■節子への挽歌319:世界中の花が節子のお墓
花の話が続いたのですが、もう一度だけ、
先日書いたお墓の話と米田さんの「節子の花の輪」という言葉が、
どこかでつながるような気がしていたのですが、
昨日、節子の献花台を見ていて、ハッと気づきました。
そうか、節子が望んでいたのは、花を自分のお墓にすることだったのだと。
何回か書いたように、
花や鳥になって、チョコチョコ戻ってくる、と節子は書き残しました。
そして、家族は献花台をつくり、献花に来てくれた人にはできるだけ花をお渡ししました。
その花が咲いたといって、いろんな人が連絡をくれます。
庭に花が咲く度に節子のことを思い出します。
節子は花と一緒にいるのです。
風になりたいという人もいます。
しかし節子はきっと花になったのです。
世界中の花が節子のお墓(住処)。
そう考えればいいのだと思ったのです。
その節子のお墓はどんどん広がっている。
節子はまるでブラウン運動をしているように、
同時にさまざまなところに存在しているわけです。
そして、さまざまな節子に、私はいたるところで会えるわけです。
そう考えると何だか気持ちが落ち着きます。
花になって戻ってくる。
どの花が節子なのだろうか、などと考える必要はないのです。
すべての花が節子なのですから。
お墓のイメージが一変しました。
お墓とは「場所」ではなくて、「不滅の生命の場」なのかもしれません。
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