■節子への挽歌346:偏在する節子から遍在する節子へ
今日は彼岸の入りです。
節子が久しぶりに帰省しました。
とまあ、これは世間一般的な表現です。
わが家では節子の本拠を、節子が大好きだったわが家においていますし、彼岸とわが家は通じていると考えていますので、いつも節子は自宅にいると信じています。
にもかかわらず毎週、お墓参りに行きます。
お墓参りに行く前に節子の位牌に、ちょっとお墓に行ってくると挨拶し、戻ったらまた花が枯れてたよなどと報告するわけです。
これはおかしいのではないかと娘はいっていましたが、今は誰も違和感なくそうしています。
3次元を超えた世界に移った節子は、いまや3次元的宇宙に遍在する存在になっていると考えれば、問題はまったくないわけです。
しかし、私が生きている3次元世界では、故人はお盆に彼岸から戻ってくることになっていますので、わが家もそれなりの仕方で、迎え火で先導しながら節子を帰宅させました。
3次元的宇宙に「遍在」する節子は、この数日はわが家に「偏在」しています。
「遍在」と「遍在」。同じ発音ですが、意味は全く違います。
節子の心身に偏在(偏って存在)していた節子の魂が、いまや心身を離れて宇宙に遍在(あまねく存在)するようになったわけですが、節子の心身に偏在していたからこそ、節子は私の愛の対象になれたわけです。
宇宙に遍在してしまったら、節子を愛しようもなく、ましてや独占などできるはずがありません。
困ったものです。
私が愛していたのは、節子の心身と魂でした。
それらは不可分の存在であり、魂があればこそ、心身が輝いていたのです。
そして心身があればこそ、魂が3次元世界で可視化でき、私と出会えたのです。
あんまりややこしく書いても退屈ですね。
心身を離れた節子は、いまや宇宙に遍在しているわけです。
もう私だけのものではないということです。
しかし1年に1回は、私だけのものになるために戻ってくるわけです。
どうせなら心身も一緒に戻ってきてほしいものですが、あまり欲を出すのはやめましょう。
これからの数日は、戻ってきた節子と一緒に、ゆっくりと過ごしたいと思います。
今日は節子の夢を見るでしょうか。
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