■節子への挽歌281:シェアすることの幸せ
節子の愛用していた手提げがあります。
節子の品物は、まだ当時の状況のままなのですが、そこに小さなアクセサリーがついているのに気づきました。
「同行二人」と書かれた小さなお遍路さんのマスコット人形です。
お見舞いに来てくれた人から節子がもらったもので、以来、ずっとその手提げにつけていたのです。
その手提げも、節子の友人が手づくりした裂き織のかばんです。
私の中では、節子にしっかりと繋がっている品物で、そこからたくさんの生活が思い出されます。
同行二人。
お遍路さんにとっての意味とは全く違いますが、人生もまた「同行2人」です。
人生を共にする人がいることの幸せは、いなくなった時に初めてわかります。
一人で生きることの気楽さや幸せもあるでしょう。
たしかに昨今のような社会においては、一人で生きていくことも可能ですし、何かに挑戦する時に単身のほうが思い切り跳べることもあるかもしれません。
伴侶がいることが、足かせになることもないとは言いません。
しかし、悲しみも喜びも、シェアできる人がいるかいないかで大きく変わります。
私のような弱い人間の場合、生きる力が全く変ってくるように思います。
DVのような関係もあり、同行2人がいつでも良いわけではないかもしれませんが、人がカップルを組むのは、単に子孫を残すためではないでしょう。
伴侶の不幸が自分にもつながってくるから、不幸になる確率が倍増する恐れはありますし、50%の確率で相手に先立たれる悲劇を背負うことになります。
しかし、実際に体験してみると、その悲劇もまた人生を豊かにしてくれるものなのかもしれません。
人生の幸せは、個別事件の幸せや不幸を超えているのです。
人生をシェアする相手と同居していなければいけないわけではありません。
事実、私はまだ節子と人生をシェアしていると思っています。
人生をシェアしている節子と直接話し合ったり、抱き合ったりすることが出来ないことの寂しさは残りますが、それでもシェアしている人がいないことのほうが寂しいかもしれません。
余計なお世話ですが、結婚はしないと決めている方はぜひ思い直してほしいものです。
また結婚しているにもかかわらず、シェアする世界を限定している方がいれば、ぜひともシェアしている世界をもっともっと深め広げてほしいものです。
もちろん、人生をシェアする相手は異性の結婚相手に限るわけではありません。
異性であろうと同性であろうと、人生はシェアできますし、相手の意向とは全く無関係に人生をシェアすることだってできるかもしれません。
お遍路さんの「同行二人」は、まさに巡礼だけでなく、私たちの人生を支えてくれる発想です。
シェアすると自分の分け前が減ってしまうものもありますが、
シェアすることで双方の分け前が大きくなるものも少なくありません。
シェアしあうことで幸せを大きくしてことが基本になる社会になっていけばいいなと、つくづく思っています。
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