■節子への挽歌354:節子の文化
節子
最近、わが家では「節子の文化」なる言葉がよく飛び交っています。
「それは節子の文化だ」とか「節子の文化に反するよ」というような使われ方においてです。
ところが、その評価が全く正反対になることがあります。
節子が聞いていたら、きっと異議申し立てをしそうな時も少なくないです。
たとえば食事のとき、食後の食器洗いを節約するために、私が同じ小皿に複数のものをとりながら「節子の文化だ」といったら、娘は「お母さんはそういう取り方を注意していたよ」というのです。
食器を洗う人のことを考えて無駄に食器は汚さないというのが節子の文化だと思っていましたが、娘によれば、味が混ざるので料理した人に失礼だと考えるのが節子の文化だったというのです。
そういえば、私はよく節子に注意されていました。
人間は、自分に都合のいい場面だけを覚えているのでしょうね。
家族の誰かが外出する時、玄関まで送るのも「節子の文化」だったので、今は私も在宅の時はそうしています。
包装紙や容器などを大切に保存するのも「節子の文化」でしたが、節子の残した包装紙などはこの1年でほぼ捨てられました。
娘たちの名誉のために言えば、ただ捨てたのではなく、きちんと選別して使うものと捨てるものを分けたのです。
あんまり選別せずにただ残しておくのが「節子の文化」だったわけです。
ちょっとした隙間に花を一輪飾るのも「節子の文化」でしたが、時々、それを枯らすのも「節子の文化」でした。
廃物利用に時々意欲的になるのも節子の文化でしたが、すぐ廃棄物になるような無駄なものを買うのも節子の文化でした。
腕時計をいつもしているのも節子の文化でしたが、時間感覚が乏しいのも節子の文化だったかもしれません。
こうやっていろいろと書き出してみると、実は節子の文化と私の文化はかなり似ています。
違うのは、私が腕時計が大嫌いだったことくらいでしょうか。
「似たもの夫婦」という言葉がありますが、私たちは似たもの夫婦でした。
きっとどちらかがどちらかを洗脳してしまったのでしょうね。
ですから今となっては、どれが「節子の文化」で、どれが「修の文化」か区別しにくいです。
しかし私は、都合のいい時だけ「これは節子の文化だ」といって娘たちを説得しています。
マア、彼女たちは「はいはい」と聞き流して、面従腹背を決め込みがちですが。
さて、節子の文化、私の文化は、娘たちにどの程度継承されるのでしょうか。
どうも全く継承されないような不安があります。
なにしろ娘たちは2人とも、まだ結婚していないのですから。
私たち夫婦は、彼女たちにとってはモデルにはならない存在だったわけです。
私たち夫婦の、これが最大の反省点でした。
娘たちには内緒ですが、だれかいい人はいないでしょうか。
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