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2008/07/23

■緩慢なる無差別殺傷社会

また無差別殺傷事件です。朝日新聞夕刊の見出しは「理不尽の恐怖」とあります。
子どもたちが起こした悲惨な事件も複数起こっており、今やどれがどれだかわからないほどの状況です。
いずれも「他人事」ではない事件で、とても身近に感じられます。
つまり事件の原因が存在し、「因」をなくせば「果」が防げるという因果関係が見えないのです。
あえていえば、因果ではなく、因縁の世界かもしれません。
自分の中にある「因」と世間の中にある「縁」の偶発的な触発の結果としての事件。
だからだれにも起こりえる「理不尽の恐怖」なのでしょう。

最近の日本社会は、こうした「理不尽の恐怖」が蔓延しているような気がします。
身体の殺傷事件まではいかない、見えない心の殺傷事件が、いまの社会を支えているようなきがしてなりません。
私の周りにある、理不尽なことを書き上げればきりがありません。
真面目に汗して働いても、暮らしていけない理不尽。
真面目に汗したいのにその場が見つからない理不尽。
その一方で、汗も真面目さもないのにお金が入ってくる理不尽。
経済的なことに限っても、そうした理不尽がたくさんなります。
格差社会などと簡単に片付けられない現実が、そこにあります。

しかもそれを主導しているのが、総理大臣や財界のトップであるという疑惑が、私にはどうしても拭えません。
国民主権が踏みにじられ、人間性を否定されるほどに酷使され、しかもその怒りをぶつけるところさえわからない社会。
まさに、社会そのものが「理不尽の恐怖」に覆われているのです。
後期高齢者やワーキングプアの若者たちの絶望の根底にあるのは、もしかしたら「緩慢なる無差別殺傷社会」なのかもしれません。

しかも、私たちは被害者候補生であると同時に、加害者の1人でもあるかもしれない恐ろしさ。
こうした状況をつくり出している人たちが、なぜ政権のど真ん中、経済のど真ん中にいつづけられるのか、それがまた恐ろしいです。

さまざまな事件は、私たちの生き方や置かれている状況の現われでしかないのです。
こうした状況に慣らされだしている自分に、嫌悪感をおぼえます。

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