■節子への挽歌300:「別の世界の人」になった寂しさ
今日は精神の健康の話です。
節子がいなくなってから、私の精神状況はかなり不安定です。
しかし、その不安定さは、たぶん友人が思っているのとは全く違うはずです。
どんなに親しい人でもこの寂しさはわかってもらえないだろうなと思う一方で、
日常的な意味での寂しさはほかの人が思うほどのものではないような気がします。
つまり、当事者でないとわからない、不思議な寂しさです。
先日、夫婦づきあいしていた同世代夫妻のご主人から電話がありました。
一度お伺いしたいと思っているのだが、悲嘆にくれている佐藤さんに何を話せばいいのかわからなくて、今日まで連絡できなかった、というのです。
その気持ちはよくわかります。
きっと私も同じ立場だったらそうでしょう。
事実、今でも電話できない友人がいます。
この種の話はいろんな人からお聞きします。
会いに来てくれた人がほとんど例外なく言うのは、「佐藤さんが思ったより元気でよかった」という言葉です。
そう言ってもらえるのはとてもうれしいのですが、
そんなに私は落ち込んでいると思われているのだろうかという、もうひとつの寂しさも感じます。
つまり、妻を亡くしたことで別の世界の人になってしまったというように思われているのかという気がするのです。
それが不満であるわけではありません。
実は自分自身も、「別の世界の人」になったと自覚しているのです。
そして、そのことが私の寂しさであり、その世界にまだなじんでいないための精神的不安定さなのです。
ちょっとややこしいですね。
ですから、こちらの世界で生きている場合は、さほど寂しくなく元気なのですが、
突然、「別の世界」に意識が跳んでしまうことがあるのです。
そうなってしまうと、途端に息苦しくなるのです。
意識が一変し、それまで話していたことが遠くに行ってしまうのです。
なんで自分はここにいるのだろう、というような感覚が高まってきます。
そして現世の言葉と違った言語感覚になってしまうのです。
目の前で談笑している友人の声がどこか遠くに聞こえだすのです。
なぜか大きな疲労感も全身を襲ってきます。
こうなるのは時々なのですが、多くの人が集まる会や楽しい会食時になりやすいのです。
ですからできるだけパーティや同窓会には参加したくありません。
周りの友人たちが、どこか別の世界の人に見えてくるのは、とても寂しいものなのです。
そんなわけで、節子がいなくなってから、同窓会的なものには一度も出ていません。
小学校も大学も、会社も同好会も、ぜんぶ欠席です。
いつになったら参加できるようになるでしょうか。
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