■生命体のホメオスタシスと意識体のホメオカオス
今日の挽歌編の続きです。
できれば、挽歌292のほうを先にお読みください。
常に変動している環境の中で、個体としての生命が存続していくためには、自らも環境に合わせて変化させるとともに、自らの個体性と同一性を維持するためにある範囲の中に生命体としての自らを恒常化させておく必要があります。
その作用をしているのがホメオスタシスです。
これに関しては、前の記事(挽歌292)に書きました。
ホメオスタシスは、理想としての静的な秩序(安定状態)を目標にしています。
しかし「生きている現実」では、そうした静的な秩序は存在しません。
常に動いていますし、秩序を形成する要素は無限に多様だからです。
そこで「複雑系」の議論では、多様性を維持した安定性機構としてのホメオカオスという概念が出てきました。
これは動的な恒常性維持といってもいいでしょう。
あるいは関係性を起点にして考える秩序ともいえます。
私たちの生活において重要なのは、ホメオカオスです。
これらに関しては、組織論などでいろいろな機会に書いてきましたが(たとえば企業文化論)、個人の生き方において言及するのは初めてかもしれません。
生物現象としてはホメオスタシスは重要です。
しかし、意識の世界では逆にホメオスタシスの呪縛が起こりえます。
たとえば、目標を設定するとそれが「理想」として固定されます。
そしてそれを基準にして、揺れ動く自分が評価され、理想に向かって近づくことが意識の深層にいたるまで強制されます。
問題は、その「目標」が多様な事情をかかえる個人単位ではなく、その集積によって生み出される幻想でしかない集団の目標に同調しがちだということです。
当該社会における平均的な、生命の通わない実体のない目標ということです。
社会の常識、社会の正義、社会の理想、いずれも社会を維持させていくためには不可欠なものでしょうが、個人には時に足かせになります。
秩序とは、そもそもそういうものですから、それは当然のことです。
個人は、その「平均的」な目標によって自分を評価し、自分を動機付けようとします。
そこに無理が生じ、人によっては「生きにくさ」を感じます。
それがある限度を超えると、メンタルダウンにつながっていきます。
個々人の事情は、情報社会の中では広範囲に集積され編集されますが、要素が多ければ多いほど、出来上がる結果は個人の事情から離脱していくように思います。
そして、たぶん真面目な人ほど、生きにくい世の中になっていくのです。
優等生だった人や真面目で優しい人が、突然に「あの人がまさか」というような、とんでもない事件を起こしてしまう。
もしかしたら、生命体としてのホメオスタシスに、意識体としてのホメオカオスが負けているのかもしれません。
組織の呪縛から抜けられずにいるのが多くの人なのです。
何しろ呪縛から抜け出てしまうと、違う意味の生きづらさが高まりますから。
「組織起点の社会」から「個人起点の社会」への移行期の現象です。
社会の構成原理のパラダイムシフトが完成するには100年はかかるでしょう。
過渡期として、自然体に生きることが難しくなっている現在、小賢しい知識や分別は捨てたほうが、大きな知恵と大きな分別に「生かされる」ことになるのかもしれません。
しかし、それにはそれなりの「覚悟」が必要です。
メンタルヘルス問題や自殺問題が社会の大きな課題になっていますが、その解決策の基本はこうしたところにあるような気がします。
そうしたことへの取り組みなしに解決は難しいでしょう。
今のような取り組みではたぶん成果は出てこないでしょう。
まずは「素直に生きること」を大事にしていきたいと、改めて思い出しています。
ところで、愛する人を失うような、急激に大きな環境変化を起こした人の場合、どうでしょうか。
また挽歌編に戻って、少し考えたいと思います。
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