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2008/08/29

■節子への挽歌362:夫婦の会話、親子の会話

節子
節子がいなくなって、節子と会話する時間がほとんどなくなったので、最近は家庭内で話す時間が少なくなっています。
これって、結構ストレスになりますね。
それでも食事は娘たちと一緒ですし、親子の会話はあるのですが、
この頃、改めて感ずるのは、夫婦の世界と親子の世界の違いです。

夫婦の場合は、お互いに相手の世界を知ろうとすることから関係が始まり、2人で新しい世界を創りだしてきたわけですから、相手の体験は多少とも自分の世界のことなのです。
ですから、話すほうも聞くほうも、自分たちの世界と思えます。
しかし、どうも親子の場合は違います。
親は子どものことを知っていると思っていますし、子どもは親から離れることを目指しているからです。
子どもの体験は親にとっては自分の世界につながるのですが、子どもたちには親の世界のことはいつか消えていくものでしかありません。
時間軸がずれているというか、次元が違うというか、ともかく違うのです。
夫婦と親子の関係は、明らかに違います。
そこを勘違いして起こる不幸もきっとあることでしょう。

節子との会話は、何一つ気を使うことなく、素直に自然に話していましたが、わが娘とはいえ、娘にはそれなりの気遣いや配慮が必要です。
もちろん伴侶にも、最初は気遣いや配慮はありましたが、いつかそれは消えていきます。
親子の場合は、むしろ、気遣いや配慮が増えていくといってもいいかもしれません。

それにしても、私たちはよく会話しました。
まあ、喧嘩も含めてですが。
20年程前には夫婦の会話時間が少ないことが時々話題になりましたが、
私たちの会話時間は長く、顔を合わせればいつも話していました。
レストランで、隣の夫婦が会話なしで食事をしている風景は、私たちには全く理解できずに、それがまた私たちの話題になりました。
世界はすべて、私たちの会話のためにあったような感じでした。
その話し相手がいなくなってしまったことは、私には結構辛いことです。

私たち親子の会話も決して少なくはありません。
私が娘たちに好かれているかどうかはともかく、彼女たちはよく話しかけてくれますし、食事もほとんど一緒に話し合いながら食べています。
しかし、節子がいなくなってからは、話も少し途絶えがちです。
息子だったら、もっと話しやすいかもしれませんが、娘なので話題も少しずれています。
母親は、父と娘の話の媒介者であることを最近改めて感じます。
4人で話しながら食卓を囲んでいた時には、それが最高の幸せであることに気づいていませんでした。
今となっては、その愚かさを悔やんでいます。
人は本当に愚かです

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