■節子への挽歌337:不死か愛か、不死も愛も、か
節子
ちょっとまた「死」についての話です。
ジャン・ボードリヤールの「不可能な交換」という本を読んだ時に、まさに「目からうろこが落ちた話」です。
ボードリヤールは、こう呼びかけます。
生命は本来、不死の存在だったが、進化によって「死すべき存在」になったのだと考えてみよう。つまり、生物の進化とは、単一の生命からある部分が「独立」し、種を構成し、個性を生み出すことだというのです。
いまでも「ウイルスのような不死の存在」はありますが、高度に進化した人間は、一人ひとりの生命が意識を持ち出したおかげで、個の死が発生したというわけです。
「死は進化のおかげで人間が獲得した能力」。
「不死」は人間の古来からの夢と考えてきた私には、衝撃的な指摘です。
「死」は「個人としての主体性」を得るための代償だったのです。
しかし、そう考えてみれば、実にさまざまなことが納得できます。
節子を愛せたのは、節子という個人と私という個人が存在しているおかげです。
それらが一つの生命として繋がっていれば、私が愛する節子も、節子を愛する私も存在しないのです。
そこでは「愛」もなければ、「別れ」もない、そして「死」もないわけです。
死も不死もない連続した生命現象があるだけです。
生が死を伴うように、愛することには必ず別れがついています。
不死を手に入れれば、愛を手離さなければいけません。
いうまでもありませんが、「不死か節子か」と問われたら、私は節子、つまり愛を取ります。
さて問題はそこからです。
死を手に入れることによって、愛を手に入れた。
そこで「奇跡」が起こるのです。
生には死がつきまといますが、愛には「永遠の愛」という言葉があるように、死は必ずしもつきまとわないのです。
さらに、愛する人の死は、愛を永遠のものにすることを可能にします。
そこでは、「死」が「不死」に転ずるというわけです。
つまりこうです。
人間は、生を得るために死を呼び込んだが、愛によってふたたび不死を得たのです。
死は生物進化の成果ですが、さらにその先に愛があることで、物語は完結します。
ボードリヤールは、全く違った発想で不死を展望していますが、そこに近代西欧人の限界を感じます。
節子
死が私たちを分かったのではなく、死が私たちのつながりを完結させたのです。
だから、きっとまた会えるでしょう。
でも早く会いたいね。節っちゃん。
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