■節子への挽歌321:時の癒し
「ブログの論調が変わってきているね、やはり時が変えてくれているんだね」と武田さんが電話してきました。
CWSコモンズに「国家論」を寄稿してくれている武田さんです。
彼はなぜかこのブログを読んでくれているのです。
このブログの文章の雰囲気は変わっているかもしれません。
しかし、時が癒してくれているとは全く思いません。
悲しさはある意味ではむしろ強まっていますし、節子への思いは募るばかりです。
でもたしかに涙はあまり出なくなりました。
節子のいない人生になれてきたのかもしれません。
そういうことが「時が癒す」という意味であれば、その通りかもしれません。
しかし、どうも「癒す」とか「忘れる」とかいうこととは違うように思います。
「癒す」とか「癒さない」とか、そういうことではないのです。
正確にいえば、世界が変わったのです。
節子がいる世界と節子がいない世界は、全くといっていいほど、異質です。
その世界に慣れてきたというわけです。
そして、どんなに慣れようとも、「寂しさ」や「悲しさ」は変わりようがありません。
間主観性という言葉があります。
複数の主観の共創によって世界は現出するという考え方です。
世界は個人の主観によって成立するのでも、客観的な事実によって成立するのでもなく、さまざまな人たちの主観の関わりの中に成立するという考えです。
まあ、かなり粗っぽい言い方ですが、実感できる考え方です。
この数十年、私にとっての世界に最も大きな影響を与えていたのは、自分自身を除けば、伴侶だった節子の主観でした。
私と節子の主観が、私の世界の基本的な核を構成していたわけです。
その節子の主観や存在がなくなったいま、私の世界は大きく変わったわけですが、その非連続な変化になかなか対応できずにいるのだろうと思います。
そのため、「寂しさ」や「悲しさ」はもちろんですが、「不安」や「居心地の悪さ」。あるいは価値観の揺らぎなどを感じているのです。
「癒す」というのは、「なおす」という意味ですが、今の私に必要なのは、「なおす」ことではなくて、「創る」ことなのかもしれません。
それに、「癒す」という言葉には、節子のことを忘れるというようなニュアンスを感じますので、どこかに「癒されたくない」という意識があるのです。
彼岸に行ってしまった節子も含めて、新しい間主観的な世界に、次第に慣れていくでしょうが、「寂しさ」や「悲しさ」はたぶん、彼岸で節子に再会するまでは消えることはないでしょう。
私の周りにも、10年たってもなお、癒されることなく、しかし元気に人生を楽しんでいる方がいます。
ブログの論調が変わってきているとすれば、きっと私も、新しい世界にだいぶ慣れてきたのでしょう。
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