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2008/08/09

■オリンピック開会式とチベットへの祈り

オリンピックにほとんど意義を感じていない私も、
チベットへの祈りのキャンドルを横にしながら、開会式を何とな見てしまいました。
ますますオリンピックへの不快感がわきました。
要するに「国家の暴力儀式」であり、「人間の破壊装置」だとさえ思いました。
オリンピック話題で盛り上がっているのに、こんなことを書くとまたひんしゅくをかいそうですが。

あの退屈な1時間が伝えてくれたのは、大きな虚しさでした。
小学校の学芸会のような演出の質の低さはもちろんありますが、むしろその背景にある愚劣さに虚しさを感じたのです。
それをさも凄い感動だなどと伝えるアナウンサーにも失望しました。
アナウンサーまでがマスゲームのこまに成り下がっています。
そこに、「パンとサーカス」などと言っていられないような「暴力性」を感じてしまいました。
それにしても退屈でした。
私だけがそう思ったのでしょうか。

私はオリンピックに集うアスリートたちにも、ほとんど興味がありません。
人間が感知できないような記録を競うことに全く意味を感じません。
ドーピングが問題になるような競技は、基本的に問題があるのです。
時間を競う合うだけが競技ではありません。
何連覇などという記録にも全く反発を感じます。
平和の基本は譲り合いだということを全く理解していない我執の塊です。
まあ、救いはチーム競技ですが、これも私はほとんど興味がないのです。
なにもオリンピックでやることはないだろうと思ってしまうのです。

オリンピックに集まる人の水を確保するために、北京周辺の農村はこの期間、農業用水を使えないという報道もありました。
そのことに選手は誰一人おかしいと感じないのでしょうか。
オリンピック選手にはまともな感覚を持った人がいないのかと悲しくなります。

気になることはほかにもたくさんあります。
これからの2週間、オリンピック報道でみんなが騒いでいるなかで、またどんな画策が進められるのか、そのほうが気になります。
私たちの目はマスコミの報道に左右されますが、そのマスコミはオリンピックに現を抜かしているでしょうから、鬼のいぬまの洗濯はいろいろとできるでしょう。

広島の秋葉市長は、核兵器は廃絶されることのみに意味があるといいましたが、
北京オリンピックはチベットへの祈りを拡げたことにのみ意味があるような気がします。
しかし、失われたもの、失われるものの、あまりの大きさに虚しさを感じます。
「平和」とはいったい何なのでしょうか。
「平和の祭典」。オリンピックの選手の一人でもいいですから、その言葉を思い出してほしいものです。

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コメント

100%賛成

投稿: 武田 | 2008/08/09 10:25

武田さん
100%とはまた凄い賛成をもらいました。
ありがとうございます。

でも100%って、これまた気持ち悪いのですが。

でも中国の各民族の衣装は美しいですね。
あれだけの豊かさを持っているのに、なぜそれを楽しまないのでしょうか。
不思議ですね。

投稿: 佐藤修 | 2008/08/09 11:22

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