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2008/06/25

■何か見落としていることはないのか

最近、あまり天気予報が当たりません。
この数日も雨模様ということでしたが、青空の見えるよい天気が続いています。
天気予測の技術は、ソフト面でもハード面でも進歩しているはずです。
予測するための要素データは範囲も精度も高まっているはずです。
にもかかわらず、なぜ予報精度は高まらないのでしょうか。
いや高まっているかもしれないのですが、私の生活感覚からすれば、むしろ外れる度合いが多いように思います。

精度が高くなったが故に、はずれ感が高まっているということはあるかもしれません。
これは面白い問題を示唆しています。
いささか飛躍しますが、顧客満足の体制を組めば組むほど、顧客の不満は高まるということにもつながる話です。
このあたりを書き出すと、際限なく話が広がりそうですが、
今回、書きたいと思ったのは、そういうことではありません。
「何か見落としていることはないのか」ということです。
主語は、やや大げさですが、近代技術あるいは現代の知です。

先日開通した副都心線は連日、技術的な事故続きです。
これまでの体験をもとに、さまざまなシミュレーションが行われたはずです。
なぜでしょうか。

後期高齢者医療制度はどうでしょうか。
きっと数理的には目的に沿った仕組みが構築されていたのだろうと思います。
しかし、うまくいきませんでした。

イージス艦の事件はどうでしょうか。
きりがありませんが、
無関係のような、これらの問題はすべてつながっているのではないか。
そんな気がします。

要するに、私たちは常に何かを見落としているのです。
にもかかわらず、見落としていることがあるという認識が、最近、弱くなってきているような、そんな気がしてなりません。
それこそまさに「機械的発想」「科学的発想」「バーチャル世界発想」なのです。
その見落としているものからの反撃が、さまざまなところで始まりだしています。
天気予報とは無縁のように思えますが、実は天気予報も含めて、それらはつながっているように思います。
それに気付くと、身の処し方も変わってくるかもしれません。
そして、天気予報は外れるからこそ価値があると思えるようになるかもしれません。

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