■現状から出発する発想の限界
「思い込み打破シリーズ」第3弾です。
テレビでの政治談議を聞いていて気づくのは、政治評論家といわれる人たちが、現状をベースにした前提から発現しているのがよくわかります。
極端に言えば、政府の意向を前提にしているということです。
後期高齢者医療制度に関しても政府は廃案にする意向はないことから議論しますし、国民の信を問うための解散に関しても福田首相にはその意図がないことを前提に発言しています。
うまく説明できないのですが、彼らの発言を聞いていると、政府与党に批判的な発言をしているようですが、その発想の基本には与党政府の方針をベースに考えていることを感じます。
つまり、結局は政府与党の考えている枠内での批判に留まっていますから、新しい発想は出てきません。
つまり、議論をする場合、現実から出発するのが簡単なのです。
理念から出発してしまえば、それこそ「机上論」といわれかねません。
考えることの嫌いな知識人は、現実から出発しがちなのです。
もっと現実を疑うところから考えようという人がいても、だれも相手にはしません。
たとえば、今朝も報道特集2001で、民主党の河村議員が「巨大な嘘」という言葉を使っていましたが、だれも相手にしませんでした。
巨大な嘘にはだれもが疑問を持たないものです。
いや、そう思っても、そんなところから議論しても、ほとんどの人は聴く耳をもたないでしょう。
「希望の革命」を書いたフロムはこう書いています。
ナチズムの支持基盤は「下層中産階級」だったが、「彼らの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。猜疑心の強い人は「巨大な嘘」には弱いようです。
そして時代を切り開いた人たちは、現実を絶対視しなかっただけなのかもしれません。
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