■節子への挽歌293:気楽に行こう、自然体で行こう2
昨日の時評編の続きです。
愛する人を失ったような、大きな環境変化を起こした人は、どう生きたらいいのか。
それ以前の「生き方」を忘れるのがいいかもしれません。
新しい環境の中での、新しい生き方を見つければいいと言うことです。
かつてのような意味で、「きちんと生活」する必要もなければ、無理して元気になる必要もないわけです。
「いつまでも悲しんでいないで、前向きに元気になっていかないと亡くなった妻も悲しむ」などと考える必要はありません。
悲しければ悲しむのがいいですし、元気が出なければ無理にだすこともない。
立ち上がれなければしゃがんでいたらいい。
それこそが「きちんとした生活」なのだと思えばいいのです。
そしてそれこそが、愛するものたち(自分も入ります)への鎮魂なのです。
これはもしかしたら、メンタルヘルス問題に通じています。
ちょっと変わった子が、発達障害などいうレッテルを貼られたり、
とても素直に生きている子が知的障害と考えられたりしてしまうことのマイナスも考えなければいけません。
人の生き方は単一ではありません。
異質な事象を分類し、名前をつけるのも、近代社会の特徴ですが、
それに縛られてしまっては本末転倒です。
なんだかまた時評編になってきてしまいました。
今回、書きたかったことは、環境が変化したら思い切り戸惑えばいい。
それは当然のことであり、以前の状況に戻ろうなどと思わなくてもいい。
そういうことです。
心療内科に行かなくてもいいのです。
精神が不安定で気が萎えていること。それこそがきっと正常なのでしょう。
伴侶を亡くして、おかしくならないほうがおかしいのです。
おかしくなっても、必ずいつか伴侶が治してくれるでしょう。
生前から、そうやってお互いに支え合ってきたのですから。
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