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2008/06/10

■地産地消と地消地産

地産地消から地消地産への動きが広がっているようです。
この2つは似ているようで、発想の基盤は全く違うように思います。

 

地産地消は、「地元で生産されたものを地元で消費する」という意味ですが、地消地産は「地元で消費する農産物は地元で生産する」という意味です。
地産地消の動きの中で、いち早く地消地産を打ち出した中山間地域の富山県氷見市では、2003年に「地消地産推進協議会」を創設し、単に地元で生産したものを地元で消費するだけでなく、「地域の需要動向を把握しながら、それに見合った生産計画をたて、安定的な生産体制を構築する」という「地消地産」活動に取り組んでいます。
地産地消に比べて、地消地産は「攻めの農政」とも言われているようで、他の地域にも広がっているようです。

 

両者の違いは、しかし、理念の違いのような気がします。
地産地消が生産を起点に発想しているのに対し、地消地産は消費を発想の出発点にしています。
前者は「農業パラダイム」であり、後者は「工業パラダイム」といってもいいでしょう。
あるいは前者は生態型経済ですが、後者は成長型経済です。
言葉は似ていますが、発想のベクトルや理念は正反対といえるかもしれません。

 

地産地消は自給型経済に価値があるわけではありません。
そこにはもっとたくさんの価値や意味が含意されています。
そうした価値を、経済的価値と同じ次元で考えてしまうと、地産地消から地消地産へという動きに向かってしまうことになるでしょう。
今求められているのは、消費のための「生産のあり方」ではなく、持続可能な社会のための「消費のあり方」なのです。
そのことを忘れた食育や農業政策は、新しいように見えて、これまでのものとなんら変わらないような気がします。

 

消費のために温室トマトを作ることの問題を思い出さなければいけません。

 

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コメント

「地産地消と地消地産」の記事に関心を持ちました。実は長野県知事が「地消地産」だと言い出して、私も少しは勉強したのですが、この記事を読んで、もう一歩深めなければいけないと反省しました。きっかけの言葉は、「消費のための「生産のあり方」ではなく、持続可能な社会のための「消費のあり方」なのです。」です。

5年前から、「スマート・テロワール・農村消滅論からの大転換」(松尾雅彦著学芸出版社)に取り組んでいますが、この中でも「地消地産」を謳っています。松尾さんの「スマート・テロワール」の意味には、元々持続可能性(サステイナビリティ)が根底にあります。
私は、その価値観の上で、地産地消はプロダクト・アウト、地消地産はマーケットインの考え方だと捉えてきました。

貴方の記事から推測されたのは、「地消地産は良くない」と仰っているのだろうか、という疑問です。

初めてのコメントで恐縮ですが、ご意見をお願い申し上げます。

投稿: 安江高亮 | 2021/01/02 18:04

安江さん
昔の記事を思い出させてくれて、ありがとうございます。

これはあくまでも発想の起点の問題です。私は「地消地産」を否定しているわけではありませんが、注意しないといけないと考えています。

松尾さんによれば、テロワールとは「地域独自の風土・景観・品種・栽培法などが育む特徴ある地域」を表現するフランス語だそうですが、そうであればこそ、安直に「地消地産」というべきではないと考えています。
基本は、その地域の特徴を生かした生活を育てるということであって、自然から発想すべきだと考えているのです。
土地に合った作物を基準にすべきで、人が勝手に食べたい作物を土地に作らせるべきではない。つまり、土地は「生産のための手段」ではないということです。
もちろん、松尾さんはそんなことは考えていなかったと思いますが。

昨年、斎藤幸平さんの「大洪水の前に」という本を読みました。
斎藤さんは、「人新世の資本論」という本で話題になりましたが、マルクスを読み直している人です。
マルクスもまた、資本主義経済が自然を攪乱していることをとても危惧していたそうです。私は生半可の知識でマルクス嫌いでしたが、マルクスがそう考えていたことを知って、ほっとしました。

それはともかく、私は自然に支えられてこそ、人の生活は豊かになると考えています。ですから基本は自然に恵みを素直に生かすことであり、人の知恵や欲望だけで、自然を変えてはいけないと思っているのです。
おそらく安江さんのお考えとそうは違わないと思いますが、理念や考える起点を大事にしないといけないと考えているのです。

繰り返せば、「地消地産」は、「地域で消費するものは地域で生産しよう」ということですから、素直に賛成してもいいのですが、そこに「暴走の危険性」を感じてしまうのです。なにしろ人間の欲望は際限がないからです。

また「地域自給」にもあまりこだわりすぎないほうがいいと私は考えています。
それは、人が、他者の支えがなければ生きていけないこととにも通じます。
地域での生活も、「自給」が基本ですが、いかにほかの地域と支え合う関係を作り出すかが大切だと思っています。これは人の自立と同じです。

「消費のための「生産のあり方」ではなく、持続可能な社会のための「消費のあり方」なのです」という言葉に関心を持ってくださったようですが、後半の「持続可能な社会のため」は「生活のため」と読み替えてもらってもいいと思います。
昨今の経済は、「消費」を基軸に動いているように思いますが、経済は「生活」のためにあると思っています。いわゆる「経世済民」でなければいけない。
コロナのおかげでいろんなことがあぶりだされていますが、最近の日本人はみんな「お金に餌付け」されてしまったようで寂しい気がします。

安江さんの問いかけにうまく答えられているか心配ですが、要は、「人間の都合で勝手に自然を攪乱することは戒めたい」ということです。
なかなかなお会いする機会がありませんが、またお会いするのを楽しみにしています。

投稿: 佐藤修 | 2021/01/03 06:14

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