■中国の「困難を洞察し、共感を持つ」ことはできるか
中国でのオリンピック開催で、これまで見えてこなかった中国の実態が見えてきました。
予想以上に人権無視の管理社会の側面も見えてきました。
不気味で、信頼できない国家という気さえします。
あれだけ大きな国家を維持するということは、そういうことなのかもしれませんが、
こんな国家と果たして付き合っていけるのかと不安にもなります。
しかし、テレビで映し出される姿が、すべてではないでしょう。
テレビメディアは、どうしても特徴を過剰に伝えがちです。
日本も報道の仕方によっては、不気味で信頼できない国家に見えるかもしれません。
ドイツの哲学者カール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」(平凡社ライブラリー)にこんな文章が出てきます。
「われわれは相互の間の甚だしい相違を終局点としてではなく、出発点として承認するのでなければ、われわれの語り合いは意味をなさない。われわれ自身の情勢や態度とは全く懸け離れた情勢や態度のうちに見られる困難を洞察し、それに共感を持つようにならなければならない。」人の価値観は、基本的にはそう大きくは変わらないと私は思い続けています。
しかし、その置かれている状況やそれまでの歴史によって、現われてくる価値観や言動は正反対になることもあるでしょう。
そのことは、日本の社会の常識や文化、あるいは日本の国家制度や国家政策などの歴史を思い出せば容易に納得できます。
極端な事例では、1945年の8月を境に、日本人の価値観は逆転させしたのです。
いまの中国の文化や人々の言動を、否定してばかりもいられません。
私自身は、いまはまだ中国への「共感」はとてももてません。
昨夜もチベットのためにキャンドルを灯して祈るようにというメールが来ましたので、それに応じましたが、チベットにしてもウィグルにしても、中国政府のやり方には憤りを感じます。
オリンピック会場の周りで、デモを監視するボランティアの映像を見る度に、嘔吐したくもなります。
子どもの頃から、そうしたことがなぜか私には生理的に受け入れられないのです。
しかし、もし平和を望むのであれば、ヤスパースがいうように、中国の人たちの「困難を洞察し、共感を持つよう」にならなければならないでしょう。
共感を持てずにいる自らの未熟さを反省しなければいけません。
先日引用した、むのたけじさんの記事にもこんな発言がありました。
戦争のたくらみをやめさせる要は、違うものを排撃することをやめること。人間は「違っていても分かり合える」のじゃなくて「違っているから分かり合える」の。違いからスタートして、共感を育てていく姿勢の大切さはよくわかっているのですが、67歳になりながらも、なかなかそれができずにいます。
このブログも、排撃的な表現が多いかもしれません。
もっと寛容になろうと、改めて思っています。
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