■節子への挽歌296:愛する人の死についての体験は他の人と共有できるか
一昨日、せっかく献花に来てくださった田辺さんと節子のことを話さなかったことがちょっと気になりましたので、それに関することを今日は書きます。
伴侶を失った人は、伴侶の死についてどう話したらいいのか。
話されたほうは、どう対処したらいいか。
これは難しい問題です。
愛する人の死についての体験は、たぶん決して他の人とは共有できません。
なぜかといえば、愛する人との関係は特別だからです。
「愛する人」を喪失しただけではなく、その関係、つまり自らの生活の大きな部分が喪失してしまったのです。
愛する人を失った人にとって、それは個人の死ではなく、関係の死、それまでの人生の終わりでもあるのです。
そのことを、他の人と共有できることが出来るはずはありません。
わが家の場合、娘が2人いますが、娘たちもまた「愛する母親」を失いました。
節子を愛していたという点では、私と同じかもしれませんが、関係はそれぞれに違います。
ですから、私は決して、娘たちの気持ちを共有化できませんし、娘たちもまた私の気持ちを共有化できません。
それぞれ微妙に違うのです。
どちらが悲しみが大きいとか深いとかいう話ではありません。
質が違うのです。
大きなところではわかりあえ、支えあえますが、どこかで違いをそれぞれ実感しているように思います。
ですから家族同士でも、愛するものの死について話すのは必ずしも簡単ではありません。
私たち家族の中では、よく「節子」の名前は出ますし、節子の思い出は語られますが、お互いにあまり深入りはしないような気がします。
というよりも、できないのです。
深入りすると、思いの違いが見えてくるという不安もありますし、それぞれがせっかく再構築してきた平穏を崩してしまう可能性もあるからです。
何だか誤解されそうで、「冷たい家族だな」と思われそうな気がしてきましたが、私たち家族の中では今もなお、節子が生きていることは間違いない現実でもあればこその話かもしれません。
書こうと思っていたことと違う方向に話が進んでしまいました。
家族間の話ではなく、友人知人、あるいは節子を知らない人との「伴侶の死」もしくは「伴侶」の話をすることを書こうと思っていたのですが、書きながら考えるタイプなので、違う話になってしまいました。
日を改めます。
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