■節子への挽歌283:「余計なお世話」は人の本質
佐久間さんが、ご自身の著書の「愛する人を亡くした方へ」の内容をプロのナレーターに朗読してもらったCDを送ってきてくれました。
佐久間さんのいつもながらのきめ細かな心遣いには感謝しています。
いつか必ず聞こうと思っていますが、今はまだ聴けていません。
佐久間さんも時々、このブログを読んでいるので、慎重に書かないといけないのですが、
こうした心遣いはとても難しいものです。
というか、微妙な要素をたくさん含んでいるのです。
自分が当事者になったことでわかったことは、グリーフケアの難しさです。
このブログでも以前書きましたが、悲しみにひしがれている人はいささか精神的に不安定なのと素直さを欠いていることがあるので、常識的な論理対応が出来ないことがあるのです。
このブログを読んでいる方は何度か感じているかと思いますが、
私の反応は過剰であり、歪んでいることがあり、その上自分勝手なことが多いはずです。
それは自分でもわかっていますが、どうしようもないのです。
佐久間さんは、その分野のプロですから、決して押し付けがましくなく、しかもリスクをしっかりと引き受けながら、時には意図的に「余計なお世話」をしてきます。
佐久間さんにとって、それは何のメリットも無いはずですが、たぶん心身が自然と動くのでしょう。
これは実は私の生き方に繋がるところがあります。
私もかなり「余計なお世話」をするタイプですので、佐久間さんのことがわかるような気がします。
そうした「余計なお世話」は、人のいのちに埋め込まれているケアマインド、ホスピタリティスピリットなのではないかと思います。
そして、それこそがグリーフケアの真髄なのかもしれません。
西村ユミさんという方が書いた「交流する身体」という本があります。
先日、コムケアの橋本さんと話していて、その本を思い出しました。
いつかまた書こうと思いますが、人の身体は外部の身体と自然と呼応するように創られているようです。
「余計なお世話」は人の本質なのかもしれません。
そういえば、節子も「余計なお世話」が好きでしたね。
人生をシェアしあうということは、余計なお世話が余計ではなくなるということかもしれません。
何だか論点があいまいになってきましたが、
佐久間さんを初めとした友人知人からの、無私で利他的な「余計なお世話」にいろいろと救われています。
節子と声を出し合って、そのことを感謝しあえないのが少しだけ寂しいです。
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