから使用価値全体は減少することになります。

齊藤さんはこう続けます。

この対立は生産物を生産者の視点で見るか、消費者の視点で見るかによるものだ。そして個々の視点ではなく全体の視点から見ると生産者と消費者はイコールだから、社会が豊かになるとは単純に生産物の量が増えることではない。
つまり3つの視点があるわけです。
生産者の視点、消費者の視点、そして社会の視点です。
生産者にとっては交換価値が重要ですが、消費者にとっては使用価値が重要です。
社会の視点にとってはどうでしょうか。
そのどちらに重点を置くかで、その社会の性格が決まってきます。
経済優先社会は交換価値を、生活優先社会は使用価値を、それぞれ重視します。
日本は一時期、生活優先社会を目指すことが盛んに言われましたが、実際には経済優先社会の路線が続いています。
ですから豊作時に野菜は廃棄され、減反休耕が奨励されます。
そして、交換価値が高いほど商品の価値が高いという文化が広がり、交換価値手段である金銭を獲得する度合いで人間の価値が評価される社会になってきました。
経営学における企業価値さえも、その枠組みで決まりますから、その企業がどのような価値を創造しているかどうかなどは、二の次になります。
企業不祥事は、現在の経営学の発想に基づいて起こるべくして起こるわけです。

長々と書きましたが、大切なことは、
「使用価値の生産が倍増すれば、その交換価値は半減する」
ということです。
「価値」とはいったい何なのか。
経済成長とは何なのか。
プルードンの問題提起はとても魅力的です。
彼の「進歩の概念」も示唆に富んでいます。
「貧困の哲学」の翻訳が出版されるのを待ち望んでいます。

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■節子への挽歌286:目覚めの悪さ

節子がいなくなってから、よく寝たなと思うような目覚めを体験することがなくなりました。
夜中に何回か目が覚めたり、明け方早く目が覚めたりすることが影響しているでしょうが、その分早く眠るようになりましたので、睡眠時間はそう変わってはいないはずです。
睡眠の深さもそう違っていないように思います。
しかし毎朝なぜかいつも寝不足感があるのです。

いつも横で寝ていた節子がいなくて、独りで寝ているせいかもしれません。
人は寝ているときも意識や生気を交換し合っているのかもしれません。
あるいは、朝、起きた時にいつも隣にいた節子がいないことが影響しているのかもしれません。
横に節子が寝ていたら何が違うのかといわれそうですが、気持ちが全く違うのです。
特に目覚めた時に、誰もいないベッドが隣にあることで、節子の不在を毎朝、体感させられるわけです。
それならば、ベッドを片付ければいいようにも思いますが、たぶんそれではもっと気が抜ける結果になるでしょう。

以前、人は「何のために生きる」というよりも「誰のために生きる」ものだと書きましたが、その「生きる目的」が五感で確かめられるかどうかで、生きる手応えは違ってきます。
それが起きる(生きる)モチベーションにつながり、寝不足感に繋がっているのかもしれません。
睡眠時間が少なくとも、「生きる張り」が強ければ、目覚めた途端に心身はシャキッとし、寝不足感などは生じようもありません。
そういう時は、眠っているのさえもったいない気がするものです。

最近つくづく感じるのですが、「忙しさ」と「時間」とは別物のようです。
それと「生きる時間」の感覚は、その人の「生命の意識密度」に関わっているようです。
私にまたわくわくするような目的が持てるようになれば、きっと寝不足感は解消されるでしょう。
朝の目覚めもきっとすっきりしてくるでしょう。

先日、秋葉原でとても不幸な事件が起きました。
通り魔事件を起こした人も、きっと「わくわくするような目的」をもてなかったのです。
前にも書きましたが、社会がとてもおかしくなってきているのは、「わくわくする目的」が見出せない人が増えているためなのかもしれません。
誤解を招きそうな言い方ですが、最近は事件を起こす人たちの絶望感が、ほんの少しですが、わかるような気がしてきました。

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2008/06/13

■石森章太郎と手塚治虫

ひと月ほどまえに、NHK教育テレビで、石森章太郎の特集番組をやっていました。少しだけ見ましたが、そこで誰かが手塚治虫との対比で、石森章太郎にはペシミスティックな雰囲気があるというようなことを話していました。
なぜかそのことが気になって、2人のいくつかの作品を読み直してみました。

石森章太郎にしろ、手塚治虫にしろ、SF漫画にはなぜか「明るさ」と「くらさ」が同居しています。
手塚治虫が「アトム」を書き出したのは、私が小学4年の時です。
「少年」という雑誌に連載が始まりました。
その時の印象はとても明るい印象でした。
勧善懲悪思想やどんな問題も最後には解決されることが、基本にあったからです。

ところが、20年ほど前ですが、娘たちが、「手塚作品はくらいね」と言うのです。
わが家には手塚治虫の本がかなりあったのですが、それを読んでの感想です。
たしかに「火の鳥」などは読み直したくないほどの暗さが全編を覆っていますが、娘たちが読んだのは、私が子どもの頃読んだ、たとえば「鉄腕アトム」への感想です。
それで私も読み直しましたが、たしかに暗いのです。

そこで気づいたのですが、未来を描く作品は、なぜかみんな暗いのです。
コミックに限りません。
小説も映画も、希望よりも諦観のようなものが多いように思います。
最後に「ひとすじの希望」を残すとしても、基本はとても暗い未来ばかりです。
私が好きな日本のSF小説は、光瀬龍や小松左京でしたが、いずれの未来観も重苦しいほどに暗いです。
私が大好きだった光瀬龍の宇宙年代記ものは、恐ろしいほどの悲しさに満ち満ちています。
手元にありますが、読む気力は出てきません。

石森章太郎の代表作「009シリーズ」は、はじまりからして暗い設定ですが(最初から主人公の未来は封じられています)、私はこれまで手塚作品よりも「悩み」がないあっけらかんとした作品と受け止めていました。
しかし、そのテレビを観て、そういえば石森作品にはなぜか音がないと気づきました。
たしかに読み直してみても、音がないのです。
テレビで話されていた「エッダ編」がちょうど手元にあったので読み直してみました。
北欧の神話にある古代文化が題材になっているのですが、たしかに手塚作品の「三つ目が通る」とは全く違います。
「三つ目」には騒々しいほどの音を感じます。

手塚と石森の子ども時代は微妙に違っているはずです。
科学や技術に対する基本的なイメージも違うでしょうが、なによりも「人間」の捉え方が違うように感じます。
私には、手塚作品には「人間」が見えるのに、石森作品には「人間」が感じられないのです。

最近の作家はどうでしょうか。
私は最近のSFコミックはほとんど読んでいないのですが、もっともっと人間から遠いところから描かれているような気がします。

退屈なことを長々と書いてしまいましたが、作品の中に時代がしっかりと反映されているとともに、もしかしたら時代の状況が同じ作品の印象を変えてしまうのではないかということを感じています。
それがどうした、ということですが、手塚世代と石森世代とは、大きく違うのだろうなということを書きたかっただけなのです。
つまり、いまの世代はもっと大きく違うわけです。
みんなの心の中から、もしかしたら「人間」が消えてしまいつつあるのではないか、そんな恐ろしさを感じています。
昨今の事件も、こうしたことと無縁ではないのかもしれません。

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■節子への挽歌285:Wii Fit ブーム

節子
最近のわが家のささやかなブームはなんと Wii Fit です。
ユカが買ってきたのですが、みんなすっかりはまってしまいました。
節子がいたら、どんなに喜ぶか、時々そう思います。

自分のキャラクターは画面で創るのですが、節子のキャラクターももちろん創りました。
限られた顔の構成要素の組み合わせでできるのですが、それぞれ特徴を抑えて、それなりに似たものができるものです。
節子はもっと美人だぞという私のアドバイスは無視され、実態により近いものになってしまいました。
節子が見たら、ちょっと不満かもしれません。
もっとも、私に至っては目は細い横棒1本だけですので、ぜいたくはいえません。

そのプログラムでは体力測定などありますが、最初にやった時には私の年齢は55歳相当でした。
画面の中の私が小躍りしてよろこんでいました。
気を良くしていたら、2回目の測定ではなんと75歳でした。
そして、その次は64歳と乱高下です。
一番ダメだったのはフラフープでした。全く続かないのです。
どうも運動神経はかなりダメなようです。
それを知ったら節子はまた手をたたいて喜ぶでしょうね。

しかし、この Wii Fit はよくできています。
節子もきっと好きになったことでしょう。
わが家族の運動不足は、これで少し解消されそうです。

根本さんが私に毎朝ラジオ体操をするように勧めてきました。
努力しますと返事しましたが、まだ実現していません。
そういえば以前、根本さんは何かよくわからない室内スポーツ器具を送ってきてくれたことがあるのを思い出しました。
せっかくの根本さんのプレゼントなのに1回も使わずにいました。
私は「体育会系」ではないので、どうもスポーツは苦手なのです。
それに継続することがなかなか出来ない人間なのです。
だから「文科会系」は嫌いなのという節子の声が聞こえてきます。
しかし、この Wii Fit は続けられそうです。
残念なのは、節子とゲームで競えあえないことです。
修もなかなかやるわね、と節子に言わせたかったものです。
反対の結果になる可能性も無いわけではありませんが。
とりわけ、フラフープはだめのようですが。はい。
しかし綱渡りはちょっとうまくなりました。

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2008/06/12

■秋葉原通り魔事件の報道と首相問責決議の報道

秋葉原通り魔事件に関しては相変わらずの詳細報道です。
親や親戚まで引き釣り出されていますし、犯人の過去がこれまでもかこれまでもかと暴かれています。
コメンターの中には、その背景にある問題にも言及していますが、画面そのものは個人追及ばかりです。
コメンターも個人に罵声を浴びせるだけです。
まさに「心理主義の罠」を感じます。
「卑怯者」と繰り返し言った「有識者」もいますが、不快な気がしました。

私のこのブログも、個人を罵倒することがありますが、
念のために言えば、その対象は原則として公的な職責を持った人に限っています。
そして、私の罵倒の対象は、主にその職責に向いています。
弁護士や政治家や官僚は、体制を象徴し、大きな権限と身の保障を与えられていますから、
批判の対象になって当然と思っているわけです。
それでも「罵倒」はよくありません。
その罵倒はいつか必ず返ってくるばかりでなく、書く人の品格を疑われ、記事の説得力は激減します。
しかし、それでも罵倒したくなる時はあるものです。

いまもそんな気分です。
事件を起こした犯人のことをこれほど詳しく報道し、類似犯を誘発しようとしているのか。
犯人の周辺を巻き込んで、その人たちの生活を過剰に乱そうとしているのか。
それほどまでして、権力に媚を売り、社会を混乱に貶めたいのかと、言う気分です。
腐ったマスコミを育てた私たちの責任ですが。

この事件の刺激的な報道の中で、
首相問責決議は、単なる民主党小沢代表の悪あがきとされてしまい、
首相信任決議という無意味な決議と同列に置かれてしまいました。
最近、秋葉原事件は政府の陰謀ではないかというメールさえまわってきましたが、
そんなメールさえ出回るほどのひどい報道環境です。
一国の首相の問責決議の意味をもっとみんな認識すべきです。

国民の意向を無視し、あるいは国民を騙し、
格差社会を目指して利己的な政策を強行している福田政権に対する国民の支持者は、
世論調査によれば、4人に1人です。
しかし、衆議院の国会議員は厚顔にも信任決議をするわけですから、
議員そのものがもう国民を代表しているとはいえないでしょう。
「騙しの選挙(郵政民営化選挙)」で転げ込んできた既得権をフルに活用して、
私利私欲をむさぼっておこうと言うのが今の福田政権です。

罵倒が過剰でしょうか。
品格のない表現でしょうか。
しかし、福田首相の品格のなさに比べれば、たいしたことはないでしょう。
マスコミの品格のなさに比べたら、どうということもありません。
いや、これが「罵倒」なのでしょうね。

民主党に、自分たちだけで政権遊びをしていないで、
国民にも呼びかけて、問責運動を起こすべきではないかとメールしました。
問責活動を国会内で行っているだけでは、何も変らないでしょう。

秋葉原通り魔事件と首相問責とは深く繋がっていると、私は思います。
秋葉原通り魔事件は、この10年近くの政治が引き起こした事件のように思えてなりません。
そして、まだこれからもこの種の事件が起きないとも限りません。
それほど社会の実相は病みだしています。
今回の事件の教訓を謙虚に考える必要があるのではないでしょうか。
個人やその周辺を責めて終わる話ではありません。
責めるとしたら、首相を頂点にする、今の政治と経済です。

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■節子への挽歌284:節子の位牌は3人のキスケが守っています

節子
篠栗の大日寺に連れて行ってくれた大宰府の加野さんから電話がありました。
その後もいろいろと心配してくれているのです。
今日も篠栗に行って護摩を焚いてもらってきたというお話でした。
節子は話しましたか。
今月の15日前後に何か大きな事件が起こるかもしれないが、護摩を炊いて不動明王に守ってくれるように頼んできたとのことでした。
自分たちだけ安全を確保しようという発想は私には全くありませんし、節子との別れ以上のものは私にはあるはずもないのですが、加野さんのお心遣いには感謝しなければいけません。
加野さんがどれほど娘の寿恵さんを愛していたかがよくわかります。
彼岸では、その寿恵さんと節子は一緒に花の手入れをしているのです。
2人のことをよく知っている私には、その光景が良く見えます。

加野さんは、東京のほうの新盆はいつなのか、どういうようにするのかと聞いてきました。
私の常識不足を知っているので、加野さんもきっと心配してくれているのでしょう。
そろそろ新盆の準備をしなければいけません。
基本を守りながら、できるだけ「わが家ライク」にやろうと思います。
基本さえ守れば何でもあり、が「わが家ライク」なのです。
これは節子と私が完全に合意していることで、基本に反するもの(非常識なもの)への拒否感も強いのです。
常識不足ですが、基本的なマナー違反には厳しいのがわが夫婦でした。
もっとも何が基本的マナーなのかは、いささか独り善がりではあるのですが。

わが家の仏壇(位牌壇)も「わが家ライク」です。
節子はきっと笑いながら認めてくれるはずですが、お寺のご住職が来る時にはちょっと片付けたほうがいいかもしれません。
位牌の前に小さな仏像がありますが、これはまだ仮のものです。
そのうちに、娘が心込めた本尊(大日如来像)を製作します。
その右にはルール通り弘法さんがいますが、左側にはなんと「おじゃるまる」のキスケ3人組が守護しています。Kisuke
キスケといってもわからない人もいると思いますが、閻魔大王の仲間の子鬼なのです。
前世はヒヨコだったらしいです。

その下に真紅のバラのポプリがあります。
なぜこんなのがあるのだと娘に聞いたら、私が節子に供えたバラをポプリにしてくれたのだそうです。
実はその頃のことは、私の記憶から抜け落ちています。
ベネチアングラスのキャンドルもありますし、ミニサイズのご焼香セットもあります。
まあ、他にもいろいろあるのですが、まさにわが家向きの位牌壇なのです。
本格的な仏壇にはしたくないと言っていた節子にはたぶん気にいってもらっているはずです。
なぜか手を挙げたパンダまでいますが、これはきっと節子好みではないでしょう。
まあしかし、少しは均衡を破るようにしておかないと世界は退屈です。

話がどうも外れてしまいました。
書きたかったことはまた改めて書きます。

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2008/06/11

■問責決議が無視される独裁国家

参議院で首相の問責決議が可決されました。
しかし首相は全くの無視です。
小泉元首相は、笑いながら「問責決議などたいしたものではない」と話しています。
古館さんではないですが、笑いながらの不真面目さには呆れます。
このことのおかしさは、もっと話題になっていいと思いますが、
問責決議がなされる前から首相は無視することを言明し、マスコミもそれを受容していました。
おかしな話です。

多くの国民が反対していることを今の福田政権は強行してきました。
その無法ぶりをマスコミも有識者もほぼ放置していますが、
それはたぶん「民主主義精神」の死につながりかねません。
主権在民を明言している憲法に違反しています。
憲法の精神を無視する首相が少なくとも3代は続いていると私は思いますが、
そうした国家において、遵法精神が風化するのは避け難い話でしょう。

最新号の「軍縮問題資料」(7月号)に、澤地久枝さんと姜尚中さんの対談が載っています。
多くの人に読んでほしい対談ですが、そこで澤地さんがこう述べています。
この部分だけ引用するのは危険かもしれませんが、澤地さんのことを知っている人は誤解はしないでしょう。

残念ですけど敗戦以前の方がこれほどひどくはない。なぜかというと、もちろん軍の横暴はいろいろありましたけれど、最高責任者たちは天皇に叱られたら辞める。田中義一は「お前の言うことは嘘がある」と言われて辞めた。だからね、統治権が天皇にあった時代から、ともかく今は主権在民になってるけれど、この主権在民の主権者たちが偉くないの、全然。政治家にとって怖くも何ともない。こんなひどいことはないでしょう。
結局は天皇も軍の横暴を止められなかったわけですし、澤地さんの発言の意図は要するに、日本では国民が見下されているという話なのです。
三権分立の思想は日本にはほとんどありませんし(形だけはありますが、機能していません)、ジャーナリストも取り込まれていますから、いまや暴走を止める術はないのかもしれません。

こうした状況の底流には、差別意識と恐怖感があると、姜さんは言います。
それに加えてメディアの劣化。
お2人とも、マスコミが「お上は絶対間違わない」ということを受け入れているというのです。
差別意識と恐怖感を煽っているのは、マスコミではないかと私は思っていますので、とても共感できます。
いまのマスコミで、ある程度自己主張しているのは「報道ステーション」と「報道2001」だけだと私は思っていますが、その2つもかなり圧力を受けているようにも感じます。
しかし古館さんが嫌いな人は多いですね。
どうしてでしょうか。
出る杭を叩き込みながら、自らの不幸を呼び込むのが私たち大衆なのかもしれません。
なんだか憂鬱になってしまいます。

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■節子への挽歌283:「余計なお世話」は人の本質

佐久間さんが、ご自身の著書の「愛する人を亡くした方へ」の内容をプロのナレーターに朗読してもらったCDを送ってきてくれました。
佐久間さんのいつもながらのきめ細かな心遣いには感謝しています。
いつか必ず聞こうと思っていますが、今はまだ聴けていません。

佐久間さんも時々、このブログを読んでいるので、慎重に書かないといけないのですが、
こうした心遣いはとても難しいものです。
というか、微妙な要素をたくさん含んでいるのです。
自分が当事者になったことでわかったことは、グリーフケアの難しさです。
このブログでも以前書きましたが、悲しみにひしがれている人はいささか精神的に不安定なのと素直さを欠いていることがあるので、常識的な論理対応が出来ないことがあるのです。
このブログを読んでいる方は何度か感じているかと思いますが、
私の反応は過剰であり、歪んでいることがあり、その上自分勝手なことが多いはずです。
それは自分でもわかっていますが、どうしようもないのです。

佐久間さんは、その分野のプロですから、決して押し付けがましくなく、しかもリスクをしっかりと引き受けながら、時には意図的に「余計なお世話」をしてきます。
佐久間さんにとって、それは何のメリットも無いはずですが、たぶん心身が自然と動くのでしょう。
これは実は私の生き方に繋がるところがあります。
私もかなり「余計なお世話」をするタイプですので、佐久間さんのことがわかるような気がします。
そうした「余計なお世話」は、人のいのちに埋め込まれているケアマインド、ホスピタリティスピリットなのではないかと思います。
そして、それこそがグリーフケアの真髄なのかもしれません。

西村ユミさんという方が書いた「交流する身体」という本があります。
先日、コムケアの橋本さんと話していて、その本を思い出しました。
いつかまた書こうと思いますが、人の身体は外部の身体と自然と呼応するように創られているようです。
「余計なお世話」は人の本質なのかもしれません。

そういえば、節子も「余計なお世話」が好きでしたね。
人生をシェアしあうということは、余計なお世話が余計ではなくなるということかもしれません。
何だか論点があいまいになってきましたが、
佐久間さんを初めとした友人知人からの、無私で利他的な「余計なお世話」にいろいろと救われています。
節子と声を出し合って、そのことを感謝しあえないのが少しだけ寂しいです。

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■スピード社水着レーザーレーサーとドーピング

話題になっているスピード社の水着レーザーレーサーが解禁されました。
私は最近のオリンピックへの関心はほとんどないのですが、ますます関心を失いました。
「参加することに意義がある」というクーベルタンの言葉も、参加すれば良いという話ではなく、勝つために最大の努力をすることが含意されています。
クーベルタンがこの言葉に言及した時、次のようにも話したそうです。

「人生において重要なことは、成功することでなく、努力することである。根本的なことは征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。このような教えを広めることによって、いっそう強固な、いっそう激しい、しかもより慎重にして、より寛大な人間性を作り上げることができる」

ですから私も、参加が目的だとは思いませんが、勝負に勝つこと、記録を伸ばすことが目的だとも思いたくありません。
「より寛大な人間性を作り上げること」こそが目的にされるべきでしょうし、集まって真摯に競い合うことでふれあいが深まり、平和が目指されるのであれば、オリンピックはすばらしいイベントだと思います。
「参加することに意義がある」とは「平和」に繋がる言葉です。
そうであれば、競い合いは称えあいとセットでなくてはいけません。

しかし昨今のオリンピックや、他のスポーツ大会も、勝つことが最大の目的になってしまっているように思えます。
なぜそうなったかといえば、たぶんそこに「金銭経済」が入り込んできたからだと思います。
その結果、勝つために様々な手段が考案されます。
その一つがドーピングです。
さすがにドーピングは禁止されました。

レーザーレーサーは、着用に20~30分もかかるそうです。
そして身体を極限まで締めつけると新聞に書かれていました。
考えようによっては、人間を機械的に改造するようなものです。
ドーピングとどこが違うのか。
最近のスポーツが進んでいる方向に大きな違和感をもちます。
もっと称えあう、人間的な競い合いを見たいものです。
先場所の大相撲の横綱戦が、人間的だとは全く思いませんが。

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2008/06/10

■節子への挽歌282:節子に会社の経理を押し付けていたことを反省しました

節子
今日は税務署に行ってきました。

節子が元気だった時には、私たちの会社の経理はすべて節子がやってくれていました。
節子自身、数字には全く弱いし、経済感覚はどこか抜けていましたが、私が会社勤めを辞めて私たち2人の会社を立ち上げてからは、苦労して経理を担当してくれました。
仕上げは税理事務所にお願いしていましたが、可能な範囲で節子が整理してくれていました。
数字に弱い節子はとても苦労していました。
簿記を習いだしたもののすぐに通うのをやめました。
節子は、そういうところは私と全く同じで、嫌いなことには持続力が皆無でした。

簿記など全くわからない節子に、無理難題を押し付け、何か問題が起こればすべて節子のせいにしてしまっていた自分を今は反省しています。
その上、利益の出ない会社で無給に近かったですし、家賃も払えなくなって娘たちの定期預金を解約させて使い込んだこともありますから、まあいろいろと節子には苦労をかけたはずです。
いやだったはずなのに節子は最後までやってくれました。
ですから私たちの会社が奇跡的に20年続いたのは、節子がいればこそでした。
そのストレスが病気の一因にもなっていたはずですから、節子は私の身代わりだったのだという意識が、今もない私には拭えずにいます。

お金がなくなってしまったので、今回の税務申告は税理士に頼まずに私がやってみました。
1年分の現金出納簿も3日がかりで私が作成しました。
節子の苦労がよくわかりました。
収入はあまりなかったのですが、私自身の給与もほぼゼロにすることによって、会社の損益は何とか3万円の黒字に持っていけました。
昨年度だけは赤字にしたくなかったのです。
それで先月、税務署に申告に行きました。
ホッとしていたら、税務署から電話がかかってきました。
何だかドキッとしましたが、行ってみたら、単なる数字の転記ミスの修正でした。
でもこれからもやっていけそうです。

節子と一緒にやってきた会社(株式会社コンセプトワークショップ)は無くしたくないと思っています。
湯島のオフィスも閉鎖せずに持続させます。
なにしろ節子と一緒に創りあげてきた、私たちの作品なのですから。

今年度は私も少し給与をもらえるように、仕事も引き受けようと思っています。
節子も応援してください。

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■地産地消と地消地産

地産地消から地消地産への動きが広がっているようです。
この2つは似ているようで、発想の基盤は全く違うように思います。

地産地消は、「地元で生産されたものを地元で消費する」という意味ですが、地消地産は「地元で消費する農産物は地元で生産する」という意味です。
地産地消の動きの中で、いち早く地消地産を打ち出した中山間地域の富山県氷見市では、2003年に「地消地産推進協議会」を創設し、単に地元で生産したものを地元で消費するだけでなく、「地域の需要動向を把握しながら、それに見合った生産計画をたて、安定的な生産体制を構築する」という「地消地産」活動に取り組んでいます。
地産地消に比べて、地消地産は「攻めの農政」とも言われているようで、他の地域にも広がっているようです。

両者の違いは、しかし、理念の違いのような気がします。
地産地消が生産を起点に発想しているのに対し、地消地産は消費を発想の出発点にしています。
前者は「農業パラダイム」であり、後者は「工業パラダイム」といってもいいでしょう。
あるいは前者は生態型経済ですが、後者は成長型経済です。
言葉は似ていますが、発想のベクトルや理念は正反対といえるかもしれません。

地産地消は自給型経済に価値があるわけではありません。
そこにはもっとたくさんの価値や意味が含意されています。
そうした価値を、経済的価値と同じ次元で考えてしまうと、地産地消から地消地産へという動きに向かってしまうことになるでしょう。
今求められているのは、消費のための「生産のあり方」ではなく、持続可能な社会のための「消費のあり方」なのです。
そのことを忘れた食育や農業政策は、新しいように見えて、これまでのものとなんら変わらないような気がします。

消費のために温室トマトを作ることの問題を思い出さなければいけません。

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2008/06/09

■怒りの矛先がわからないための無差別殺人

わが家に Wii Fit がやってきました。
数年前から話題になっている健康管理のゲームです。
はじめた途端に、家族全員はまってしまいました。

からだ測定やトレーニングのプログラムがあります。
利用者の立場に立って、様々な工夫がなされていますので、
使いやすいばかりではなく、面白く継続する気にさせられます。
毎日、娘たちと1時間くらい盛り上がっています。
かなりハードなものもあり、3日間しかやっていないのに、身体の節々が痛いです。
わが家族は、それぞれ好みが違うのですが、このWii Fitに関しては同じように楽しめます。
それに、それぞれの健康管理にもつながるので、時間や関心を共有できるのです。
久しぶりに家族みんなで笑い転げる風景が生じています。

家族3人でやりながら、ロバート・パットナムの“Bowling Alone”を思い出しました。
チームゲームだったはずのボーリングを、独りでやる人が増えているという話です。
ソーシャル・キャピタル概念の出発点になった論文です。
日本でも、人と人とのつながりがなくなり、遊びも「個人化」しています。
最近の電子ゲームの多くは、画面を見ながら一人で勝負するものも多いです。
しかもそこでは「生死」がゲームの対象に組み込まれることが少なくありません。
そうしたゲームを一人でやっていたら、どうなるか。
しかも、現実の社会は、非人間的な競争が広がる格差社会です。
ゲームの世界が、まさに展開されているのです。
現実の世界とゲームの世界が、いろいろなところで繋がってしまい、
虚実混同の危険性が広がっているように思います。

昨日、秋葉原でとても残念な事件が起きました。
最近またこの種の無差別殺人事件が連続発生しています。
加害者に同情するつもりはありませんが、
それでも加害者の持って行き場のない怒りや悩みを考えると、
加害者もまた被害者なのだと思わざるを得ません。
彼らの怒りや迷いを発散させ解消させる場がないのです。

家族が風化し、近隣社会が崩壊し、「自己責任」思想が蔓延している社会は、とても生きにくい社会です。
人は「つながり」の中でこそ、人らしく生きられるのですが、
その「つながり」がなければ社会の部品にならなければ生存さえもが保障されません。
それが、どれほど生きにくい社会なのかは、問題に直面しないとわかりません。
ですから多くの人は、自分から「つながり」を切り捨てていきがちなのです。

私のこの10年の活動は、そうした認識の上に立っています。
たとえば、周りに声をかけて、みんなが支えあう小さな会社を立ち上げました。
インキュベーションハウスという会社ですが、見事に挫折中です。
今も半分の仲間は残っていますが、その会社はお金の利益を上げるのではなく、
つながりを育てるためにお金を投ずる会社だったのですが、
その意味がほとんど理解してもらえませんでした。
会社であればお金を稼がないといけないと厳しく批判されました。
その批判に対して私もほとんど説明できませんでした。
しかし、お金ではない「利益」もあるだろうにと思っています。

秋葉原の事件とWii Fitとインキュベーションハウス。
いずれも関係ない話のように感じられるかもしれません。
しかし、私にはみんな繋がっているように思います。
もっとみんながつながって、怒りや悩みや、そして喜びをシェアできる社会に生きたいと思います。
Wii Fitの「つながり育て」版に期待しています。

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■節子への挽歌281:シェアすることの幸せ

節子の愛用していた手提げがあります。
節子の品物は、まだ当時の状況のままなのですが、そこに小さなアクセサリーがついているのに気づきました。
「同行二人」と書かれた小さなお遍路さんのマスコット人形です。
お見舞いに来てくれた人から節子がもらったもので、以来、ずっとその手提げにつけていたのです。
その手提げも、節子の友人が手づくりした裂き織のかばんです。
私の中では、節子にしっかりと繋がっている品物で、そこからたくさんの生活が思い出されます。

同行二人。
お遍路さんにとっての意味とは全く違いますが、人生もまた「同行2人」です。
人生を共にする人がいることの幸せは、いなくなった時に初めてわかります。
一人で生きることの気楽さや幸せもあるでしょう。
たしかに昨今のような社会においては、一人で生きていくことも可能ですし、何かに挑戦する時に単身のほうが思い切り跳べることもあるかもしれません。
伴侶がいることが、足かせになることもないとは言いません。
しかし、悲しみも喜びも、シェアできる人がいるかいないかで大きく変わります。
私のような弱い人間の場合、生きる力が全く変ってくるように思います。

DVのような関係もあり、同行2人がいつでも良いわけではないかもしれませんが、人がカップルを組むのは、単に子孫を残すためではないでしょう。
伴侶の不幸が自分にもつながってくるから、不幸になる確率が倍増する恐れはありますし、50%の確率で相手に先立たれる悲劇を背負うことになります。
しかし、実際に体験してみると、その悲劇もまた人生を豊かにしてくれるものなのかもしれません。
人生の幸せは、個別事件の幸せや不幸を超えているのです。

人生をシェアする相手と同居していなければいけないわけではありません。
事実、私はまだ節子と人生をシェアしていると思っています。
人生をシェアしている節子と直接話し合ったり、抱き合ったりすることが出来ないことの寂しさは残りますが、それでもシェアしている人がいないことのほうが寂しいかもしれません。

余計なお世話ですが、結婚はしないと決めている方はぜひ思い直してほしいものです。
また結婚しているにもかかわらず、シェアする世界を限定している方がいれば、ぜひともシェアしている世界をもっともっと深め広げてほしいものです。

もちろん、人生をシェアする相手は異性の結婚相手に限るわけではありません。
異性であろうと同性であろうと、人生はシェアできますし、相手の意向とは全く無関係に人生をシェアすることだってできるかもしれません。
お遍路さんの「同行二人」は、まさに巡礼だけでなく、私たちの人生を支えてくれる発想です。

シェアすると自分の分け前が減ってしまうものもありますが、
シェアすることで双方の分け前が大きくなるものも少なくありません。
シェアしあうことで幸せを大きくしてことが基本になる社会になっていけばいいなと、つくづく思っています。

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2008/06/08

■人件費が安い中国こそ高級品の生産地

先週のある集まりで、中国で有機農業が広がりだしているという話をお聞きしました。
この話を聞いて、ハッとしました。

中国は人件費が安い、だからコストダウンができるので安い商品を生産するための適地だ、と私はこれまで考えていました。
その発想で行くと、中国産の商品の特徴は「安価」ということになります。

しかし、人件費が安いということは、もう一つの側面があります。
人手をかけることができるということです。
日本で人手がかかる有機農業は難しいでしょうが、中国であれば人手の投入が相対的にやりやすく、手間暇かけた安全で美味しい食材が創れるはずです。
つまり、中国はバリューアップした高価な商品を生産する適地なのです。
その発想で行くと、中国産の商品の特徴は「高級」ということになります。

どちらを起点に置くかで、全く違った考え方ができるわけです。
昨今の経済は、小売段階が価格設定のイニシアティブをとっており、前に書いたように「価格-利益=原価」というコストダウン路線が産業の主流になっています。
しかし、発想を逆転させて、「原価+利益=価格」という枠組みで商品作りを考えれば、日本とは全く違った商品戦略が構想されるはずです。
視点をちょっとずらすだけで、世界の見え方は変ってきます。
中国の見方を変えなければいけないと思いました。

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■節子への挽歌280:色即是空 空即是色のような心境

高崎市で「ゆいの家」を主宰していた高石友江さんから手紙をもらいました。
毎月、「風の大地」というニューズレターを送ってきてくださるのですが、この1年、私宛のニューズレターや機関紙類はほとんど読まずにいました。
最近やっと私に届いているいろいろな書類に目を通すようになったのですが、「風の大地」に「お元気ですか」という高石さんのメモが書いてありました。
節子のことを知らせていなかったことに気づき、先週手紙を書いたのですが、その返事です。
実は高石さんの伴侶が節子と同じ病気で、その対応の仕方もとても似ていたのです。
そんなこともあって、気になっていましたが、高石さんのパートナーはこの春から職場復帰が出来たそうです。
本当にうれしい話です。
同じ病気と知ると、なんだか同士感覚が芽生えるものなのです。

高石さんは、私と違い、とても冷静です。
「主人は主人の人生だからと少々覚めた感じで対応していましたし、これでまた再発と言われても覚悟はしています。むしろ今こうして元気にいられることを日々感謝して生きたいとおもっています」

私とは対照的な関係の持ち方です。
夫婦の関係や愛し合い方の関係はいろいろありますから、どれがいいなどとは言えませんが、私たちの場合も高石さんたちのばあいも、自分たちに合った関係を大事にしているということだと思います。
しかし、たぶん私も高石さんも、伴侶の病気によって、自らの人生観や生き方を大きく深めていることは間違いありません。
高石さんはこういいます。
「主人の病気を通して、一層、今こうして生きていられるありがたさを感じるようになりました」
そして、最後に、
「自己探求をどんどんしていくと何か大きなものにつながって、色即是空 空即是色のような心境になっていきます」
と書いています。

全くその通りです。

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2008/06/07

■居酒屋タクシー事件に思うこと

中央官庁の官僚たちが深夜帰宅で使ったタクシーの運転手から現金や商品券などを受け取っていた事実が話題になっています。
「居酒屋タクシー」と呼ばれているそうですが、ビールのサービスを受けてどこが悪いのだと思う人もいるでしょう。
事実、当の官僚たちの多くはそう受け止めたようです。
国土交通相さえもが、なんで問題にされるのかといわんばかりの、歯切れの悪いコメントでした。
官僚に助けてもらっている閣僚たちの立場がよくわかります。
そうした閣僚に、公務員制度改革などできるはずがありません。
当の官僚の助けをもらって形は一応整えましたが、ほとんど意味はないでしょう。

それにこうしたことが行われていたのは今に始まったわけではなく、おそらく多くの人たちが知っていたことでしょう。
マスコミで話題になるような話は、ほとんどはその世界ではよく知られた話であることが多いのがこれまでの実状です。

今回の事件で気になるのは、当事者も関係者も、たいした問題ではないと思っていることです。
それは彼ら官僚に限らずに、社会全般の風潮もそんなように感じます。
ですから、世間もたぶんまもなく忘れてしまうでしょう。
同じような種類の、違った問題がまた次々と出てきて、マスコミの関心事はそちらに移るような気がします。
マスコミはうまく利用されてしまっているだけかもしれません。

しかし、問題は一つずつ解決していくべきです。
今回の問題の解決は、その気になれば至って簡単です。
問題の本質は、官僚がタクシーでなくては帰れないような時間まで仕事をしていることです。
その根幹を考え直せば簡単に済む話です。
勤務時間中に仕事を終えられない無能な人は解雇すればいいだけの話です。
そのために勤務時間はあります。
日本の官僚の能力はたぶん民間人に比べてはかなり低いと思いますが(アウトプットは高くてもアウトカムは低いでしょう)、それでも最終電車に間に合うくらいには仕事を終えるのが常識と言うものです。
真面目に仕事をし、最小限の常識と質無能力があれば、それは可能なはずですし、可能でないとすれば体制がおかしいのです。
官僚が役所で何をしているか、一度きちんと調べればわかるはずです。
官僚出身者はおそらくその実態を知っているはずです。
誤解があるといけませんが、彼らが忙しいことと作業能力は高いことは否定しません。
しかし、簡単に言えば、誠実に生きている人たちに役立つ仕事はしていないということです。
ミッションを履き違えているといってもいいかもしれません。
それは単に無能で怠惰だからです。志などほとんどないはずです。
そうでなければ今のようなことにはなりません。

もちろん勤務時間中には終わらないこともあるでしょう。
そのため深夜まで仕事をしていて、帰るのが午前さまなので、翌朝は10時出勤になるわけですが、それも時間帯を3時間前倒せばいいだけの話です。
7時に出所して、11時に帰ればいいのです。
公共機関を使えるはずですし、環境問題の面からもそうすべきです。
もし環境問題に、庶民程度には真面目に取り組もうと思うのであればですが。

国会議員への対応のために夜型でないといけないという意見があるかもしれませんが、時にはそうした事態もあるかもしれませんが、今のように常態になるはずはありません。
夜遅くまでこうこうと電気がついている役所に巣食っている人たちは、恥を知るべきでしょう。
真面目に仕事をしていないか、無能で怠惰な証です。

いささか論理の飛躍があるかもしれませんが、素直に考えれば大筋は間違っていないはずです。
官僚のやっていることの実態は、年金問題でみんなわかったはずですが、年金関係は例外だと思っているのが、残念ながら今の社会の常識です。
お上信仰がいまなおあるのです。
あれは例外ではなく、多くの役所の実態なのだと思います。
役所と付き合っている人は、そう思いませんか。

今回の件で言えば、まずはタクシー券を無くすべきでしょう。
それで問題はほぼ解決です。
最終電車に乗り遅れたら自己負担にすべきです。
せめて1割でも自己負担するべきです。
そうすれば役所の電気代も削減できるでしょう。

最近の派遣労働者は、通勤交通費も時に負担させられるのです。
そうして苦労して働いている人の税金で、仕事をしていることを思い出せば、今のような自堕落な勤務態度は恥ずかしくなるはずです。

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■節子への挽歌279:父を送ってからちょっと変りました

昨日、久しぶりにNSさんが訪ねてきてくれました。
夢と情熱を持った青年起業家です。
節子も一度会っているかもしれません。
この2年、いろいろと苦労をしてきたようですが、ようやく少し落ち着いたからといって、節子に献花してほしいと来てくれたのです。
個人で事業していくことの大変さを知っていますので、そうした大変な状況の中にもかかわらず、節子のことを気にしていてくれたことがとてもうれしくて、ついつい節子の話をしてしまいました。
半身を削がれながら、その半身に節子が入ってきているような気がすると話したら、NSさんは、奥さんは一緒にいますよ、と即座に反応してきました。

実は、NSさんも数年前に父親を同じ病気で見送ったのだそうです。
それを契機に、スピリチュアリティの世界への共感を強めているようです。
そこから「生きがいの創造」の飯田史彦さんの話になりました。
NSさんは飯田さんの愛読者で、今年の初めに講演も聴きに行ったそうです。
まさか私が飯田さんと知り合いだとは思ってもいなかったようです。
そんなわけで、すこしばかりそれに関連した話になりました。
まさかこんな話になるとは思ってもいませんでした。
愛する人との死別は世界を変えますが、体験したものであればこそ、言葉を超えて通ずるものもあるようです。

私はNSさんのような志ある事業家ではありませんが、
節子と一緒になって、コンセプトワークショップという奇妙な会社を立ち上げ、苦労してCWSスタイルを創りあげた頃のことを思い出しました。
節子がいなければ、コンセプトワークショップは途中で普通の会社になっていたかもしれません。
収益など全く気にせずに20年継続できたのは奇跡としか思えませんが、節子にはいろいろと苦労をかけたような気がします。
いろいろな人の相談にはのりましたが、肝心の節子の相談にはのっていただろうか。
もう少し節子の希望を真剣に考えればよかったです。
NSさんが帰った後、ちょっとしんみりしてしまいました。

節子
今日はNSさんからの花を供えました。
節子の好きなマツムシソウとカンパニラやアスチルベを中心にアレンジしてもらいました。
マツムシソウは霧が峰などで、節子になんどもおしえてもらったことを思い出します。
この週末もちょっとにぎやかな雰囲気です。

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2008/06/06

■節子への挽歌278:「楽しい気分」と「悲しい気分」のどちらに同調したいですか

昨日、スミスの「国富論」の話を書きましたが、スミスは、もう1冊「道徳感情論」を残しています。
いまそれを読んでいます。
読み出したのが5年前ですが、先月から再読しだしました。
その本は、次の文章で始まります。

人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきださないのに、かれにとって必要なものとするのである。
アダム・スミスは、人間は社会的存在であることを重視しています。

私たちは、他の人たちの感情や行動にただ関心を持つだけではなく、他人の喜びや悲しみ、怒りなどを自分の心の中に写し取り、自分ならどうだろうと考える能力を持っているとスミスは言います。
そして同時に、私たちは、自分の感情や行為が他の人たちから是認されたいと願っているとも言うのです。
この同感の能力と是認されたいという願望は、人類共通のものであり、人の生きる原動力につながっているというのが、アダム・スミスの思想の基盤です。
そこから「見えざる手」の論理や「分業の発想」が出てきます。
以上が、最近の私のアダム・スミス理解です。
大学で学んだのとは全く違っています。

これはまさに「ケア」の源泉であり、スミスの経済論には互恵の精神が強く感じられます。
昨今の経済は、アダム・スミスのビジョンとは正反対の方向に向かっています。
まあ、それはともかく。

愛する妻、節子を失ったことで悲嘆にくれ、生きる気力さえ萎えていた私に、多くの人がパワーを送ってくれました。
引用した文章には、人が生きていくためには「かれらの幸福」が必要だとあります。
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せになれないと自分も幸せになれない」という言葉を思い出します。
しかし、そこには、「かれらの悲しみや不幸」については言及されていません。
幸福と不幸は違うのでしょうか。
他人の不幸は自分の幸福などという言葉もありますが、そういうレベルに話ではありません。

多くの人は、他の人の「幸せな楽しい気分」には同調したいでしょうが、「悲しい辛い気分」には近づきたくない、と多くの本に書かれています。
そうでしょうか。
もし近くに「悲しい辛い気分」の人がいたら、私は幸せを感じられるでしょうか。
決してそうではありません。
ミャンマーや四川の被災者たち、フィリピンやパレスチナの悲劇を知ってしまうと、自分の普通の生活さえもが罪の意識に覆われることはないでしょうか。
もし、「幸せな楽しい気分」に付き合うか、「悲しい辛い気分」に寄り添うか、といわれたら、どうでしょうか。

寄り添う勇気を持てるかどうか。
人の本性は、「悲しい辛い気分」に寄り添うことなのではないかと、最近感じています。
しかし、なぜそれができないのか、これまた「悩ましい課題」です。

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2008/06/05

■数字と現場のどちらを発想の原点に置くべきでしょうか

後期高齢者医療制度の導入で、高齢者の負担は減ったのかどうか。
当初、町村官房長官は7割くらいの人の負担が減ると発表しましたが、その後、撤回していました。
実際にはきちんとした調査をしていなかったのです。
そこで1か月かけて調査した結果が昨日、厚生労働省から発表されました。
「所得や世帯構成が異なる12種類のモデル世帯について、保険料の変化を全国1830の市区町村ごとに試算。それをもとに推計したところ、全体的には約7割が保険料負担が減った」と、新聞に出ています。
実に見事な調査結果の数字です。
町村官房長官が、おそらく官僚から拭きこまれた数字に一致しているのです。

でもまあ、こんなことは簡単な話です。
調査結果の数字など、いかようにも作れるからです。
統計学は、そのために発達してきました。
一部に良心的な学者はいたかもしれませんが、ほとんどの統計学者は現場とは無縁の御用学者であると私は思っています。
現場の表情をなくすのが統計学者のミッションなのです。
これはかなりひどい言い方ですが、私自身、自分の考えを説明する時に、統計学の知見を活用して論理づけることがあります。
統計数字などと言うのは、所詮はそんなものでしょう。
しかし、数字が出てくると、多くの人はその数字に支配されるのです。
数字はまさに近代人には「神様」なのです。
ですから「数字」を抑えた人が権力を握るわけです。

しかし、今回の調査はいかにもお粗末でした。
1か月もかけたのに、厚生労働省には統計学に通じた人がいなかったのでしょうか。
記者会見での記者の質問に、厚生労働省の課長は答えられませんでした。
こんな人が課長なのかと、改めて驚きました。
少しでも統計のことを知っていたら、あんな調査結果を出そうなどとは思わないでしょう。
まともな常識があれば、記者会見などできるはずもありません。
部下に騙されたのでしょうか。
町村さんをはじめたとした最近の与党政治家とは違い、記者のなかには少しはものを考えている人もいるのです。
それに、国民は政治家ほど無知ではありません。
現場と繋がっているのですから。

そもそも本制度の導入目的から考えれば、高齢者が負担減になるはずはないのです。
そんなことは当然であって、鹿を馬だと強引に言い続けるようなことは今の時代、通るはずはないのです。
もっとも、そう思っている人は少なくないのですが。

問題は、負担を重くするか軽くするかの話ではありません。
思想や哲学の問題なのです。
医療制度や保険制度を根本的に組み替えていくという話なのです。
決して狭い意味での医療の問題ではありません。
みんなが安心して生きていける社会のあり方を考えていこうという話です。
そこをしっかりおさえておけば、解決策はそれほど難しくはないでしょう。

問題の立て方が全く間違っているように思います。
だとしたら、一度、廃案にして、このままではやっていけない実態を公開して、みんなで知恵を出しあうことしかありません。
無意味な数字遊びやアリバイ工作的な調査や議論は無駄以外の何物でもありません。

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■節子への挽歌277:人間の心は必ず平静な状態に回復する

アダム・スミスは「国富論」で有名ですが、その本の最後に私たちへのメッセージが書かれています。
それは極めて示唆的なのですが、私の今の心境に関わるものもあります。
そのひとつは、こういうものです。

「あらゆる永続的境遇において、それを変える見込みがない場合、人間の心は、長時間かかるにせよ、短時間しかかからないにせよ、自然で普通の平静な状態に戻る。人間の心は、繁栄の中にあっては、一定の時間の後に平静な状態に落ち着くし、逆境にあっても、一定の時間の後に平静な状態に回復する」
どんな逆境にあっても、それを変える見込みがない場合、人間の心は必ず平静な状態に回復する。

生命体に組み込まれているホメオスタシス機構からして、このことは当然のことと納得できますし、そうでなければ人は生き続けられないでしょう。
ラインホールド・ニーバーの祈りを思い出したくなるような気もしますし、ニーバーとは全く反対のことをいっているような気もします。
いずれにしろ、私には悩ましい文章です。
受け入れられないような状況を受け入れてしまうほどの可塑性をもつ生命とは何なのか。
あるいは、そこまでして「生きること」を目的化した生き方でいいのか、という疑問がどうしても出てくるのです。

こう書いてしまうと、また小難しく小賢しいことを書き連ねるのではないと引いてしまわれそうですが、要は、節子がいないにもかかわらず、平静でいられることにどうしても罪の意識を拭えないのです。
なぜ愛する妻と同じ人生を歩まないのか。
なぜ「平静」に笑ったり泣いたりできるのか。
それは、愛する者を失った者にとっては、実はかなり寂しくも悩ましい疑問です。

そもそも節子が息を引き取った直後も、たぶん私は「平静」でした。
この挽歌に書かれているような「涙の場面」でも、とても平静です。
平静であればこそ、涙が出ます。
平静であればこそ、笑いが出るのと同じことです。
悲しみに浸り、悔いに苛まれ、失意に埋もれている自分を見ている、平静な自分がいます。
そして、さらにその2人を見ている自分もいます。
節子と別れてから、そういうことがとてもよく体感できるようになりました。
もしかしたら、節子の眼差しが新たに加わっているのかもしれません。
いや、逆に外からの節子の眼差しが実感できないために、その補償作用が働いているのかもしれません。
そういうことを怪しみながら、見据えようとする「平静さ」もあるのです。

最近、つくづく、人間というものの不思議さに驚いています。
スミスは「人間の心は必ず平静な状態に回復する」と書いていますが、耐えがたい状況を通過すると、人の平静さは変質するのかもしれません。

狂気の人もまた平静なのだと、この頃、なんとなく考えられるようになってきました。
これは学生時代からの課題だったのです。
正気の人と狂気の人とどこが違うのか、きっと見えている風景が違うのです。
だとしたら、今の私は少なからず正気ではないのかもしれません。
昔からずっとその(狂気の)素地はあったように思います。
節子はきっと、そうした私の狂気を愛してくれていました。
その狂気が、最近ますます深まっているような気がしています。

いやはや、やはり小難しく小賢しい文章になってしまいました。

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2008/06/04

■節子への挽歌276:若者から心療内科を勧められました

3日前に少しおかしなことを書いてしまいました。
時々、私も彼岸にいるのではないのか、と言うような気分がします。
彼岸に来たのは、節子ではなく私ではないのか。

実は最近あんまり精神的に安定しないんだよ、と先日、若い友人に話したら、彼が心配そうな顔をして、「心療内科に行ったほうがいいですよ」と言うのです。
心療内科。
まだ20代前半の彼から、そういう言葉が出てくるとは思っていませんでしたが、本当に心配してくれている顔なのです。
そこまではいっていないので大丈夫だよと、答えましたが、
先日のような文章を彼が読んだら、また勧めるでしょうね。
実は娘からも勧められたことがあります。

人間の精神はいつも安定しているわけではありません。
むしろ日々悩み揺れ動くものです。
それが増幅され、しばらく続くこともあるでしょう。
人生の伴侶を失ってしまえば、だれもがしばらくは精神的に不安定になるでしょう。
それに抗おうとすると、まさにおかしさが増幅します。

私の場合、生活の信条が“Take it easy”、つまり「気楽に行こうよ」ですから、基本的には大きな抗いはしませんが、自己主張も強いので意識しないままに抗っているのかもしれません。
ですから確信はもてませんが、揺れ動く心身に身を任せることもまた「刺激的な生き方」だと最近感じだしています。
心身の動きに身を任せると世間の動きも実に多彩に変化します。
視座が変るからでしょうか、他者の多様さが感じられるのです。

しかし、心身の動きに身を任せているために怠惰になっています。
人生において、これほど怠惰な生活をしていたことは、かつてありません。
節子はどう思っているでしょうか。

節子は私の生き方を先の先まで見透かしていました。
突然会社を辞めるといった時にも、何も言わずに「よく続いたね」といっただけでした。
今もきっと、今の生き方が修には必要なのよ、と言ってくれるはずです。
怠惰になった理由は、間違いなく、そういう「節子がいないため」です。
節子の指示があるまでもう少し怠惰を続けます。

やはり心療内科に行ったほうがいいですかね。
若者の直感は、いつも正しいですし。

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■探す情報を探している時代

このブログの読者はネット検索で訪ねてきてくれる人のほうが多いのですが、
どんな「検索ワード」でたどりつくは、ある程度わかります。
それをみていると社会の関心事も少し感ずることができます。
テレビで何かが放映されると必ずそのキーワードが出てきます。
セロの番組が放映されるとセロでの検索でたどりつく人がいるというわけです。
現代は、「探す情報を探している時代」なのかもしれません。
「探す情報を探している時代」は「情報を主体的に探す時代」とは、全く反対の社会です。
私が、現代を情報化社会ではなく、非情報化社会ではないかと思う理由の一つです。

昨日、インターネットの増幅機能について書きましたが、そうした時代においては、刺激の当て方次第で情報探索を誘導し、世論を形成していくことができます。
読者もそれほど多くないこのブログ(アクセス数では1日200~300ですが、実際の読者人数はそのうちのほんの一部でしょう)でさえ、そうしたことが見えますから、読者の多いブログや多くのブログのアクセス傾向を把握したら、社会の関心事やその方向性、あるいは誘導するキーワードやその出し方が見えてくるはずです。
おそらく経済や政治の参謀たちは、すでにそうした活動をしているでしょう。
情報操作をしていく状況は、既に十分に整っているわけです。
世論を壊したり、ネットワークを壊したり、反対派を分断する手法はかなり磨き上げられていることでしょう。
そうした人が世間でも評価され、有名になる時代です。
そう考えると恐ろしい気もします。

そうした時代に、自分をしっかりと生きていくためには、実直さと身体感覚だけが頼りかもしれません。
言葉はもう頼りにはなりません。
この数年、どれほどの言葉に裏切られてきたか、そしてたぶん私自身も言葉で人を裏切ってきただろうことを思うと気が重くなります。
私たちは、もしかしたら言葉を的確に使う力を失ってしまったのかもしれません。
言葉が「いのち」を失いつつあるといってもいいかもしれません。

ところで、最近、気になるのは「対象喪失」という検索ワードでのアクセスが多いことです。
以前の記事で書きましたが、対象喪失は大切なものを失うことですが、その検索ワードでのアクセスが多いのです。
大切なものを失う人が多くなっているのでしょうか。
言葉の喪失と大切なものの喪失。
ちょっと気になります。

ちなみに、並んで多いのが「アウトカム」です。
これは実態と実体の回復への関心かもしれません。
アフリカではよくあること」が今なお毎日必ず数件あるのもとても不思議です。

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2008/06/03

■節子への挽歌275:なぜ愛する妻と同じ人生を歩めないのか

節子
私は生前、節子に「お前がいないと私は生きていけないよ」と話していました。
それは決してリップサービスではなく、本当に節子のいない人生が考えられなかったからです。
さだまさしの「関白宣言」の歌詞は、全くそのまま私の考えでした。
一部を引用させてもらいます。

子供が育って 歳をとったら 俺より先に 死んではいけない
例えばわずか 一日でもいい 俺より早く 逝ってはいけない
なんにも いらない 俺の手を 握り
涙の しずく 二つ以上 こぼせ
お前の お陰で いい人生 だったと
俺が 言うから 必ず 言うから
忘れて くれるな 俺の愛する 女は
愛する 女は 生涯 お前一人
忘れて くれるな 俺の愛する 女は
愛する 女は 生涯お前 ただ一人
ここで語られていることは、私が日頃、節子に言ってきたことです。
もちろん表現は違いますが、節子はそのことをわかってくれていました。
ですから、私は節子の無念さがよくわかるのです。
愛する男のたったひとつの願いをかなえてやれなかった節子の悔しさは、思うだけで心が痛みます。

節子は、息を引き取る数日前に、
修のお陰でいい人生だった、と言ってくれました。
私は、その時でさえ、節子は治ると確信していたのです。
ですから、その節この言葉を軽く聞き流してしまいました。
なんとだめな伴侶だったことか。
節子に平安を与えてやれなかったのですから。
先が全く見えていなかったのです。

節子がいなくなってから、今日で9か月。9回目の月命日です。
節子がいないのに元気に生きている自分がとても不思議です。
そして、節子に話していた「お前がいないと生きていけない」という思いは嘘だったのだろうかと考えてしまいます。
決してそれは嘘ではなかったのですが、自らの生死は自らで決めることができない以上、仕方がありません。
私の節子への愛情は、私が思っているほど強くはないのでしょうか。

雨がやんだので、むすめとお墓にお参りしてきました。
一昨日供えた花がまだ元気でしたが、今日は節子の好きなバラを持っていきました。
一昨年前まではいつも節子と2人で来ていました。
そのせいか、ついつい傍らに節子がいるようで、それがまた寂しさを募らせます。

「なぜ愛する妻と同じ人生を歩めないのか」
残された弱い関白亭主には、辛い仕打ちです。

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■インターネットの持つ増幅機能

先月末、ブログに「死ね」と書き込まれた高校生が自殺するという事件がありました。
この種の事件はこれまでも何度か報道されています。
ネット犯罪も問題になっていますが、この種の事件も少なくないはずです。

ネットは、さまざまなものを「増幅」し「拡大」する機能を持っています。
それが価値を生み出す場合も、被害を生み出す場合もあります。
問題は、ネットの持つそうした機能が、これまでのものに比べて極めて強力なことです。
強力になった一因は、ネットを通すことで情報が無機化し、人間的な表情を失うことではないかと思います。
言葉が「剥き出しの意味」だけになり、そこに含まれるニュアンスまでもが無機質な冷淡なものになってしまうのです。

今回の書き込みも、面と向かっていう場合に比べて、その効果は格段に増強されている可能性があります。
直接は言えないが、手紙やメールでなら言えるという人がいますが、そのこと自体が、手紙やメールには怨念や非難が込められることを示唆しています。
それに、直接の場合は、相手の反応を見ながらの行為ですから、状況に合わせてお互い柔軟に対応できますが、手紙やネットの場合はそうではありません。
一方的な行為です。相手の反応がないだけ、思いを過剰に強調しがちです。
両者は全く異質の行為であることを認識しなければいけません。

それでも手紙の場合は、長い歴史の中でマナーが育っていましたし、手紙を書いて投函するという行為自体が手間暇かかることもあって、途中でいくつかの思考点が内在していました。
しかし最近のメールは、誰でもが簡単に打てて、しかも瞬時に発信できますから、思考過程がほとんどないのです。
しかも、無機質な媒体を通しますので、発信者と受信者とではその意味合いが大きく変わることも少なくありません。
絵文字などで緩和されるという人もいますが、絵文字さえもが無機質なものですから、逆効果になることもあります。
インターネットでの情報交換に基づく情報活動の怖さを、私はいつも感じています。

いま私も参加している平和関係のメーリングリストで、ある人の投稿が批判され、いろいろなやり取りが行われています。
このメーリングリストには、私も一度投稿して、全く不条理な批判を受けましたので、以後、投稿には留意していますが、慣れていないと批判を正面から受けてしまいかねません。
受けてしまうと際限のない「非平和的」な泥仕合に進みかねません。
いささか無責任ですが、そうした議論のやりとりを横から見ていると、ネット上での議論の難しさを改めて思い知らされます。
最初は誰も悪意がないのに、次第に悪意が生まれだすのです。
ネットが「悪意の増幅器」になってしまうわけです。

ネットが「善意の増幅器」になることもあります。
難病の子どもを救うために、あるいは被災者の支援のために、ネットを活用した迅速な対応の事例もあります。
増幅器は、それをどう活用するかが重要です。
しかし、インターネットの恐ろしさは、たった一人の人の「悪意」や「誤謬」が、その増幅機能によって全体を方向づけることがあるということです。

世界を破壊するには、ひとりの「悪意」で十分なのかもしれません。
そのことは、同時に、世界の平和の実現は一人の「善意」から始まるということでもあります。
原子力もそうですが、インターネットは世界を大きく変えていく力を私たちに与えました。
それをどう活かしていくのか。
その不安と希望を整理できずにいます。


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2008/06/02

■家族の無事と家族が暮らせる家

四川大地震の被災者がテレビで語っていた2つの言葉が印象的でした。
表現の記憶があいまいですが、主旨は間違っていないと思います。

「私たち農民の全財産は家なんです」
「家族みんな無事でした。それだけで十分です」

家族の無事と家族が暮らせる家。
人間の暮らしにとって、それがすべてかもしれません。

「家」ですが、これはたぶん「家族が暮らしていく場所」ということだと思いました。
決して立派な豪邸という意味ではないでしょう。
自分たちの暮らしの記憶も含めて、生活を支えているのが「家」なのです。
最近の日本は、住宅を消費財に変えてしまいましたが、家は決して消費財ではありません。
同じように、生活を展開する近隣社会も、この「家」には含まれているように思います。
仲間たちと一緒に気持ちよく暮らせる「生活の場所」を、私たちの先祖は苦労して育て上げてきたのです。
そこには「働きの場」も含めるのがいいでしょう。
その象徴が田畑や水田だったのではないかと思います。
快適な暮らしをするためには、人のつながりと暮らしを維持する田畑さえあれば、十分です。
今のような「政治」も「経済」も必要ないでしょう。
汗して誠実に生きている人たちには。

先の2つの発言を聞いて、今の私たちの生き方のおかしさを改めて痛感しました。
日本でも、大地震を体験した阪神淡路地域の人たちは、「家族」や「近隣社会」の大切さに気づき、回復に取り組んでいるとも聞いています。
しかし、私が知る限り、政治も経済も、家族や近隣社会や田畑を壊すことに邁進しているように思います。

四川大地震の被災者たちの「家族」や「家」が、水に流されないことを祈っています。

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■節子への挽歌274:「世の中には、存在が否定されるべき人はいない」

時々、なぜかある人のことを思い出して、気になることがあります。
そうすると、またなぜかその人から連絡などがあるのです。
いわゆるシンクロニシティ現象です。

先日、ある人と話して突然にNKさんのことを思い出しました。
最近、連絡がないけれど元気だろうか。
そう思っていたら、何とその翌日にメールが来たのです。
お元気そうで、うれしく思いましたが、返信したら長いメールが届きました。
NKさんはおそらくいま「苦境」にあるのでしょうが、そんなことは全く感じさせない、軽妙な文章で、読んでいて楽しくなりました。
苦境を体験した人は、みんな本当に優しいです。

そのメールの中に、私がブログで書いた辺見庸さんの言葉への言及がありました。
『世の中には、存在が否定されるべき人はいない』
NKさんはカトリックのクリスチャンです。
NKさんの好きな旧約聖書の「知恵の書」11章23説のことばを教えてくれました。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
  略
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みならないのに存在し
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるのだろうか。
  略
あなたはすべてをいとうしまれる
新約などしなかったらよかったのにと、クリスチャンでない私はつい思いたくなるような、感動的な言葉です。

NKさんのメールの最後にこう書いてくれました。

先生!お願いが有ります。
(NKさんは私のことをなぜか「先生」というのです)
Googleでも、何でも『笑いの効用』もしくは、『笑の効果』を検索して下さい。
あまりブログでさびしそうなことを書かないほうがいいようですね。
みんなを心配させてしまうのは、私の本意ではないのです。
NKさん、検索していくつかの記事も読みました。
私もよく笑っています。安心してください。
それに、節子も凄絶な闘病中も決して「笑い」や「遊び心」を失いませんでした。
その節子から、笑うことと泣くことをたくさん教えてもらっていますので。

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2008/06/01

■節子への挽歌273:如来が来迎

節子
昨日はやはり自宅に戻ってしまいました。
娘たちがケーキを用意して待っていてくれました。

今日はまた少しあなたを心配させるようなことを書きます。
あらかじめ断っておけば、至って元気なので心配はないのですが。

テレビで非日常的な風景が出ます。
たとえば、映画のシーンで、イパネマの海岸やアラビアの沙漠などが出てくるとなにかとても奇妙なリアリティを感ずるのです。
先日、テレビで放映されていた007シリーズの「ゴールデンアイ」を一人で観ていたのですが、夕陽を背景にしたキューバの海岸が出てきました。
その風景がとても非現実的に見えると同時に、そこにいま現在いるような現実感が生じたのです。
うまく説明できないのですが、過去でも未来でもなく、まさにいま節子と一緒にそこにいるような感覚、いや、むしろそこに「いない」という感覚でしょうか。
そこにいるのは、どうも「私」ではなく、私から出ていった「私」という感覚なのです。

最近、そうした感覚をよく体験します。
これは一体なんなのでしょうか。
何を言っているのか、伝わらないかもしれませんが、そのとき心にわいてくる感覚は独特な寂しさと甘さをもっているのです。
郷愁というような気持ちかもしれません。

テレビでの画像だけではありません。
たとえばわが家から見える手賀沼の風景にも、それを感ずることがあります。
節子がとても好きだったのが、対岸の光が水面に映った夜の手賀沼の風景です。
あるいは快晴の時に見せる湖面のさざなみのキラキラとするかがやきです。
それに気づくと、一瞬ですが、節子と一緒に見ているというような、不思議な感覚がよぎります。

これも先月に気づいたのですが、
福岡に行った時に、西川さんと福岡の空気はとても穏やかで温かいですね、と話したのですが、それと同じ雰囲気を私が住んでいる我孫子でも感ずるようになったのです。
それは「穏やかさ」でも「温かさ」でもなく、「懐かしさ」です。
福岡で感じたのは、まさに「懐かしさ」だったのです。
それと同じ空気が、いま我孫子市にも漂っています。
正確に言えば、私の周りに、です。

昨日も湯河原の部屋から、遠くの山を見ていて、フッとそんな気になりました。
いずれにしろ、これまで感じたことのないような不思議な気分です。
この懐かしさはいったい何なのでしょうか。
彼岸で暮らすとはこういう感じなのでしょうか。

おかしな話ですが、如来が来迎しているのではないかという思いが頭をかすめます。

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■大地産業とアダム・スミスの主張

テレビの報道2001の食料自給率に関する議論をしていました。40%を切っている食料自給率は60%にしなければならないこと、田畑が荒れていること、兼業農家を疎外する認定農家制度がよくなかったこと、バイオマスには食料をまわすべきではないことなど、いろいろな議論が出ていました。
政治家は、民主党の渡部恒三さんや自民党の加藤紘一さんが出演していました。
それを進めてきた張本人たちの議論ですので、白々しさを感じますが、まあそういう意識が漸く出てきたのはいいことです。

そこで、渡部恒三さんが「大地産業」という言葉を使っていました。
とても新鮮に聞こえました。
そしてアダム・スミスとジェイン・ジェイコブスを思い出しました。

アダム・スミスは「国富論」のなかの「富の自然的進歩について」で、資本は、まず農業に、次に製造業に、最後に外国との貿易に投資するのが自然の流れだと書いています。
それは、人間の生活にとっての必要度と生活基盤(大地)とのつながりからの優先づけです。
彼が生きていた時代までの重商主義経済は、この逆を進んでいたために大きな格差を生み出し、社会は荒廃し、経済も持続可能でなくなってしまいつつありました。
それを打破するための提案が「国富論」だったそうです。
しかし、その後の経済学者や経営学者は、それを読み違えていたようです。

ジェイコブスは、「経済の本質」のなかで、「輸出とは、その地域の最終生産物であり、地域のエネルギーの放出である」と述べています。
大地が生み出した余剰を輸出するのが生活者の立場での本来の貿易です。
エネルギーの放出によって得るものはいろいろありますが、利益を目指す資本が得る金銭は決して地域を豊かにはしません。
ただ石油やダイヤモンドを売って利益を得ても、地域は決して豊かにはなりません。
豊かにするのは、その利益で得た輸入物ですが、その輸入物をうまく活用してこそ地域は豊かになります。
そのためには、やはり大地に立脚した製造業が必要になってきます。

スミスの「資本は、まず農業に、次に製造業に、最後に外国との貿易」という主張はとても説得力があります。
農業を起点にした経済、製造業を起点にした経済、貿易を起点にした経済。
それぞれ原理が違います。
農業を起点にした経済は、進み方は遅いでしょうが、持続可能性は一番高いでしょう。
製造業を起点にした経済は近代工業社会です。
競争によって発展を加速させる一方で、格差を生み環境を壊してきました。
貿易起点の経済は、まさに金融資本主義経済につながっています。
そこでは「人間」は不要の存在になりかねません。
格差さえ不要なのかもしれません。

企業もまた、そうしたそれぞれの原理にあわせて構成されつつあります。
一昨日、最近のIBMの組織構造の話を聞きましたが、まさにそのことを示唆しています。

経済は大地に立脚してこそ活動を持続させられます。
産業もまた、大地に立脚していることを忘れすぎているのが、現在の日本の経済かもしれません。

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