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2008/07/03

■現実のシャワーを浴びるとどうなるかー古館さんの場合

この1年近く、テレビのニュース番組や政治関係の座談会などを観る時間が増えました。
最近でいえば、1日3時間程度は観ています。
といっても集中的に観ているわけではなく。多くは「ながら視聴」です。
しかし、それだけ長く触れていると、政治のことばかりではなく、世間のこともいろいろとよくみえてきます。
たとえば、飛騨牛の丸明の社長会見ですが、ニュース番組ではその一部しか放映しませんから、社長が謝罪しているように見えますが、その前後まで放映している番組などを見ていると、全く謝罪の意識のないことが伝わってきます。
国会中継でもよくあることですが、一部だけ切り取ると全く正反対の印象になることができることをよく体験します。
これがテレビの恐ろしいところです。
しかもそれをいくつか組み合わせると、編集者の意図に合わせたメッセージをいかようにも作れるはずです。
私たちはそれを見せられているわけです。
報道には「中立性」などありえるはずがありません。

政治家がテレビの番組に良く出るようになりました。
私はあまりよい感じを持っていませんでしたが、生番組の場合、その人がいかに隠そうとしても、またテレビ局がいかに編集しようとしても、人柄や姿勢が見えてきます。
そうしたなかで失望した政治家もいれば、見直した政治家もいます。
たとえば、以前、その言動に共感した後藤田正純さんが今朝のテレビで民主党の長妻議員らと議論していました。
仮に悪意がないとすれば、後藤田さんはとんでもない食わせものだと思いました。
最近の発言には、基本的な知識不足を感じていましたが、これほどひどいとは思いたくなかったのです。
しかし、その言葉には実体が全くと言っていいほど感じられません。
まあ、これは瑣末な事例ですが、毎日、そうした情報を浴びていると、意識や姿勢も変わってきます。

最近の報道ステーションの古館さんは怒りまくっています。
私でさえ、ちょっと言い方が悪いのではないかと思うこともありますが、あれはたぶん「現実のシャワー」を浴びすぎた結果なのではないかと思います。
有識者たちは、そうした現実のシャワーを観察的に受け止めますから、心には入りません。
そのシャワーが活動のための材料になるだけです。
そうしたコメンテーターやマスコミのエディターの「親切な消化」のおかげで、私たちは「毒を抜かれた現実」にしか触れられなくなっているのかもしれません。

しかし、古館さんは、どうも「毒のある現実」にかなり直接的(感性的)に触れているような気がします。
そして、まだ成長中の意識が、それに強く反応しているのかもしれません。
幸いなことに、古館さんはまだ「終わっていない人」であり、世に言う「有識者」や「権威」ではないですから、守るものもさほどないのでしょう。
だからきっと素直に反応できるのです。

普通に真面目に生きている人であれば、信じられない現実(たとえば官僚の無駄遣い、政治家の二枚舌、財界人の強欲さなど)を浴びせられるように触れていたらどうなるでしょうか。
たぶん最初は信じられないし、その実態がよくみえないでしょう。
しかし繰り返し見ているうちに、その実態が次第に見えてきます。
そして怒りがこみ上げてきます。
古館さんの怒りに共感がもてます。
発言や考えのすべてに共感しているわけではありませんし、賛成しがたい意見もありますが、その「怒り」には共感しています。

「怒り」は外に出さなければ、前に進む力にはなりません。
「怒り」を忘れた国民には、未来は期待できません。
「家畜」やペットのように、怒りを忘れて生きるのも一つの生き方かもしれませんが、そんな「利己的な生き方」は、私はしたくはありません。

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