■節子への挽歌352:人が一番孤独でないのは、一人でいる時
「人が一番孤独でないのは、一人でいる時」という言葉があります。
大勢の集まりで突然に孤独感を味わった経験は、私にはよくあります。
特に節子がいなくなった後は、数人の友人たちの集まりでさえ、それを感ずることがあります。
前にも一度、書きましたが、突然に周囲の会話が遠くに聞こえだし、この人たちはいったい何を話しているのだろうという気分になってしまうのです。
まさに「異邦人」になった気分です。
周りの人たちが楽しそうであればあるほど、孤独感が高まります。
みなさんは、そういう経験はないでしょうか。
私は、とりわけ「さびしがりや」なのですが、一番、孤独でなかったのは、いうまでもなく節子と一緒の時でした。
節子はそれを知っていましたから、できるだけ私に付き合ってくれました。
私がいなくなったらどうするの、と節子はよく言っていましたが、節子の病気がわかって、それが現実味を帯びてからは、節子はそういわなくなりました。
「人が一番孤独でないのは、一人でいる時」という言葉は、私には全く理解できない言葉でした。
いまはこの言葉の意味がよくわかります。
一人の時こそ、不思議なことに、節子と一緒にいるような気分になれるからです。
しかし、もしかしたら、それは節子を実感できるからだけではないようです。
現実に周りにいる人たちとの断絶感から解放されて、むしろ周りにあるさまざまな人とのつながりが確信できるからかもしれません。
周りの人たちが、私が望む理想形で、私の世界を豊かにしてくれる気がするのです。
インドラの網のように、ホロニックに世界はすべてつながっているとしたら、まわりに人がいるかどうかは瑣末な話です。
早稲田大学の片岡寛光さんは、「公共の哲学」の中でこう書いています。
大方の人間が本人的生活圏で孤独を感じずにすんでいるのは、それが「存在の大いなる連鎖」の中にあり、何時にでも生活圏を拡げ他者と出会い、交流し得るというかなり確実度の高い期待可能性を持っているからである。本人的生活圏とは、自分だけの空間と言ってもいいでしょうか。
家族、近隣社会、職場仲間、友人たちなどといった、いわゆる親密空間の基本になる生活圏です。
私たちの生活空間は、個人が直接構成しているのではなく、個人を中心にした、さまざまな種類の「人のつながり空間」が幾重にも組み合わさりながら、拡がっています。
「存在の大いなる連鎖」という言い方もされますが、これのほうが「インドラの網」よりはわかりやすいかもしれません。
いずれにしろ、私たちは宇宙とつながっているのです。
だから一人になっても孤独感は出てきません。
しかし、その連鎖(つながり)を実感できていないと、一人になることは恐ろしいほどに孤独なのかもしれません。
私はいま、宇宙に遍在する節子といつも一緒なので、孤独感はありません。
愛する人を失った人が、私の周りにも何人かいます。
その人たちは、こうした「つながり」に気づいているでしょうか。
気づいているといいのですが。
お盆は、そうしたことに気づくためのものかもしれません。
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