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2008/08/28

■節子への挽歌361:節子への執着心

先日、偏在する節子と遍在する節子のことを書きました。
私にはとても納得できていることなのですが、体験者でない読者にわかってもらえたかどうか心配です。
特に遍在するという意味合いが実感できないかもしれません。
これは、物理学者のデビッド・ボームのホログラフィック宇宙モデル論に出てくる「暗在系」に関する論考に刺激された言い方です。
体験した人には、こんな説明は不要だと思いますが。

ボームは、宇宙は、目に見える世界としての「明在系」と目には見えない「暗在系」で構成されているといいます。
「暗在系」は、次元が異なるために人間には感知できませんが、そこでは時空間を超えて、あらゆる物が渾然一体となって畳み込まれているとされています。
時間も空間もありませんから、現世の次元で考えれば、すべてが「遍在」しているといえます。
ボームは「暗在系」こそが「明在系」を支える源であるといいます。
そして、この「暗在系」を「あの世」に重ねて考えている人は少なくありません。
たとえば、玄侑宗久さんや天外伺朗さんです。
たしかに、そう考えれば、あの世のことがわかったような気になります。
それに、華厳経のインドラの網や「一即一切 一切一即」にもつながっています。

ここでは、般若心経に絡めて少し書いてみます。
般若心経に出てくる「色即是空 空即是色」は、簡単にいえば、色(この世にあるもの)は、すべて縁起(空)から生じている一時的な形象であり、その縁起の世界には、この世のすべての存在が、時空間を超えてたたみ込まれているというような意味ではないかと思います。
「色」を明在系、「空」を暗在系と置き換えれば、見事にボームの理論に重なります。

空の世界は時空間を超えているため、時間も空間的な広がりもなく、したがって現存する色の世界の感覚でいえば、あらゆる存在があらゆる縁起と隣接しているわけです。
つまり、空の世界の節子は、この世のあらゆるところの向こうに、遍く、そして常に存在していることになります。
それが「遍在する節子」の意味なのです。
愛する人が、いつも自分と一緒にいると感じられるようになるのは、このためです。

「色即是空 空即是色」は、現世現物への執着を解き、空に囚われる絶望からも自由にしてくれる呪文。
仏教者は、そのように説くかもしれません。
執着もせず、絶望もせず、精神の安定を保つことの呪文。
しかし、般若心経を何度読んでも、私には、執着や絶望を捨てよとは聞こえてきません。
執着や絶望とともにあれ、と読めるのです。
正確に言えば、執着や絶望を超えよということです。
これは、節子がこの1年、私に教えてくれたことです。
いまの私はそういう生き方になっているように思います。

ここで終われば、私も少し悟ったように思われる気もするのですが、実は終わらないのです。
愛する人といつも一緒ならば、現世での再会に執着することなどないはずですが、残念ながら、私は今でも節子の写真に向かって、「会いたい」と話しかけています。
煩悩のなせる業か、今でも無性に節子に会いたいのです。
しかも、いつか会えるかもしれないという思いを捨てられずにいるのです。
執着以外の何物でもありません。

しかし、執着すればこそ、遍在している節子が存在化するのです。
誰かが思い続けている限りにおいて、節子はこの世界で生き続けられるのです。
執着とは「縁起」を起こす縁のひとつではないか、と私は最近考えるようになりました。
この執着が、いつか節子を顕現させるような、奇妙な感覚を拭えずにいるのです。
「色即是空 空即是色」の呪は、まだ私を「迷い」から救ってはくれません。

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