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2008/08/04

■国家のためと社会のため

今日、「社会変革」に取り組む活動に関わっている若い女性と議論していたら、「国家のため」という言葉が出てきました。
「国家のため」と「社会のため」は、似て非なるものですが、多くの人はその違いをあまり気にしません。
社会と国家は「公」のものとして同じ範疇に包含されているのです。
そこに大きな落とし穴があります。

「国家のため」の活動も、二つの意味があります。
今の国家を前提とした活動か、国家の変化を含めて国家そのものをよくしようという活動か、です。
違いがわかってもらえるでしょうか。
これは全く正反対の活動です。
北朝鮮のことを考えてもらえるとわかりやすいかもしれません。
国家である点において、北朝鮮も日本も基本的には同じです。

20年ほど前、日本経済のバブルが壊れた時に、日経ビジネスなどでよく「会社のためが会社を壊す」というような特集が組まれました。
会社のためと思って事業を拡大した結果、不良債権が増大して会社が倒産したというような話がたくさんありました。
「・・・のため」というのは、実は両刃の剣です。
子どものためと思って甘やかした結果、とんでもない事件を起こしてしまった最近の不幸な事件も、ありました。
「国家のため」とは、国家そのものを否定することも含意されていなければ、たぶん本物ではないでしょう。
国家を私物化している人たちが言う「国家のため」とは、実は「自分のため」なのです。

さらに「国家「と「社会」の違いもあります。
人民と国民を例に出して説明すれば、その違いはよくわかるでしょう。
人民は具体的に存在するすべての人を意味しますが、国民は制度としての国民的アイデンティティでくくられる抽象的実体です。
人民には個々の表情と生命がありますが、国民には個性もなく、したがって死もありません。
後期高齢者という捉え方は、国民発想であればこそ可能になります。
個々の表情のある人民は、そういう捉え方はできません。
社会は国民によってではなく、人民によって形成されます。
フランス革命は、出発点は人民主権でしたが、定着したのは国民主権です。
人民主権は国家にはなじみにくい理念です。

「国家のため」と「社会のため」とは違うものだという認識が大切です。
もっとも、「社会のため」という言葉にも大きな落とし穴があるような気がします。
ですから私には悩ましい言葉です。
私が実感できる言葉は、「私たちみんなのため」という言葉ですが、これも極めてあいまいな多義的な言葉ですから、落とし穴がありそうですね。

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