■節子への挽歌328:誰のために挽歌を書き続けるのか2
昨日のつづきです。
実は、書いた後、どうもすっきりしないのです。
挽歌を書き続けるのは、節子のためでも私のためでもなく、私たちのためです。
ただ、この「私たちのため」と言うのがややこしい。
私と節子は、いまや切り離せない存在になっています。
私の半身は節子に持っていかれ、節子の半身が、私に残っている、という意味もありますが、それ以上に、私と節子の間にある「なにか」がとても大きくなってきているような気がするのです。
つまり、私と節子を取り巻くさまざまな「もの」や「こと」、そういうものすべてを含めて、今や「私たち」になってしまっているのです。
その「私たち」が、この挽歌を書かせているのかもしれません。
とまあ、そう考えていたのですが、
しかし、昨日、犬の散歩をしながら、
急に上原さんの言葉が気になりだしました。
「誰のために泣いているのか 亡くなった人のためか 自分のためか」
節子のための涙なのか、自分のための涙なのか。
節子が不憫で哀しいのか、自分が不憫で悲しいのか。
節子は幸せではなかったのか、なぜ節子が不憫だと思うのか。
不憫なのは取り残された自分ではないか。
いや、やはりどんなに辛くても残されたもののほうが幸せなのではないのか。
考えれば、考えるほど分からなくなってきます。
ですから、私と節子は一体なのだと考えれば解決するのですが、
それって「言い訳」ではないかと思い出したのです。
上原さんが到達したことに、ようやく気づいたのです。
泣くと楽になります。
心が癒されるのです。
だとしたら、やはり自分のための涙なのです。
節子のためではありません。
節子はきっと私の泣き顔などは求めていないでしょう。
だんだんそんな気になってきました。
このことは、私の周りの人たちがこれまで私に言っていたことです。
元気を出さないと奥さんが悲しむよ。
私には腹立たしい言葉でしたが、それが正解かもしれないのです。
ちょっと私にはやりきれないことなのですが。
この挽歌は、私自身のためなのかもしれません。
でもきっと、節子はそれを喜んでくれるかもしれません。
節子は、私の最高の理解者でしたから。
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