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2008/06/01

■節子への挽歌273:如来が来迎

節子
昨日はやはり自宅に戻ってしまいました。
娘たちがケーキを用意して待っていてくれました。

今日はまた少しあなたを心配させるようなことを書きます。
あらかじめ断っておけば、至って元気なので心配はないのですが。

テレビで非日常的な風景が出ます。
たとえば、映画のシーンで、イパネマの海岸やアラビアの沙漠などが出てくるとなにかとても奇妙なリアリティを感ずるのです。
先日、テレビで放映されていた007シリーズの「ゴールデンアイ」を一人で観ていたのですが、夕陽を背景にしたキューバの海岸が出てきました。
その風景がとても非現実的に見えると同時に、そこにいま現在いるような現実感が生じたのです。
うまく説明できないのですが、過去でも未来でもなく、まさにいま節子と一緒にそこにいるような感覚、いや、むしろそこに「いない」という感覚でしょうか。
そこにいるのは、どうも「私」ではなく、私から出ていった「私」という感覚なのです。

最近、そうした感覚をよく体験します。
これは一体なんなのでしょうか。
何を言っているのか、伝わらないかもしれませんが、そのとき心にわいてくる感覚は独特な寂しさと甘さをもっているのです。
郷愁というような気持ちかもしれません。

テレビでの画像だけではありません。
たとえばわが家から見える手賀沼の風景にも、それを感ずることがあります。
節子がとても好きだったのが、対岸の光が水面に映った夜の手賀沼の風景です。
あるいは快晴の時に見せる湖面のさざなみのキラキラとするかがやきです。
それに気づくと、一瞬ですが、節子と一緒に見ているというような、不思議な感覚がよぎります。

これも先月に気づいたのですが、
福岡に行った時に、西川さんと福岡の空気はとても穏やかで温かいですね、と話したのですが、それと同じ雰囲気を私が住んでいる我孫子でも感ずるようになったのです。
それは「穏やかさ」でも「温かさ」でもなく、「懐かしさ」です。
福岡で感じたのは、まさに「懐かしさ」だったのです。
それと同じ空気が、いま我孫子市にも漂っています。
正確に言えば、私の周りに、です。

昨日も湯河原の部屋から、遠くの山を見ていて、フッとそんな気になりました。
いずれにしろ、これまで感じたことのないような不思議な気分です。
この懐かしさはいったい何なのでしょうか。
彼岸で暮らすとはこういう感じなのでしょうか。

おかしな話ですが、如来が来迎しているのではないかという思いが頭をかすめます。

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