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2008/07/25

■節子への挽歌327:誰のために挽歌を書き続けるのか1

節子
この挽歌ブログを書きながら、いつも、節子のことを思い出しています。
自宅のパソコンの周りには3枚の節子の写真があります。
高尾山、木曽駒ケ岳の千畳敷カール、そして赤城山のつつじ平の写真です。
パソコンに向かって、その写真を見ると自然に書き出せることもあれば、何を書こうか思いつかずに時間を過ごすこともあります。
私にとっては、この挽歌を書くことが、今は会えなくなった節子と話し合う時間でもあるのです。

しかし、節子の写真の前で、節子と語り合うだけではなく、
なぜわざわざ書いて、しかもブログで公開しているのでしょうか。
書くことが思いつかない時には、「書くために書く」こともあります。
無理に題材を見つけてくるわけです。
そんな時には、ブログを書き続ける意味はあるのだろうかと思うこともあります。
それに、節子が読んでくれるわけではなく、誰のために書いているのか。

先日コメントしてくださった上原さんが、こういうメールをくれました。

ある時 誰のために泣いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか・・・。  
自分ために泣くことのほうが多いことに気づかされました。
前向きに自分に残された時間を生きてゆくのが、ちゃんと生きてゆくのが、亡くなった夫は安心するのじゃないか・・・。
ただ無性に悲しくて、涙が出るだけなのですが、確かに時々、こうした思いにぶつかることがあります。
愛する人を亡くした者の気持ちは、日々、揺れ動くのです。
頭では、「亡くなった人のためでも、自分のためでもない」と私は断言できます。
この挽歌で何回も書いてきたように、私にとって意味があるのは、節子でも修でもなく、私たちなのです。
上原さんの涙も、その方と伴侶のお2人のための涙でしょう。
しかし、それは理屈でしかありません。
私も、いったい誰のために悲しんでいるのかと思うこともあります。
そしてそれがまた、いろいろと複雑な思いを引き起こし、涙を出させるのですが。

同じことはこの挽歌にも言えます。
誰のために書いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか・・・。
目の前で笑っている節子は、どう思っているのでしょうか。

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