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2008/07/14

■「偽善エコロジー」に取り組む人たちの誠実さ

安直なリサイクル論に異を唱えている武田邦彦さんの「偽善エコロジー」(冬幻新書)を読みました。
いくつか共感できないことや納得できないことはありましたが、その基調にある、「最近のエコロジー議論は金儲けに利用されている」という認識には共感できます。
この点は、私も20年前から感じていることです。
静脈産業論に象徴されるように、ホリスティックな発想が感じられないからです。
このブログでも、時々、書いてきましたが、明らかに効果的な方策(たとえば自動販売機の廃止)に取り組まずに、新たな環境商品づくり(たとえばクールビズ)に取り組んでいるのを見ると、どうしても経済拡大主義を感じてしまいます。

その本のまえがきは次の文章で始まります。

「我が社は環境に配慮しています」という広告コピーを見て、学生が「この会社は売り上げを増やしたいと思っている」というレポートを書いてきました。「環境にやさしい」という会社を、どうも疑わしいと思う人が少しずつ増えてきています。
武田さんの授業を聞いているうちに、そう考えるようになってきたのではないかという気もしますが、その一方で、たしかにそういう人がふえてきているような気もします。
みなさんはいかがでしょうか。

この本で著者は、スーパーのレジ袋廃止や割り箸反対は「ただのエゴ」、生ゴミの堆肥化やプラスチックのリサイクルは「よくない」と言い切ります。
南太平洋のさんご礁の島、ツバルが水没してきているのは温暖化のためではないともいいます。
武田さんの主張が絶対正しいわけではないでしょうが、傾聴に値する意見です。
私はどちらかというと賛成することのほうが多いです。

およそ「通説」などというのは疑わしいものが多いという気がします。
世の通説や常識は、鵜呑みにするのではなく、自分の判断で考えなければいけません。
その「考えること」をさせなくするのが、これまでの社会秩序論ですが、これからは逆にそれぞれが「考えること」が秩序構築の出発点にならなければいけません。
そうした「社会構造原理」の基本が変化してきているように思います。

しかし、ちょっと気になるのは「偽善エコロジー」という表現です。
レジ袋をやめたり、プラスチックのリサイクルに取り組んでいる人たちは決して「偽善」ではなく、誠実に真摯に考えているのです。
ボランティア行為も「偽善」だと嫌う人もいますが、そういう人は「偽善以前」だと私は思っています。
問題は、そうした善意の行為や誠実な取り組みを、「偽善」などと総括してしまう姿勢です。
武田さんの問題提起には共感しますが、「偽善エコロジー」という言葉には賛成できません。
せっかくの武田さんの主張は、その言葉の故に白黒対立論争に陥ってしまうでしょう。

もっとも、「偽善エコロジー」という言葉は、武田さんの言葉ではないかもしれません。
本を売りたいがために、編集者が作り出したのかもしれません。
もしそうなら、武田さんもまた「偽善づくりの仲間」になってしまうことになります。

大切なのは個人の満足感ではなくて、行為が環境に与える意味を考えることです。
これ以上、地球環境や自然を、産業発展のために無駄に浪費することだけは避けたいものです。
企業や行政、あるいは有識者たちの言葉に無防備に従うのではなく、自分でしっかりと行為の意味を考えて生活していくことです。
行為は必ず、他の人や自然とつながっています。
そうしたことを考えて行為することが少なくなりすぎています。

エコライフとは自然のつながりの中で生きることです。
その原点を忘れないようにしたいものです。

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