■節子への挽歌286:目覚めの悪さ
節子がいなくなってから、よく寝たなと思うような目覚めを体験することがなくなりました。
夜中に何回か目が覚めたり、明け方早く目が覚めたりすることが影響しているでしょうが、その分早く眠るようになりましたので、睡眠時間はそう変わってはいないはずです。
睡眠の深さもそう違っていないように思います。
しかし毎朝なぜかいつも寝不足感があるのです。
いつも横で寝ていた節子がいなくて、独りで寝ているせいかもしれません。
人は寝ているときも意識や生気を交換し合っているのかもしれません。
あるいは、朝、起きた時にいつも隣にいた節子がいないことが影響しているのかもしれません。
横に節子が寝ていたら何が違うのかといわれそうですが、気持ちが全く違うのです。
特に目覚めた時に、誰もいないベッドが隣にあることで、節子の不在を毎朝、体感させられるわけです。
それならば、ベッドを片付ければいいようにも思いますが、たぶんそれではもっと気が抜ける結果になるでしょう。
以前、人は「何のために生きる」というよりも「誰のために生きる」ものだと書きましたが、その「生きる目的」が五感で確かめられるかどうかで、生きる手応えは違ってきます。
それが起きる(生きる)モチベーションにつながり、寝不足感に繋がっているのかもしれません。
睡眠時間が少なくとも、「生きる張り」が強ければ、目覚めた途端に心身はシャキッとし、寝不足感などは生じようもありません。
そういう時は、眠っているのさえもったいない気がするものです。
最近つくづく感じるのですが、「忙しさ」と「時間」とは別物のようです。
それと「生きる時間」の感覚は、その人の「生命の意識密度」に関わっているようです。
私にまたわくわくするような目的が持てるようになれば、きっと寝不足感は解消されるでしょう。
朝の目覚めもきっとすっきりしてくるでしょう。
先日、秋葉原でとても不幸な事件が起きました。
通り魔事件を起こした人も、きっと「わくわくするような目的」をもてなかったのです。
前にも書きましたが、社会がとてもおかしくなってきているのは、「わくわくする目的」が見出せない人が増えているためなのかもしれません。
誤解を招きそうな言い方ですが、最近は事件を起こす人たちの絶望感が、ほんの少しですが、わかるような気がしてきました。
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