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2008/06/05

■節子への挽歌277:人間の心は必ず平静な状態に回復する

アダム・スミスは「国富論」で有名ですが、その本の最後に私たちへのメッセージが書かれています。
それは極めて示唆的なのですが、私の今の心境に関わるものもあります。
そのひとつは、こういうものです。

「あらゆる永続的境遇において、それを変える見込みがない場合、人間の心は、長時間かかるにせよ、短時間しかかからないにせよ、自然で普通の平静な状態に戻る。人間の心は、繁栄の中にあっては、一定の時間の後に平静な状態に落ち着くし、逆境にあっても、一定の時間の後に平静な状態に回復する」
どんな逆境にあっても、それを変える見込みがない場合、人間の心は必ず平静な状態に回復する。

生命体に組み込まれているホメオスタシス機構からして、このことは当然のことと納得できますし、そうでなければ人は生き続けられないでしょう。
ラインホールド・ニーバーの祈りを思い出したくなるような気もしますし、ニーバーとは全く反対のことをいっているような気もします。
いずれにしろ、私には悩ましい文章です。
受け入れられないような状況を受け入れてしまうほどの可塑性をもつ生命とは何なのか。
あるいは、そこまでして「生きること」を目的化した生き方でいいのか、という疑問がどうしても出てくるのです。

こう書いてしまうと、また小難しく小賢しいことを書き連ねるのではないと引いてしまわれそうですが、要は、節子がいないにもかかわらず、平静でいられることにどうしても罪の意識を拭えないのです。
なぜ愛する妻と同じ人生を歩まないのか。
なぜ「平静」に笑ったり泣いたりできるのか。
それは、愛する者を失った者にとっては、実はかなり寂しくも悩ましい疑問です。

そもそも節子が息を引き取った直後も、たぶん私は「平静」でした。
この挽歌に書かれているような「涙の場面」でも、とても平静です。
平静であればこそ、涙が出ます。
平静であればこそ、笑いが出るのと同じことです。
悲しみに浸り、悔いに苛まれ、失意に埋もれている自分を見ている、平静な自分がいます。
そして、さらにその2人を見ている自分もいます。
節子と別れてから、そういうことがとてもよく体感できるようになりました。
もしかしたら、節子の眼差しが新たに加わっているのかもしれません。
いや、逆に外からの節子の眼差しが実感できないために、その補償作用が働いているのかもしれません。
そういうことを怪しみながら、見据えようとする「平静さ」もあるのです。

最近、つくづく、人間というものの不思議さに驚いています。
スミスは「人間の心は必ず平静な状態に回復する」と書いていますが、耐えがたい状況を通過すると、人の平静さは変質するのかもしれません。

狂気の人もまた平静なのだと、この頃、なんとなく考えられるようになってきました。
これは学生時代からの課題だったのです。
正気の人と狂気の人とどこが違うのか、きっと見えている風景が違うのです。
だとしたら、今の私は少なからず正気ではないのかもしれません。
昔からずっとその(狂気の)素地はあったように思います。
節子はきっと、そうした私の狂気を愛してくれていました。
その狂気が、最近ますます深まっているような気がしています。

いやはや、やはり小難しく小賢しい文章になってしまいました。

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