■節子への挽歌298:「話しかける」ことは「聴きかける」こと
愛する人を失った時の話し方シリーズ第3弾です。
今日は立場を逆転させて少し書いてみます。
伴侶を失った人に、どう話しかけたらいいのかという話です。
自分が話しかけられる立場になって、いろいろと感ずることがあります。
人によって話しかけ方は大きく違います。
先日、道でお会いした近くのTさんは、こう話してきました。
お元気になられましたか。
無理ですよね。
まだ信じられないですよね。
とても素直に受け入れら、ついついいろんなことを話してしまいました。
実は、このように素直に受け入れられることは意外と少ないのです。
伴侶を失った人は、もしかしたら被害者意識が強すぎるのかもしれません。
いじけている可能性もありますし、見栄を張りたがっていることもあります。
まあ簡単にいえば、奇妙に言葉に過剰反応しがちなのです。
どうもこれは私だけではないようです。
話したくなる状況をつくる、これが会話の基本ですが、
節子との別れによって、そのことを改めて強く思い知らされました。
「話しかける」ということは、もしかしたら「聴きかける」(そんな言葉はないでしょうが)と言うことなのかもしれません。
節子との、この5年間で、ケアとかコミュニケーションについてたくさんのことに気づかされ、学んだように思います。
節子が身をもって教えてくれたのです。
にもかかわらず、最近の私は、どう考えても話しすぎのようです。
それはどこかに「不安」があるからかもしれません。
「沈黙」と「饒舌」は、どうやらコインの表裏です。
そのことにも気づかされました。
ところで、今日のテーマ、「伴侶を失った人にどう話しかけたらいいか」ですが、
たぶん一番いいのは、全く意識しないことです。
これまで通り、いつも通り、が、たぶん「正解」です。
中途半端な気遣いは、きっと逆効果になるでしょう。
子どもたちは大人の不誠実さを見抜く感性を持っていますが、
伴侶を失った大人も、それに似た感性を回復しているような気がします。
相手の心が直接、伝わってくるのです。
ですから、会わないのが一番いいかもしれません。
過剰感性化している「伴侶を失った人」はまさに「さわらぬ神になんとやら」です。
でも、たぶん「伴侶を失った人」は意識とは反対に会いたがっているのです。
そこがややこしいところです。
以前と同じように接して、別れ際に「ちょっと変わったね」と無意味な会話(意味を与えてはいけません)をするのがいいかもしれません。
今回書いたことは、私だけの特殊事例かもしれませんね。
でもまあ悩ましい問題です。
今日は、「愛する人を失った人への話し方講座」でした。
全く役に立たない講座で、すみません。
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