■節子への挽歌297:伴侶の死の語り方
最近、経験したことですが、初対面の同世代の男性と話していて、伴侶の話になりました。
いろいろと話しながら、結局は女房に頭があがらないし、女房が一番の支えですね、佐藤さんもそうでしょう、女房を大事にしないといけませんね、というようなことを言われました。
もちろん、その人は私が妻を亡くしたことなど全く知りません。
私は、そうですね、としか応えられませんでした。
そのため話の盛り上がりはちょっと砕けてしまいました。
実は最近妻を亡くして、などといえば、さらに話は冷えてしまったかもしれません。
妻の死を知っている人と会った時、ついつい節子の気丈な闘病振りを話してしまったことがあります。
まさに告別式のあいさつで話したようなことを話したのですが、その人はたぶん戸惑ったことでしょう。
節子を見送った後、私は見境なく、みんなに節子の話をしました。
「お父さんは詳しく話すけど、みんなは戸惑うよ」と娘によく注意されました。
節子のことを少し話し出すと、今でも途中で止まらなくなるのです。
何回か引用させてもらった「あなたにあえてよかった」の大浦さんが、こうメールしてきました。
「娘の悲しいできごとを、よく公開できますね」と言われたことがあります。
「甦るために私は死ぬのだ!」との郁代の声を確かに聞きながら本を書きました。
「郁代!あなたを決して死なせない!」との思いでした。
元気な時もそうでしたが、亡くなっても強い意思が伝わってくるのです。
大浦さんの場合は伴侶ではなく、娘さんでした。
ですからなおのこと大浦さんの思いは、私には共有できるはずはありませんが、この気持ちはとてもよくわかります。
共有してはもらえないとしても、話さずにはいられないのです。
大浦さんのお気持ちがよくわかります。
しかし、そうした話を聞かされた時、どう応えればいいでしょうか。
これは難問です。
もし聴く側にまわったら、私はたぶん応えられないだけでなく、引いてしまうかもしれません。
にもかかわらず、話す側の私は時に話してしまうわけです。
その気持ちの根底には、節子のことをもっと知ってほしいという気持ちがあるのです。
節子のことを知るはずのない初対面の人にさえ、節子のことを知ってほしいという、おかしな気持ちさえ出てくるのです。
愛する人を失った人は、やはりちょっとおかしくなっているのでしょうか。
でも愛する人を失うということは、おかしくなってもおかしくないくらいの、事件なのです。
失ってからでは遅いのです。
みなさんも、愛する人をしっかりと守ってやってください。
守れなかったことの挫折感は、たとえようもなく大きいです。
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