■節子への挽歌359:立ち直りのための3年間
訪ねてきた友人に、「妻を亡くした男性は立ち直りに3年はかかるそうだ」と話したら、
彼は黙り込んでしまいました。
どうしたのだろうかと心配していたら、少したってこう言うのです。
「私もそういえば3年くらいはダメだった」
思ってもいないリアクションです。
彼は奥さんと5年ほど前に離婚していたのです。
そのことは知っていたのですが、離婚のショックなどこれまで微塵も感じさせたことはありません。
滅多に会わないのですが、会った時にはいつも新しい仕事に取り組んでいて、忙しそうでした。
仕事が好きなあまり、奥さんよりも仕事を選んだのかと、そんな感じで彼のことを考えていました。
ですからその反応は、まさかの反応だったわけです。
彼のことを何も理解していなかったわけです。
もっとも彼の場合、4年目にはまた人を愛せるようになったというので、少し気が楽になりました。
ちなみに彼は私よりもかなり若いのです。
きっとそのうち新しい伴侶が見つかるでしょう。
そう思いたいほどの、これまで見たこともないような寂しそうな顔でした。
「愛する人を失う」には、2つの種類があります。
「愛」を失う場合と「人」を失う場合です。
両者では、失うものが違うように、残るものも違います。
私が失ったのは、愛する「人」でした。
彼が失ったのは(間違いかもしれませんが一般的には)、「愛」です。
愛し合う関係を失ったといってもいいでしょう。
失われた「愛」は取り戻せますが、失われた「人」は取り戻せません。
一方、私には「愛」は残りました。
節子への愛は、節子が不在になった以上、変わりようがないわけです。
つまり永遠の存在になったわけです。
しかし、彼の場合、残ったのは「人」です。
「人」は変化しますから、それに応じて、愛もまた変化するかもしれません。
愛する人と死別して1年たって思うことは、立ち直りという概念の無意味さです。
立ち直ることなく、きっとこのまま行くでしょう。
でも傍目からみれば、やはり3年くらいは「おかしく」見えるのかもしれませんね。
離婚した友人は、きっと新しい愛を得て、立ち直れるでしょう。
そう念じています。
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