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2008/08/01

■節子への挽歌334:人の数だけ幸せがあるように、人の数だけ不幸もある

節子
節子がいなくなってから、どうも思考が自分の世界に閉じこもる傾向が出てきてしまいました。
節子とのおかげで、悲しさとか寂しさ、痛みや辛さなどは、以前よりもわかってきたつもりなのですが、どうも自分だけが「不幸な状況」にいるという無意識の意識が抜けないようです。
頭と心身がずれてきているような気もします。
いろんな人と話していて、そうしたことに気づくことがあります。
昨日も、です。

久しく会っていない友人に電話しました。
あることで確認したいことがあったからです。
用件の話が終わった後、実は私のほうもいろいろありました、と言うのです。
その話をお聞きして、自分だけが悲劇の主人公のように思っている自分が少し恥ずかしくなりました。
と言っても、その思いは変えようはないのですが。

節子はいつも言っていました。
どんなに幸せそうに見える家族でも、それぞれの問題を抱えているものね。
人の数だけ幸せがあるように、人の数だけ不幸もある。
これが節子の哲学でした。
脳天気な私は、どんな不幸も幸せの裏側と思えばいい、などと言っていましたが、節子を見送った後、決して不幸と幸せはコインの裏表などではないと気づきました。
どう考えても、節子のいない私には二度と幸せは来ない、つまりコインは裏返せないと知ったのです。

しかし、節子がいっていたように、どんな家族にも悩みはあるのでしょう。
家族とはそういうものです。
家族とは重荷を背負いあう関係なのですから、当然そうなります。
家族を持たなければ重荷を背負いあわないですむから、悩みも少なくなるというわけでもありません。
そもそも人間は、重荷を背負いあうようになっているのです。
人は1人では生きていけませんから、友人や知人の悩みを必ず背負うことになるでしょう。
しかも自分の悩みをシェアしてくれる人が誰なのかまで悩まないといけませんから、悩みは加重されます。
悩みは、関係性の中で生まれるのです。
そして、家族は悩みを縮減するための仕組みだったのです。
家族がいなければ重荷は減るというのは、大きな誤解だろうと思います。
重荷が見えなくなるだけなのです。

いまその家族の仕組みが危機に瀕しています。
また挽歌の範疇を越えそうですね。
それに長くなりました。
またつづきを後日書きます。

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