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2008/06/13

■石森章太郎と手塚治虫

ひと月ほどまえに、NHK教育テレビで、石森章太郎の特集番組をやっていました。少しだけ見ましたが、そこで誰かが手塚治虫との対比で、石森章太郎にはペシミスティックな雰囲気があるというようなことを話していました。
なぜかそのことが気になって、2人のいくつかの作品を読み直してみました。

石森章太郎にしろ、手塚治虫にしろ、SF漫画にはなぜか「明るさ」と「くらさ」が同居しています。
手塚治虫が「アトム」を書き出したのは、私が小学4年の時です。
「少年」という雑誌に連載が始まりました。
その時の印象はとても明るい印象でした。
勧善懲悪思想やどんな問題も最後には解決されることが、基本にあったからです。

ところが、20年ほど前ですが、娘たちが、「手塚作品はくらいね」と言うのです。
わが家には手塚治虫の本がかなりあったのですが、それを読んでの感想です。
たしかに「火の鳥」などは読み直したくないほどの暗さが全編を覆っていますが、娘たちが読んだのは、私が子どもの頃読んだ、たとえば「鉄腕アトム」への感想です。
それで私も読み直しましたが、たしかに暗いのです。

そこで気づいたのですが、未来を描く作品は、なぜかみんな暗いのです。
コミックに限りません。
小説も映画も、希望よりも諦観のようなものが多いように思います。
最後に「ひとすじの希望」を残すとしても、基本はとても暗い未来ばかりです。
私が好きな日本のSF小説は、光瀬龍や小松左京でしたが、いずれの未来観も重苦しいほどに暗いです。
私が大好きだった光瀬龍の宇宙年代記ものは、恐ろしいほどの悲しさに満ち満ちています。
手元にありますが、読む気力は出てきません。

石森章太郎の代表作「009シリーズ」は、はじまりからして暗い設定ですが(最初から主人公の未来は封じられています)、私はこれまで手塚作品よりも「悩み」がないあっけらかんとした作品と受け止めていました。
しかし、そのテレビを観て、そういえば石森作品にはなぜか音がないと気づきました。
たしかに読み直してみても、音がないのです。
テレビで話されていた「エッダ編」がちょうど手元にあったので読み直してみました。
北欧の神話にある古代文化が題材になっているのですが、たしかに手塚作品の「三つ目が通る」とは全く違います。
「三つ目」には騒々しいほどの音を感じます。

手塚と石森の子ども時代は微妙に違っているはずです。
科学や技術に対する基本的なイメージも違うでしょうが、なによりも「人間」の捉え方が違うように感じます。
私には、手塚作品には「人間」が見えるのに、石森作品には「人間」が感じられないのです。

最近の作家はどうでしょうか。
私は最近のSFコミックはほとんど読んでいないのですが、もっともっと人間から遠いところから描かれているような気がします。

退屈なことを長々と書いてしまいましたが、作品の中に時代がしっかりと反映されているとともに、もしかしたら時代の状況が同じ作品の印象を変えてしまうのではないかということを感じています。
それがどうした、ということですが、手塚世代と石森世代とは、大きく違うのだろうなということを書きたかっただけなのです。
つまり、いまの世代はもっと大きく違うわけです。
みんなの心の中から、もしかしたら「人間」が消えてしまいつつあるのではないか、そんな恐ろしさを感じています。
昨今の事件も、こうしたことと無縁ではないのかもしれません。

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