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2008/08/22

■節子への挽歌355:なくなりようのない喪失感

「それでも私は元気です」(挽歌353)と書いてきたOMさんが、私のブログを読んでメールしてくれました。
彼女の了解を得て、その一部を、かなり長いですが、紹介させてもらいます(原文をちょっと変えたところもあります)。
私の気持ちを、私以上に的確に表現しているからです。
私が書いた文章と言ってもいいほど、同感できます。

ブログを読んで、不覚にも涙がこぼれました。
その現象に、自分でも驚いてしまいました。
佐藤さんが仰るように、自分はまだ「父の死を克服できずにいる」んだなぁと思いましたが、
でも私は、これは「克服する」ものではない、と前々から思ってもいます。

「大切な人を失う」ということによる喪失感は、決して埋まるものではないと思っています。
例えるなら、
植木鉢に咲いていた花や雑草を抜いたとき、そこにできる穴のようなもので、
新しい花を植えたり、その穴に土を加えれば、その鉢は満たされるのですが、
けれど、その鉢は決して前と同じではないのです。
また、その穴を埋めることなく放置しておいても、
長い時間が経てば、やがてそれは風雨にさらされて、どこに穴があったのかわからない状態になります。
一見その鉢は満たされたように見えますが、
でもやはり、かつてあった物がなくなったという質量の絶対的な減少が生じているわけです。
要するに、私が持っている喪失感は、決して無くなったりはしないのだと思っています。

私の母は、父が無くなってから3年ほど平穏な日常を失っていたように思いますが、
今ではどうやら穏やかな日常を取り戻しているように見えます。
でも、それは「取り戻した」とは言っても、もちろん以前の日常とは違います。
以前とは異なる日常を、彼女は新しく得ることができたということです。

悲しみを持っているということと、日常を生きるということは、共存できるものなのだと思います。
胸にどうしようもない喪失感を抱えたまま生きているのが、人間なのだと思います。

誰かの死、誰かの悲しみ、自分が生きること、自分が笑うこと
これらはすべて共存できるものだと思います。
うまく言えませんが、それぞれ相互につながっているものではあるけれど、
何かが無くなったからと言って、同時に消滅してしまうものでもない。
それらは、個々の事象として、そこにただあるだけです。

ドラマなどでよく「お父さんはあなたの心で生きている」なんて台詞がありますが、
これは以前、私は非常にくさい台詞だと思っていました。
いや、今でも「くさい」とは思いますし、これが正しいとも思いませんが。
でも、言いたいことは何となくわかるような気はしています。
常に父のことを考えているので、いなくなったという感じがしないのです。
まぁ、でも現実にはいないわけなんですが。
そのギャップが喪失感なのかもしれませんね。

全く同感です。
OMさんは最後にこう書いています。
「それでも私は元気です」は、
出過ぎていると思いながらも、私なりに佐藤さんを応援したつもりでした。
OMさん、ありがとう。
だから私も元気です。

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