■「まあそんなものだ」と思ってしまう風潮
最近問題になっている大分県の教員汚職事件は、教師という職業が、いまや「パンのための労働」に変質してしまっていることを象徴しています。
せっかく手に入れた職業世界を、自分たちだけのものにしていこうという、仕事の囲い込みがここでも進んでいるわけです。
仕事の囲い込みは、社会を劣化させます。
仕事ごとに閉鎖的な世界が構築され、社会の豊かさは衰えていくでしょう。
それも大きな問題ですが、私が気になるのは、大分県の汚職事件はみんな昔から知っていたことだったのではないかと言うことです。
もちろん「うすうす」でしょうが、噂もかなりあったのでしょう。
しかし多くの人たちは、「まあそんなものだ」と見逃してきていたのです。
この「まあそんなものだ」という風潮が、実は大きな問題なのです
あることが「事件化」するまでには、多くの場合、予兆があります。
私たちは、そうしたことを比較的、安直に見逃す傾向があります。
なぜならば、「まあそんなものだ」と割り切ってしまえば、楽だからです。
企業の不祥事の多くも、関係者の「まあそんなものだ」意識に支えられているように思います。
「まあそんなものだ」現象があまりに広く社会に広がっているが故に、なかなかなそれを変えることができません。
そうしたことから全く自由に生きている人は、意外と少ないのかもしれません。
それに「まあそんなものだ」が、本当に「「まあそんなものだ」ということもありますし、その範囲は時代と共に変化するのも現実です。
それに、うすうす感じていても、確たる証拠がなければなかなか指摘はできません。
その一方で、モンスタークレーマーたちが増えているという話もあります。
クレームの材料はどんどん増えているでしょうし、クレームによる被害の大きさも高まっていますから、それに対処する側も大変だろうと思います。
しかし、この両者(モンスターエゴイストとモンスタークレーマー)はたぶん同じ種類の行為なのだろうと思います。
つまり自らが知りえた情報や自らの地位を私利私欲のために使っているだけの話です。
そして、いずれも「犯罪」なのだろうと思います。
とすれば、ちょっとおかしな話を見聞して、それを「まあそんなものだ」と見過ごしてしまうことも、同罪と言っていいでしょう。
それに、自分とは直接つながっていないように見えますが、それらは必ず私たちの生活につながっています。
「まあそんなものだ」と安直に考えずに、「それでいいのか」と考え、納得できなければ、可能な範囲で異議申し立てしていくことが、私たちの責務かもしれません。
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