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2008/08/25

■節子への挽歌358:愛する人を見送る覚悟

節子
あなたが大好きだった滋賀の勝っちゃんと美っちゃんから先週、電話をもらいました。
2人とも元気そうでした。よかったですね。

美っちゃんは、私のブログを読んでから、私に手紙も電話もできなくなったと話してくれました。
これは美っちゃんに限ったことではなく、そう思っている人は少なくないでしょう。
私のためと思って声をかけても、それを素直に受け取らずに、
ついつい反発してしまう気持ちを私はこのブログで何回か書いていますから。
気を悪くした人も、決して少なくないでしょうね。
腫れ物にさわるようなものだったかもしれません。
たぶん実際に、私はしばらく腫れ物だったのでしょう。
いまは少し腫れはひきましたが、まだ完治していないかもしれません。
すみません。

個人情報侵害ですが、美っちゃんのお兄さんも、私と同じように昨年、奥さんを亡くされたそうです。
美っちゃんはこういいます。
女性のDNAには、親や夫、時には子どもですら見送るという覚悟が埋め込まれているように思いますが、
男性にはそれがないのかもしれませんね。
こういう言い方をすると、誤解されそうですが、美っちゃんは実に繊細で感情豊かな女性です。
というよりも、良い意味で、伝統的な日本女性なのです。
これは節子から聞いていることですが。

今回の電話でも、涙ぐんで話しているのが伝わってきました。
その人から、「愛する人を見送る覚悟」という言葉を聞くと、奇妙に納得できてしまいました。
人はいつか「愛する人」を見送るものです。

考えてみると、私は節子と結婚して以来、節子に「見送られる」前提で人生を生きていました。
きっと節子も、私を見送る覚悟を持っていたはずです。
それができなかったことが、節子の最大の無念さだったような気がします。
そして、それをさせられなかったことが私の最大の無念さでもあります。
しかし、人を愛するということは、その人を見送る覚悟を持つということかもしれません。
そのことに気づかないまま、節子を愛し、節子を看取ったことを心から反省しています。
見送る覚悟があれば、もう少し節子をやさしく送れたような気がします。
節子、ごめんなさい。悪かったね。

愛するとは見送る覚悟を持つこととわかっていれば、こんな挽歌など書かなくてすむかもしれません。
覚悟が不足していましたが、いまさらどうにもなりません。
「会うは別れの始まり」という言葉の重さに、今ようやく気づいた気がします。
困ったものです。

読者の方には、ぜひこんな後悔をさせたくありません。

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