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2008/06/06

■節子への挽歌278:「楽しい気分」と「悲しい気分」のどちらに同調したいですか

昨日、スミスの「国富論」の話を書きましたが、スミスは、もう1冊「道徳感情論」を残しています。
いまそれを読んでいます。
読み出したのが5年前ですが、先月から再読しだしました。
その本は、次の文章で始まります。

人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきださないのに、かれにとって必要なものとするのである。
アダム・スミスは、人間は社会的存在であることを重視しています。

私たちは、他の人たちの感情や行動にただ関心を持つだけではなく、他人の喜びや悲しみ、怒りなどを自分の心の中に写し取り、自分ならどうだろうと考える能力を持っているとスミスは言います。
そして同時に、私たちは、自分の感情や行為が他の人たちから是認されたいと願っているとも言うのです。
この同感の能力と是認されたいという願望は、人類共通のものであり、人の生きる原動力につながっているというのが、アダム・スミスの思想の基盤です。
そこから「見えざる手」の論理や「分業の発想」が出てきます。
以上が、最近の私のアダム・スミス理解です。
大学で学んだのとは全く違っています。

これはまさに「ケア」の源泉であり、スミスの経済論には互恵の精神が強く感じられます。
昨今の経済は、アダム・スミスのビジョンとは正反対の方向に向かっています。
まあ、それはともかく。

愛する妻、節子を失ったことで悲嘆にくれ、生きる気力さえ萎えていた私に、多くの人がパワーを送ってくれました。
引用した文章には、人が生きていくためには「かれらの幸福」が必要だとあります。
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せになれないと自分も幸せになれない」という言葉を思い出します。
しかし、そこには、「かれらの悲しみや不幸」については言及されていません。
幸福と不幸は違うのでしょうか。
他人の不幸は自分の幸福などという言葉もありますが、そういうレベルに話ではありません。

多くの人は、他の人の「幸せな楽しい気分」には同調したいでしょうが、「悲しい辛い気分」には近づきたくない、と多くの本に書かれています。
そうでしょうか。
もし近くに「悲しい辛い気分」の人がいたら、私は幸せを感じられるでしょうか。
決してそうではありません。
ミャンマーや四川の被災者たち、フィリピンやパレスチナの悲劇を知ってしまうと、自分の普通の生活さえもが罪の意識に覆われることはないでしょうか。
もし、「幸せな楽しい気分」に付き合うか、「悲しい辛い気分」に寄り添うか、といわれたら、どうでしょうか。

寄り添う勇気を持てるかどうか。
人の本性は、「悲しい辛い気分」に寄り添うことなのではないかと、最近感じています。
しかし、なぜそれができないのか、これまた「悩ましい課題」です。

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