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2008年9月

2008/09/30

■節子への挽歌395:マリーがよろこばないから

節子
この半月、テレビで放映された映画「ボーン・アイデンティティ」シリーズをDVDに録画して、3回も繰り返し観てしまいました。
最近、DVDで映画を観る時間が増えてしまいました。
映画館に一人で行く気はほとんどなくなってしまったのですが。

最近のアクション映画はどうも作り方が粗雑ですが、このシリーズはとてもよくできていて、何回観てもあきないのです。
観れば観るほど、ていねいなつくりに感心できます。

この映画で、気になるセリフとシーンがあります。
「マリーがよろこばないから」というボーンのセリフです。
口には出しませんが、目でそのセリフをいうシーンもあります。
マリーとは、主人公のボーンの恋人ですが、2作目の冒頭で殺害されます。
国家によって殺人マシンに改造されてしまったボーンは、常に生命を狙われており、自己防衛のために送られてくる刺客を殺さなければならないのですが、マリーはそれを好みません。
そんなことをやっていても、きりがないとボーンに言うのですが、その思いからの一瞬の迷いが結果的にマリーを守ってやれないことになるのです。
シリーズの2作目は、そこから物語が始まります。
ボーンは、マリーの言葉を守って、極力、人を殺すことはしなくなります。
たとえば、ボーンを利用した悪事のボスの一人を追い詰めて、彼が早く殺せという言葉に対して、ボーンが言うのが、この言葉です。
「マリーがよろこばないから、殺しはしない」。
洗脳と記憶喪失で人間をやめていたボーンが、人間を取り戻していくキーワードです。

ちょっと「くささ」のある、何ということのないセリフですが、この言葉が聞きたくて、私はこの映画のDVDを繰り返し観てしまっているのです。
自分ならそんなことができるだろうか。

しかし実際には、私もこういう言葉をよく使っています。
娘たちと話していて、たとえば「節子ならこうするだろうな」「節子ならそうはしない」というように、です。
言葉にはしませんが、何か迷った時には、節子だったらどうしろと言うだろうかと考えます。
節子の判断は、私にはこれまでもいつも頼りになりました。
私と違って、小賢しくなく、素直に考えられる人だったからです。
もっとも、その節子の意見と私の意見とが違った場合、節子が元気だったころは節子の意見に従わず、私の考えを優先させたことが多かったです。
ですからわが家には借金が残ってしまったり、新築したわが家に構造的な問題があったりしてしまっているのですが、私よりも節子の判断が正しいことの多いことは、節子がいなくなってようやく認められるようになりました。
正確」に言えば、そのことは前から知っていましたが、それを認めたくなかったのです。
今から思うと馬鹿げた話ですが、これは私の悪癖の一つでした。
自分が間違っていても、それを素直に認められなかったのです。

節子がいなくなってから、そうしたことはほぼなくなりました。
それ以上に、「節子がよろこばないことはしない」ということが原則になりました。
最近の私の行動規範は、節子に共感してもらえるかどうかです。

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2008/09/29

■蛇足記事:麻生首相に失望しました

麻生首相の、就任後初の所信表明演説を聴くために、今日は予定を変えて自宅にいました。
テレビでは朝から中山前国交相の話題で持ちきりですが、なんと中山さんがみのもんたの番組に生出演したのには驚きました。
さすがにその番組のコメンテーターたちは、しっかりと怒っていましたが、中山さんは全く意に介することなく、自分の世界で持論を繰り返していました。
その後味が何ともよくなかったのですが、午後のテレビでの所信声明を聴いて、麻生さんと中山さんとは全く同じタイプなのだと気づきました。

私は麻生さんのようなタイプが、どちらかといえば好きです。
もちろん、その考えは嘔吐したくなるくらい嫌いですが、どことなく愛すべき雰囲気を感じていました。
ですから麻生さんには、期待していたところがあります。
しかし今日の演説には全く失望しました。
麻生さんはすでに選挙戦で負けていたのです。
彼の世界では、すでに未来は過去になっています。

私の選挙結果予報は、これまで当たったことがありませんが、今度の衆議院選挙は、野党側の圧倒的な勝利になると思います。
今日の演説は、それを決定的にしたと思います。
ちなみに躍進するのは社民、共産などのミニ野党です。
民主党ももちろん伸びるでしょうが、それはたいした意味はありません。
私の感覚はますます社会から脱落していますから、残念ながらまた外れるでしょうが。

麻生さんの今日の演説を真面目に聴いていたら、みんな麻生さんに愛想を尽かすでしょうが、自民党には幸いなことに、国会中継などを見続けるほど暇な人はそういません。
しかし、これほど何も考えていない人だとは思ってもいませんでした。
中山さんと同じく、麻生さんの頭の中にあるのは、屈辱感と憎しみです。
彼らの関心は未来にではなく、どうも過去にあるようです。
所信声明には、ビジョンや夢が全くありませんでした。
単なる民主党への愚痴を並べただけでした。

演説を終えた後の麻生さんの含み笑いの顔は、1950年代のアメリカ西部劇の殺し屋の顔を思い出させました。
それを見て、麻生さんは、この演説をしたくて首相になったのだと思いました。
もしそうであれば、見事に成功したわけです。
そして麻生さんの役割はそれで終わったわけです。

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■節子への挽歌394:リーダーのいない家族工務店

節子
久しぶりに家族工務店が復活しました。
家族3人で節子の位牌壇を置いている場所の改装工事をしたのです。
住宅のメンテナンスをお願いしている会社に見積もりしてもらったら6万円でした。
見積もりをとってくれた娘が、自分たちでやろうと言い出しました。
私も、節子がいたらきっと自分たちでやるだろうなと思いましたので、賛成しました。

節子は生活上のことは、できるだけ自分たちでやるという人でした。
つまり「百姓的生活」者です。
百姓は決して農業の専門家ではなく、生活のための百の姓(仕事)をする生き方です。
私の理想とする生き方ですが、私にはできなかった生き方でもありました。
節子はそれができる人でした。
節子と結婚して以来、私の生活はほとんどすべて節子に支えられだしたのは、そうした節子の百姓的生活志向によるところが大きいです。

私も一応、日曜大工が好きでしたが不器用なのです。
朝日新聞の連載漫画の「ののちゃん」のお父さんと同じで、私のつくる椅子はすぐ壊れ、棚は不安定なのです。
それに途中で飽きてしまって,やめることも少なくありませんでした.
家電製品は分解して、それで終わりなので、直ったためしがありません。
壊れていないものまでも壊すというのが家族の評価でした。

節子と結婚した当初は、私が修繕担当・工事担当でしたが、そんなわけで、ある段階から節子がリーダーになりました。
子どもたちが小さかった頃、節子がベランダのペンキ塗りをやろうと言い出しました。
4人での大仕事でした。
近所の人もきっと驚いたでしょう。
少し仕上げはムラなどがありましたが、うまくいきました。
室内の壁紙貼りも家族の仕事でした。
それが節子の文化で、わが家ではそうした家族工務店活動が盛んでした。
私の還暦祝いで庭に池をつくったのも、この家族工務店です。
下の娘が節子以上に器用なので、その文化を継承しました。
上の娘は私とほぼ同じ性格なので、途中でやめたくなるタイプですが、協力的です。

昨日の日曜日、急にその工務店が復活しました。
3人で近くのDIYのお店に行って材料を買ってきました。
改装工事といっても、石膏ボードで空間をふさぎ、そこに周辺に合わせて壁紙を貼るだけのことですが、目立つところなので綺麗に仕上げないといけません。
壁紙の貼り方は節子が娘に伝授していました。
「リフォームをプロの人に頼んだ時、お母さんはずっとそのやり方を見ていて覚えたんだよ。その人は仕事がしにくかったろうね」
と娘が教えてくれました。
しかし、そのおかげで壁紙貼りはプロ仕様になりました。

結局、材料費などの現金出費は2000円以下でした。
終わった後のケーキ台を含めても3000円。
節子が居たらケーキも作ったでしょうが。

節子の文化のおかげで、わが家は本当に現金出費が少ないのです。
それに百姓的生活は、私にはとても快適です。
疲れますが。

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■政策と財源

自民党と民主党の政権をかけた闘いが始まりました。
昨日は日曜日だったこともあり、各党の代表がいろんなテレビ番組にセットで登場し、政策論争をしていました。
政策論争といえるかどうかは、いささか疑問ですが。
また街や農山漁村の人たちの声を取材する番組も多いです。

そうした番組を観ていて、いつも不思議に思うことがあります。
とりわけ民主党に向けられた批判なのですが、「政策はいいが、その財源はどうするのか」という批判です。
もっとひどい批判は、「政策はいいけれど、本当にやってくれるのか」という声です。
私にはとても不思議なのですが、その批判も民主党に向けられることが多いのです。

こうした反応は完全に与党の視点での反応であり、現状延長の発想です。
そういう疑問を持つ人は、変革とは何かが全く分かっていないのだろうと思います。
新しい提案に対して、まず否定的に反応することの意味を考えて見なければいけません。

2:6:2の法則と言うのがあります。
何か変化を起こそうとする時、積極的に動き出す人たちと変化に反対する人たちが、それぞれ2割ずつ存在する。
残りの6割は、その時々の状況の中で優勢のほうにつくという法則です。
政策に賛成しながら財源を質問する人は、日和見主義の6割の人たちです。
日和見主義者は、自分の考えはないまま政権党の与党を支持しますから、新しい提案には難癖をつけます。
難癖と言うのが言いすぎだとしたら、留保条件をつけるわけです。
つまりフェアではなく、逃げ道を作っておくということです。
私から見れば、自分の見識に自信のない人たちです。

財源などどうでもいいのです。
政策において大事なのは、その政策が「良いかどうか」「やるべきかどうか」です。
「やれるかどうか」ではありません。
それが政策論議です。
もし良いものであり、やるべきであれば、ではどうすればできるかです。
そこで財源問題が出てきますが、財源は政策の優先順序が決まれば確保されるに決まっています。
いささか大雑把過ぎるかもしれませんが、そもそも財源などは個々の政策ごとに考える話ではありません。
国民は目的税発想で税金を納めているわけではありませんから、政策論議に財源をかませる必要はありません。
こんな簡単な論理がなぜ分からないのだろうかと、私はテレビを観ていて、キャスターが「財源は?」などと質問するとがっかりします。
この人は与党政権のまわしものかと思ってしまうわけです。
それに対応しようとする民主党の代表には同情しますが、そんなことに応えなくてもいいのにと思ってしまいます。
しかし日和見主義者が選挙の結果を左右しますから、そういう見識のない人たちに迎合しなければいけないのです。
なんだかとても虚しい話です。

私の考えは間違っているのでしょうか。

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2008/09/28

■節子への挽歌393:世界は心の鏡

最近はメソメソしていないね、と先日会った友人が言いました。
そんなことはありません。
最初からメソメソしていないし、今もメソメソしているのです。
つまり私の心情には何一つ変化はありません。
そのことは何回も書いてきました。
しかし、よそから見るとそう見えるのかもしれません。

見られる私が、どう見えているかは私にはわかりませんが、
私が見ている風景の変化は実感しています。
同じ風景のはずなのに、節子がいなくなってからは違って見えることが少なくありません。
最近の体験では、滋賀の観音様たちがみんな元気をなくして見えました
わが家の近くの手賀沼公園の風景は、以前は元気を与えてくれた風景でしたが、最近は寂しさを感じさせます。
わが家の庭の花は心なし寂しそうです。
おしゃれなレストランを見ると目を背けたくなります。
さわやかな青空が心を弾ませなくなりました。
テレビの旅行番組には興味が全くなくなりました。
犬の散歩で近所を歩いてもあまり人の気配を感じなくなりました。
なにか気分が高まった新幹線も飛行機も、気が沈む空間になりました。
病院を直視できなくなりました。
なによりも「がん」という文字に強い拒否反応が出てしまいます。

節子と別れてから、世界の風景はまさに自分の心を映していることを知りました。
節子と一緒に見ていた時の上野と、最近の上野はちがいます。
いまはただただ雑多なだけです。
以前はいつも何か新しい発見がありました。
まさに風景の中に、自分が見えるような気がします。

人は、目で世界を見ているのではなく、心で世界を見ているのかもしれません。
首相になりたての福田さんと最近の福田さんは、私には全くの別人に見えます。

節子と私の関係は大きく3回、変わりました。
それに応じて、3人の節子がいるのかもしれません。
結婚する前の節子、結婚してからの節子、そして会えなくなってしまってからの節子。
一番かわいかったのは結婚する前の節子でした。
一番存在感が無いのは結婚してからの節子です。空気のようでした。
しかし、今の節子は、私には神のような存在です。
その、私に生きる意味を与えてくれていた節子の不在が、私にとっての世界の風景を変えてしまったとしても仕方がありません。

人は自分が見たいように世界を見る。
この頃、改めてそう感じています。
もしそうなら、私の見ている世界がまだ元気になっていないとしたら、私自身も間違いなく元気ではないのでしょう。
いつか抜け出せるのでしょうか。

みんなは、元気になってよかったねといってくれますが、それはきっとみんなの希望的な風景なのでしょう。
以前とは全く違った風景が、まだ私の周りを取り巻いています。
1年経ったのに、その風景は変わっていません。

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■共感できるものには市場価格よりも少し余分にお支払する文化

放置していたわが家の家庭農園が雑草に占拠されてしまっていました。
そこで、先日、周辺に迷惑をかけるので、娘と一緒に手入れをすることにしました。
生い茂った雑草を鎌で刈るのですが、かなりのハードワークです。
30分ほどやったところで、疲れきるとともに、立ちくらみを感じました。
休むつもりで、乗ってきた自転車の椅子に座ったのですが、突然倒れてしまいました。
幸いに大きな怪我はなかったのですが、釜を持っていたままだったら危なかったです。
しばらく立てなくて、そのまま横になっていました。
娘からこんなところで倒れると手の施しようがないから、休んだら帰るように言われましたが、親の面目がないので、少し休んで作業に復帰しました。

しかし、農作業というか、雑草との戦いは大変な重労働です。
普段楽な生活をしているからだと思われるかもしれませんが、体験された方はわかるでしょうが、農作業は重労働です。
こんな重労働しても、農家は生計を立てられずに兼業化してきています。
これはやはりおかしい話です。
ともかく日本のお米は安すぎます。
僅かばかしの家庭農園をやるだけで、食材の価格の低さにいつも矛盾を感じます。
何かできることはないかと考えました。

米作りの農家から、直接お米を買うのはどうだろうかと思いつきました。
幸いに私の義兄も、兼業農家として米作りをしています。
そこから、応援価格で購入することを検討することにしました。
応援もかねて、市場よりも2~3割高く買うということです。
顔の見えない生産・流通構造に市場より高い価格を払うのは抵抗がありますが、顔が見えれば高く払っても納得できます。
生産のための苦労がしっかりと見えているからです。
ふるさと納税もいいですが、農家への直接支援活動も一考に値します。
もっともそれが広がると流通産業がダメッジを受けかねません。
難しいものです。

1時間ちょっとの農作業体験(雑草抜き)でしたが、いろいろと考えさせられました。
人間は現場に出て身体を動かすと少しは賢くなるものです。
ちなみに、応援価格の発想はなかなかいい発想だと思えてきました。
この発想は、昔あったような気がします。
お米に限らず、共感できるものには市場価格よりも少し余分にお支払する文化を、もう一度復活する運動が広がるといいと思います。

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2008/09/27

■中山大臣の発言は失言ではなく暴言です

政治の世界のあまりの不誠実さに、しばらくは時評を差し控えようと思っていましたが、あまりのひどさにやはり一言書くことにしました。
中山国土交通相が、暴言を繰り返しています。

新聞によれば、9月27日、地元の宮崎市の自民党県連の会合で、「成田『ごね得』」「日本は単一民族」との発言は謝罪したが、「日教組の強いところは学力が低い」との発言は撤回せず、改めて「日教組は解体する」「日教組をぶっ壊せ」と強調。さらに日教組が民主党の支持団体であることを指摘し、「小沢民主党も解体しなければならない」と民主党を批判した、そうです。
自分の属している組織の解体を口にするのはいいでしょうが、そうでない組織の解体を口にするのは、責任ある大臣としては許されることではないでしょう。
私が解体を口にするのとは全く違います。

彼の意識の中にある「憎しみ」と思考の「暴力性」は、おそらく繋がっているのでしょうが、哀れな人です。
こういう人を育てた教育は、確かに彼が言うように間違いがあったのでしょう。
彼にこそ「道徳」を学ばせてあげたいものです。

早晩、彼は大臣を辞せざるを得ないでしょうが、彼はこうも言っているそうです。
「辞職する考えはないが、(大臣に)しがみつくつもりもない。事態の推移を見守る」。
気になるのは、後半の「大臣の座にしがみつくつもりはない」というくだりです。
中山大臣に限らず、そういう発言をする人はこれまでもいました。
私には、その発想こそ、極めて問題ではないかと思います。
国民から責任と権限を預けられた立場の人が言う言葉ではないはずです。
自分で苦労して勝ち取った私的な立場であれば、そういう発言もいいでしょう。
しかし国民の代表として、いわば国民から雇われて大きな権限を与えられた者としては、「大人の座を投げ出すつもりはない」と言うべきではないでしょうか。
発想の根本が間違っているように思います。
太田前農相は投げ出しましたが、あれは「しがみつかなかった」こととは無縁の話です。
大臣の座は、私物化してはいけません。
それくらいの常識は持ってほしいものです。

解体にしろ、しがみつきにしろ、中山大臣は政治家としての資質ではなく、市民としての資質が欠落しています。
これは失言などでは断じてありません。
マスコミも、暴言と失言の違いくらい、意識してほしいものです。
解体対象にされた日教組と民主党は、まさか聞き過ごすことはないでしょうね。
けじめはきちんとつけないといけません。
組織の信頼性に関係します。

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■節子への挽歌392:大浦さんとのメールのやりとり

挽歌390を読んだ大浦さんから、メールがきました。

郁代の気持ちに寄り添って頂いてうれしいです。
有り難うございます。
「前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。」
よくわかります。
節子さんと郁代は魂が似通っていたように、私には感じられてなりません。
「そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。」
私はここで立ち止まります。いつも私が胸に抱えている事だからです。「私が節子に伝えたかったこと」であり、「私が節子に伝えたこと」ではないからです。

お別れが近づくと、送られる人は遺される者に対し、精一杯の感謝を伝えます。
「私はしあわせだったよ。ありがとう!」と。
けれども、見送る者は感謝を伝えることが、苦しくて、できません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」と私は娘に言ってあげれませんでした。
別れを認める事が怖くて、できませんでした。
でも、娘はその言葉を一番言って欲しかったに違いありません。
毎日、そのことを思っています。そして、涙がとまりません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」が、わたしの「伝えたかったこと」でした。

私も似たような思いを時々持ちました。
最後にきちんと話さなかったことが悔やまれて仕方がなかった時期がありました。
ですから大浦さんの気持ちは痛いほどわかります。
こんなメールを送りました。
こう考えたらどうでしょうか。
誠実に対応していれば、伝えたかったことは伝わるものだ、と。
人の心は、言葉とは別に、そして言葉以上に、相手に伝わります。
郁代さんは、大浦さんの心身のすべてから、大浦さんが伝えたかったことを受け止めていたと思います。
そして、なぜその言葉がいえなかったのかもわかっていたでしょう。
私の体験を思い出せば、そんな気がします。

私の場合は、妻が病気になる前から、節子のおかげで幸せな人生になれたことを言葉でも伝えていたと思います。
意識はしていませんが、そう思っていたからです。
大浦さんもそうだったのではないですか。

節子が息を引き取る直前に、感謝の言葉をきちんと伝えればよかったと思ったことは何回もあります。
しかし、その時は、最後に「ありがとう」というのが精一杯でした。
別れが確実になるのは、最後の最後の一瞬です。
それまでは、大浦さんも書いているように、別れを認めるようなことは一切、できないのが現実です。
最後に冷静に、「いい人生をありがとう」といえるのは、送られるほうだけで、送るほうはそんなことをいえないのが、現実だと思います。
現実は、ドラマとは違うのです。
少なくとも私の場合は、そうでした。
もしまたやり直すことになったとしても、たぶん同じ対応になるでしょう。
そんな気がします。

私も、節子に言いたかったことが山のようにあります。
節子もたぶん山のようにあったことでしょう。
でもお互いにいえなかった。
いや言わなかった。
その気になれば、言えた時間はあったはずなのに。
でも話さなくても、愛する者同士は通じているように思います。

大浦さんからメールが来ました。
私の「伝えたかったこと」を書くことが出来てよかったです。
佐藤さんにならわかって頂けると思うと、気持ちが落ち着きました。
誰かに聞いて貰えるだけでよかったんだと気付きました。
そして、「伝えたかったこと」を書いたんだから、娘にも必ず伝わった、聞いてくれたと思えました。
佐藤さんのブログのおかげで、このような機会が与えられましたこと、感謝いたしております。

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■日本の治安状況

娘が犬の散歩の途中、道路沿いの家の人が鍵束を家の扉の鍵穴にさしたまま、自動車で出かける現場に出会わせました。
気がついた時には自動車は走り去っていました。
人通りの多い、自動車道路沿いの新しい家です。
さて、どうしたらいいでしょうか。
そのままだと泥棒がはいりかねません。
かといって、勝手に鍵を抜くわけにもいきません。
みなさんならどうしますか。

娘は、交番に電話することにしました。
近くの交番の電話番号を探しましたが、女房なら一発で出ますが、なかなか見つかりません。
それで110番に電話して相談しました。
県警にかかったそうですが、近くの交番から電話させるということでした。
ところが5分たっても連絡がありません。
娘は心配して、その家の前に見張りに行くことになりました。
娘が出かけた後、近くの交番の電話番号がわかったので電話しようと思ったら、ようやく交番から電話がありました。
別の事件があって、遅れてしまったのだそうです。
場所を教えてそこに出向いてもらうことにしました。

ところがそれから5分以上たっても娘から電話がありません。
最近、ボーンシリーズの映画を観ているせいか、3分もあれば、どこにでも行けるだろうという変な先入観があって困るのですが、結局、連絡してから20分たっても警察官は現場に到着しないのです。
あまりに遅いので、私が見張りの交替に向かったら、途中で娘に会いました。
警察官が来て、鍵を抜いて持っていってしまったのだそうです。
娘が張り紙をしないでいいのかと聞いたら、電話番号を調べて電話するといったそうです。

でも待てよ、です。
鍵がなければ家の中に入れないので、電話をかけても通じないのではないか。
心配性の娘は、やはりドアに張り紙をして来ようとまた出かけていきました。
娘が戻ってきてしばらくして、交番からまた電話がありました。
おまわりさんも、やはり張り紙をしにいったそうです。
そうしたら娘の張り紙があったので、張り替えさせてもらったという報告の電話でした。
きっと交番に戻ったら、娘が気づいたことを同僚に指摘されたのでしょう。
いやはや実にほのぼのとした話です。
わが家はみんなで大笑いできました。

しかし、でも待てよ、です。
こんな事件ですから笑い話で終わりますが、もしこれがもっと深刻な事件だったらどうでしょうか。
笑っている場合ではないのです。

どこに問題があるのでしょうか。

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2008/09/26

■節子への挽歌391:曼珠沙華―とても辛かった幸せ

節子
あなたの滋賀の友人から俳画の絵葉書がまた届きました。
無断で掲載してしまいます。
曼珠沙華の絵ですので。
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先日から庭に曼珠沙華が咲いています。
この花は凝視できないくらい、たくさんの、しかも重い、節子の思い出があります。


曼珠沙華の球根は有毒です。
それがお墓の周辺に植えられた理由(お墓を動物から守る)だそうです。
そして、彼岸花といわれるように、秋の彼岸の頃に咲くのです。
曼珠沙華の球根をすって、うどん粉でこねて湿布するという民間療法があります。
腹水をなくす効果があるといわれています。
私たちも一度、漢方の薬局に頼んで仕入れてもらって、トライしてみました。
節子は一度でやめました。
あまりあっていなかったようです。
足の裏が炎症をおこしてしまったのです。
当時、私は毎日、節子の足裏をマッサージしていました。
私と節子の、辛いけれども、悲しいけれども、とても幸せな時間でもありました。

曼珠沙華の球根に限らず、わらをもつかむ気持ちで、私たちはいろんなことをやりました。
あまり効果はありませんでしたが、そして節子も私も、娘たちも、みんな辛かったですが、いろんなことに挑戦できるのは、今から考えると実に幸せだったのです。
奇跡のように小さくはありましたが、希望がありました。
なによりも、節子と世界を共有できました。

看病とは、実はとても幸せな時間なのです。
もちろん肉体的にも精神的にも、過酷なほど辛いです。
しかし、目的があり、希望があり、何よりも世界が共有できるのです。

介護疲れで起きる事件は少なくありません。
そうした報道に接した時には、私も節子も、お互いの気持ちがわかるねとよく話しました。
そうした事件には、被害者も加害者もないのです。
新聞やテレビでの解説には、私たちは同意できませんでした。
どんなに過酷でも、結果がどんなに悲惨でも、その瞬間は、2人とも幸せなのです。
誤解されそうですが、私はそう確信しています。

曼珠沙華療法をやめたので、球根がたくさん余りました。
昨年、節子を見送った後、それを庭に植えました。
毎年、節子と共有した、とても辛かった幸せを思い出そうと考えたのです。

庭の曼珠沙華が咲いたよと娘に教えてもらったのは、もうだいぶ前です。
でも今も曼珠沙華は咲いています。
その花を節子に供えようかどうか躊躇していたのですが、節子の親友からの曼珠沙華の俳画を供えることができて、その難問から解放されました。
友だちというのは、心が繋がっているんだと、改めて思いました。
勝っちゃん、ありがとう。

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■茶番劇で構成されている社会

今朝の朝日新聞によれば、琴三喜が、「勝ち越したのであとは優勝を目指すしかない」と発言したそうです。
最近は少し変わってきましたが、力士はなにを質問されても、「ただ一番一番を真剣に闘うだけです」という、退屈な返事がほとんどでした。
昔から、これには大きな違和感がありました。
機械じゃあるまいし、感情や意志はないのかと思ってしまうわけです。
ですから私の力士像は、素直に気持ちを言ってはいけない職業というイメージです。
つまり、力士は「嘘つき」であることを強要されているという気が、ずっとしていました。
それがたぶんさまざまな不祥事の大本だと思っています。

そうした「嘘つき」が、世の中には多すぎます。
嘘が「マナー」になっているのが、政治家や経済人かもしれません。
官僚もそうです。
その結果、何が起こるか。

水俣病が問題になりだした頃、通産省や熊本県や水俣市の役人は嘘を言い続けました。
嘘が嘘を生み、どうしようもなくなり、悲劇が起きました。
そのことはすでに、昭和40年代には明らかにされだしていました。
チッソ関係者も問題ですが、歴史的事実は、通産省や大学教授が加担していたことを明らかにしています。
通産省や加担した大学教授がいればこそ、チッソは暴挙を継続できたのです。
通産省はいくらでもストップできました。
しかし企業関係者以外は、おそらく誰も処罰されなかったように思います。
むしろそれを防止しようとした人がいじめられて、追いやられるほどでした。
その経験は、しかし正されることなく、いまなお繰り返されています。

フィブリノゲン薬害肝炎事件はどうでしょうか。
厚生労働省の役人と大学教授と製薬会社が嘘をついていたことは否定できません。
そのせいで、何人の人が死んだのでしょうか。
年金問題はどうでしょうか。
社会保険庁の組織的取り組みだったことは、いまやあまりにも明確です。
そして最近の事故米事件。
犯人は農水省の役人たち(個人ではありません)であることは、私には明らかに思えます。
まともな感覚を持つ人なら、だれでもわかるはずです。
それをしらばくれる政治家や官僚やマスコミは、嘘をついているだけです。
文部科学省はどうでしょうか。
学校の現状を日教組のせいにする大臣が今なおいますが、日本の教育を壊したのは、文部省です。
もし日教組に問題があるとしたら、それも含めて文部省の責任です。

社会のほとんどの大事件は、例外なく「」権力を持つ中央官庁とそこに寄生している「有識者」が絡んでいます。
個人や企業で起こせる事件は、規模の点ではそう大きいものにはなりえません。
大きな犯罪は、ほとんど例外なく組織犯罪です。
個人で起こせる被害者の数は、せいぜいが100人規模でしょう。
政府が加担すれば、それが100倍以上に拡大します。
マスコミが、それをさらに拡大します。

もちろん政府は最初から犯罪を起こそうとは思っていなかったでしょう。
最初はちょっとした嘘(方便)や手抜きだったかもしれません。
しかし一度やってみると、その味は忘れられません。
そして、政府が持つ絶大な権力が、個人のちょっとした悪意をテコの原理のように増幅させ、しかも見えなくしてしまったのです。
組織の持つレバレッジ効果です。
その文化が、いつのまにか根づいてしまったのです。
嘘をついても罰せられない社会になってしまったのです。
昨日、引退を表明した小泉元首相は、それをほめたてました。

耐震偽装もそうでしたが、みんな嘘をついているのです。
検査をしたといいながら検査もせずに、許可を与えてしまう。
そうした「嘘の文化」が日本を覆ってしまっているのです。
しかも、関係者みんなそれを知っている。
なんともまあ、茶番の国です。
国技の相撲の文化は、それを象徴しているのかもしれません。

麻生内閣の茶番劇には何をかいわんやです。
閣僚全員が嘘つきに見えて仕方がありません。
少しは真実をもってほしいものです。

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2008/09/25

■節子への挽歌390:見送るのも、見送られるのも同じなのですね

このブログの読者の大浦さんも、娘の郁代さんを若くして見送っています。
その追悼の本を出版されました。
「あなたにあえてよかった」
北國新聞社出版社から2006年に出版されています。
私は贈ってもらったのですが、読めずにいました。
本の最初に郁代さんの遺書が載っています。
それを読むのが精一杯でした。
大浦さんからは、読めるときがきたら読んでくださいといわれていました。
まだ読めずにいますが、先日、少し読み出せました。
大浦さんからメールがきて、そこに郁代さんの婚約者への遺書の一部が書かれていました。
それを読んで、何だか節子が書いたような、いや私自身が書いたような不思議な気持ちがして、繰り返し繰り返し読みました。
涙が出て仕方がありませんでした。
一部だけ引用させてもらいます。

人よりは少し短めの人生だったけど、この世にまだ未練はたっぷりあるけど、でもとても充実したいい人生だったと思います。
私の意思を尊重し信頼してくれた両親のおかげで、これまで自分の道は自分で決めてこられたし、やりたいことがいろいろ出来たので、後悔は全く無いんだよ。
前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。
そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。
もしかしたら、愛する人と別れることになった人は、みんな同じ思いを持つのかもしれません。
そんな気がしました。

愛する人を見送るのも、見送られるのも、実は同じことなのです。
私の気持ちは節子の気持ちだったのです。
大浦さんのメールを何回も読んでいるうちに、そして大浦さんから贈ってもらった本を少し読んでいるうちに、そのことに気づきました。

きっと彼岸の節子も、いまの私と同じ気持ちでいるのかもしれません。
見送るのも、見送られるのも同じであるならば、見送られるほうが平安かもしれません。
そう考えたら少しだけ心の平安を感じられました。

ブログを書いていると、元気づけられることが少なくありません。
そして読んでくださっている人をささやかに元気づけていると思うと、うれしいです。

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■お金はあったほうがいいのか

一昨日に続いて、もう少しお金のことを考えて見ます。

4つの命題があります。
A:お金があれば幸せになれる。
B:お金がないと幸せになれない。
C:お金がなくとも幸せになれる。
D:お金があれば幸せになれない。

いずれの命題も、何がしかの正しさと誤りを含んでいますが、
どの命題を大事にするかで、人の生き方は変わってきます。
みなさんが大切にされている命題はどれでしょうか。

私は「お金がなくとも幸せになれる」生き方を大事にしています。
当然ではないかといわれそうですが、当然なのです。

お金がない場合、どうしたらいいか。
人に親切にするしかありません。
誰かの役に立つことを考えなければいけません。
誰かの役に立てば、必ずだれかが支えてくれると思っています。
お金があったらどうでしょうか。
誰の世話にならずとも、自分だけで楽しい暮らしができるかもしれません。
しかも、お金を提供することで、誰かの役に立つことができる喜びを味わえるかもしれません。
しかし、お金がなくなったらどうなるか。
お金がなくならなければ、その心配も不要かもしれません。

こう考えると、やはりお金はあったほうがよいことになります。
いろいろと書いてきたのに、やはり私もお金信仰者の一人のような気がしてきました。
実際、時々、お金がほしくなって宝くじを買ったりしています。
どうも矛盾しています。
いやはや、お金の威力は計り知れません。

しかし、「お金はあったほうがよい」という結論には、
どこかに間違いがあるはずです。
それが何なのかわかりません。
困ったものです。

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2008/09/24

■節子への挽歌389:見えないものを見る心遣い

このブログを読んでくださっている中に、私と同じように「愛する人」を見送った方がいます。そのお一人の米田さんはブログにコメントくださいました。
そのなかに、私と同じように、「主人を褒めていただく事が何と嬉しい事か」と書いてきてくださいました。
「お褒めのお言葉は何より嬉しく励まされます。そして、本当に真面目に真剣に生きた主人は、やはり家族の誇りです」と書いています。
とてもよくわかります。
米田さんもそうでしょうが、自分をほめられること以上に、うれしく元気づけられます。

でも多くの人は、目の前の、愛する人を失った人に目を向けます。
それは当然のことです。
たぶん私もそうしてきたし、これからもきっとそうでしょう。
目の前にいる人を気遣うのは、自然の心の動きです。
それはとてもうれしいことです。

にもかかわらず、当事者になって気づいたのは、自分への心遣いよりも、愛する人への心遣いがこれほどにうれしいことなのだということです。
もちろん、ただ愛する人への形式的なほめ言葉は、心には入ってきません。
そこがまた微妙なのですが、目の前にいる私を意識せずに、節子のことに言及されることがうれしいのです。
私を通して、私の中にいる節子を感じてくれ、思ってくれていることが伝わってくるからです。

亡くなった人は戻ってこないのだから、などといわれると、この人は私とは違う世界の人だと感じます。
その人は、私のためを思い、元気づけようといってくださっているのですから、感謝しなければいけないのですが、どうもそうはなりません。
お互いに不幸なことなのですが。

こうした経験をして気づいたのは、見えないものを見ることこそが、心遣いなのだということです。
障害のある人は「かわいそうに」と同情されることを好まないとよくいわれます。
私も体験的に、それを実感していますが、どこか通ずるものを感じます。

ケアとは、見えることへの心遣いだけではなく、
その奥にある見えないことを一緒に見ることなのかもしれません。
見えないものを見る心遣いに、もっと心がけようと思っています。

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■三菱UFJ銀行は10年以内になくなるような気がします

三菱UFJ銀行が、モルガン・スタンレーの株式を引き受けるそうです。
とても違和感があるというか、不快感があります。
つい数年前には、国税を投入して倒産を免れた日本の銀行が、その後、膨大な利益を上げたり、その従業員の給与が今なお製造業に比べてかなりの高水準であったりしているのにも大きな違和感がありますが、それ以上に違和感が付きまといます。
なぜいまさらという気がします。
アメリカ資本や日本の金融行政関係者の陰謀を感じます。

この分野には私は素人なので、全くのピントはずれかもしれませんが、日本の金融システムがこれで一段と崩れていくことは間違いないでしょう。
何回か書いてきているように、お金がお金を稼ぐシステムは、あだ花でしかありません。
三菱UFJ銀行も、10年後には残っていないようにさえ思います。
誰かに騙されたに違いありません。
欲の深い人は騙されやすいものです。
全く論理的でない予感ですが。

しかし、会社をなくしても、金融制度を壊しても、それによって利益を上げる人はいるわけです。
郵便局がそうでした。
今回のサブプライムローンを契機にした破綻も、十分に稼いだ人たちが起こしたことだろうと、私には思います。
今度は、壊すことで利益を上げられるからです。
最近の金融業会はそれこそ円天のような詐欺行為と同じ構図です。
暴力団の殺傷事件が犯罪になるのに、国家による殺傷事件は犯罪にならないのと同じ構造が、ここにあります。
金融資本に関係する人たちの稼ぎ方は、まさに暴力的ですが、それに加担しているのが行政と政治家です。
産業再生機構などの仕組みで、どれだけの暴利がむさぼられたことでしょう。

金融破綻になっても、その時には関係者は既に十分の利益を獲得しています。
ホリエモンや村上ファンドを思い出せば、よくわかります。
彼らですら、あの巨利を得たのですから、その裏にいる仕掛け人の利益は半端ではないでしょう。

いささか映画の観すぎではないかと思われそうですが、私はそう考えています。
スポーツ選手やテレビタレントの高収入も、そうしたことと無縁ではないでしょう。
全くお金は恐ろしいです。
お金から自由になりたい理由は、そこにありますが、まだなかなかお金の呪縛の中でいじましく生きている自分が歯がゆくもあります。

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2008/09/23

■節子への挽歌388:胡蝶の夢その2

実は、荘子を思い出したのは、節子の夢を見たからではありません。
大学教授の友人が、私に生命論の試論のスケルトンを送ってきたのです。
そこに、「コトの世界」と「モノの世界」との関係が構造化されて論じられていたのですが、それを見ているうちに、思い出したのがなぜか「荘子」の胡蝶の夢だったのです。
その論文は未完ですが、ぜひ早く読ませてほしいと思っています。

それはともかく、昨日の続きです。
いつもの挽歌とは雰囲気が違いますが、この種のシリーズも結構あるのです。
ずっと読んでいてくださっている方はご存知でしょうが。

斉同なるものの一部が失われ、その失われたものを求めて宇宙を旅する。
そんなショートショートを昔書いたことがあります。
節子と会った頃です。
いまは大学の文学部の教授になっている友人に読んでもらった気がしますが、論評に値しない愚作だったようです。
と、ここまで書いて気づいたのですが、読んでもらった友人も、今回生命論の試論を送ってくれた友人も、何と今は同じ大学の教授です。
何と言う偶然でしょうか。

それはそれとして、その幻のショートショートは、節子も読まされたはずです。
しかし、あの名作「金魚が泣いたら地球が揺れた」と同じく、節子には完全に無視されたのを覚えています。
「なにこれ」と言う感じでした。
全く理解されなかったのです。
天才はいつも孤独です。いやはや。

しかし、今にして思えば、私がなぜ節子と結婚しなければいけなかったのかは、当時、私には明確にわかっていたのです。
自分では全く気づいてはいませんでしたが。
節子は、まさに私だったわけです。
荘子は覚の世界では人間に、夢の世界では胡蝶でしたが、私は同じ世界で節子と私を同時に体現していたわけです。
わかってもらえるでしょうか。
わかってはもらえないでしょうね。
何だか夢のような話ですものね。
しかし、私には何だかはっきりと見えてきたような気がします。

そういえば、節子の位牌の前には、昨年も今年も大きな胡蝶蘭が供えられています。
これも偶然でしょうか。
わけのわからない話に突き合わせてしまいました。
すみません。

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■「お金がないと生きていけない」と「お金がなくても生きていける」とどちらが「たわごと」だと思いますか

一昨日、今の時代は「たわごと」にもしかしたら真理がある時代ではないかと思います
と書きましたが、その言葉が気になりだしました。
歴史は、「たわごと」を現実にするために動いてきたように思い出したのです。
だとすれば、いつの時代においても「たわごと」は価値があったはずです。
今の時代に限ったことではありません。

昨日の話につなげて言えば、「お金があれば何でもできる」ということは少し前までは「たわごと」だったでしょう。
お金では買えない何かがあるとみんな思っていました。
それが「たわごと」だとホリエモンは考えていたようですが、今はどう思っているでしょうか。
しかし今でもそうしたお金信仰を持っている人は少なくないようです。

見たこともないような人が印刷した紙幣に、みんなが価値を見出す。
考えてみれば、これはとても奇妙な話です。
その前提にはたぶん「信頼関係」があるはずです。
たしかに当初は金との交換が制度化されていましたが、
今はそれもできない「ただの紙」です。
しかしみんなの紙幣信仰はあまり揺らいでいません。
依然として、信頼関係というか信用関係が存続しているわけです。
もしそれがなくなったらどうなるのでしょうか。
皮肉なことに、金銭信仰は「人のつながり(信頼関係)」の価値を忘れさせますから、実は金銭は自らの存在価値を低下させるという宿命を持っています。
これは実におもしろい問題です。

こうしたことから考えて行くと、最近の金融危機の先が少し見えるような気がします。

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2008/09/22

■節子への挽歌387:胡蝶の夢その1

中国の古典の『荘子』に、荘子が見た夢の話があります。

昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
荘周とは荘子の本名です。
「蝶となった夢を見て目覚めたところ、自分が蝶の夢を見ていたのか、 あるいは蝶が今、夢を見ていて自分になっているのかわからなくなった」というような意味でしょうか。

夢の中で、節子に会うことが時々あります。
節子の身体を視覚的に確認できることは少ないのですが、気配は感じます。
電話で話すこともあれば、おかしな話ですが、彼岸の節子に会うこともあります。
夢の世界もまた、次元を超え、論理を超えています。
古今東西のSF小説でも、夢の世界と現実の世界が入れ替わる話はいくつかあります。
だれもが一度は願望することなのかもしれません。

この文章に続いて、こうあります。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。
荘周と胡蝶は別物ですが、荘子は、万物は一つなりという「万物斉同論」を説いています。
荘周と胡蝶も、つまるところは同じものが、姿を変えて「物化」しているだけです。
万物は一刻もとどまることなく生滅変化している。一切の事物に区別はなく、あるときは蝶となり、あるときは人となる。
いずれも、変移の一様相にすぎず、そうした変化を物化と呼ぶ、というわけです。
荘子にとっては、夢と現実の間にも本来的な区別はありません。

この論を進めれば、私も節子も、斉同なるものが一時的に物化しただけのことです。
その節子が失われることで、私の半分が失われ、半身削がれた状況になっているのです。
半分が抜けた物が存在するのであれば、万物斉同ではないではないかといわれそうですが、そうではありません。
以前書いたボームのホログラフィック宇宙モデル論を思い出せば、説明はつくのです。
それに、万物斉同の世界には量の概念や時間の概念がありませんから、半分も全部も同じことなのです。
その正しさを、私は自分の身体感覚で実感しています。

夢の中で節子に会って、そこから私の人生をやり直せるとしたら、どんなに幸せでしょうか。
そうしたことのできる、ホログラフィーはできないものでしょうか。
あと100年もしたらきっとできるでしょう。
それまで待てないのが残念です。

この項は明日に続きます。

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■平和の脆さや戦争への道のシミュレーション

最近、不快なことが多すぎるのですが、その一つが似非平和主義者への怒りです。
まあ私が怒りを感じてもどうしようもない話なのですが。

私が参加していて、しかもメンバーの何人かとも顔見知りの平和関係のメーリングリストが2つあります。
以前は投稿したこともありますが、最近はほぼ完全に読むだけです。
そのメーリングリストで、時々、不快な応酬があります。
体験された方もいるでしょうが、メーリングリスト上での感情的な対立はどんどんエスカレートします。
最初は極めて瑣末な話から始まるのですが、横から見ていると言葉遣いも含めて、罵倒しあう状況になっていきます。
とても皮肉なことなのですが、平和の脆さや戦争への道をシミュレーションしているようです。

メーリングリストはとてもいい仕組みだと思いますが、よほど注意しておかないと、劣化しがちです。
無意味な批判の応酬が起こり出すのです。
平和をテーマにしたメーリングリストであればこそ、最初はそれがとても不思議でした。
平和という概念は戦争の裏概念だと前に書いたことがありますが、こうしたメーリングリストに参加する人たちの平和概念は、一人ひとりの平安を大事にするということだろうと私は考えていたからです。
もしそうなら基本は「異質な考えへの寛容さ」でなければいけません。
前にも引用しましたが、ヤスパースは敗戦後、ドイツ国民に向かって「われわれは相互間の甚だしい相違を終局点としてではなく、出発点として承認するのでなければ、われわれの語り合いは意味をなさない」と呼びかけました。
寛容さのない平和志向は、国家の平和観と同じで、極端に言えば戦争の一形式でしかありえません。

幸いに、一つのメーリングリストでは管理者の的確な判断と当事者以外の参加者の適切な反応で毎回聞きは乗り越えられていますが、そのプロセスで、互いの信頼関係が高まればいいのですが、必ずしもそうではないように思います。
繰り返し行われる非寛容なやり取りに、私自身はそのメーリングリストへの信頼感を完全に失っています。
いかに平和主義者を装うと、個人攻撃するような人の平和観にはなじめません。
私にとっては、平和を語る相手では全くありません。
メーリングリストは、似非平和主義者をあぶりだす仕組みとしては有効かもしれません。

もう一つの、比較的インチメイトなメンバーによるメーリングリストで、また応酬が始まってしまいました。
今回は黙って入られなくなってしまい、うっかり投稿してしまいました。
幸いに最初の投稿者の寛容な反応により、いち早く収束しましたが、信頼していたメーリングリストだけにいささか残念です。

顔を見ないネットの世界では、こうした不幸な行き違いがよく起こります。
ネットを使いこなしていくためには、もう少し時間がかかるのかもしれません。

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2008/09/21

■支え合いの文化があればお金などなくても生きられるはず

北朝鮮ジャーナリストによる北朝鮮の実状映像をテレビで見ました。
こうした状況を放置している隣国の国民として、複雑な思いを持ちました。
政府にもし、人道支援なる考えがわずかにでもあるのであれば、先ずは隣国の惨状を正すことです。
それができずにイラクやアフガンに関わることはできないような気がします。
しかし、では自分に何ができるかと問えば、何もできない現実があります。
北朝鮮支援に関わっているNPOへの寄付くらいでしょうか。

その映像を見ながら、思ったことがもう一つあります。
もし彼らに支えあう関係が存在していたら、こんな悲惨な状況にはなっていないだろうということです。
生活を分かち合うことは生きるものの本能の一つだったはずです。
アダム・スミスもこう書いています。
「いかに利己的な人間であっても、彼の本性には、他人の運命について思いを馳せ、その幸福を、自分にとってはそれを見ることの楽しさ以外は何の関係も無いのに、大切にしようとする衝動が備わっている」。
西田幾多郎は、人間から愛他心を除けば、何も残らないといいました。
隣に問題を抱えている人がいたら、自然と手を出すのが人間です。
そしてそのことによって、社会は成り立ってきたのです。
しかし、そうした状況があれば、強権支配はできません。
「分断」こそが支配の基本なのです。

この数十年、日本の社会もそうした自然な支え合いの関係や構造を壊してきました。
それを壊すことが、まさに産業にとっての市場を拡大することであり、政府にとっては従順な僕、民を増やすことだったのです。
西田幾多郎がいうように、愛他心のない人間は人間とはいえません。
そうした人間もどきが、今の社会を構成しているとしたら、まさに金銭が猛威をふるうことになるでしょう。

一見した状況は全く対極にあるように見えて、もしかしたら北朝鮮と日本の現実は、同じものなのかもしれません。
そうならないように、お金や物を超えた、人のつながりをもっともっと育てていきたいと思います。
たまたま昨日、共済研究会で「共済の心」について少しだけ話をさせてもらう機会がありました
支え合いの文化があればお金などなくても生きられるはず、というのが私の考えですが、たぶん「たわごと」に聞こえたことでしょう。
しかし、今の時代は「たわごと」にもしかしたら真理がある時代ではないかと思います。
お金があっても、人とのつながりがなければ生きていくのは楽しくないでしょう。
いや、それどころかもしかしたら突然にお金が紙くずになることもあることを考えれば、お金に依存する生活の脆さは分かるはずなのですが。

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■節子への挽歌386:彼岸に単身赴任している節子

節子に会えなくなってから1年以上経ちます。
遠く離れてしまうと、仲が良い友人でも1年に会うか会わずの人もいます。
先週も40年ぶりに会った友人もいますし、先日は3年ぶりの人に2人会いました。
2~3年会うことのない友人は少なくありません。
長いこと会わなくても、そうした友人との関係は変わりません。
それに会わなくとも、とりわけさびしい感情は生まれません。
だとしたら、1年会わなかったくらいで、節子との関係が変わるはずもありません。
節子はいま、彼岸に単身赴任していると思えば、なんでもないはずです。

とまあ、理屈でいえば、そういうことになるのですが、実際にはそうはなりません。
会っていなくても、その気になれば会えるのと、その気になっても会えないのとでは、全く違うのです。
実際に会っているかどうかではなく、会える可能性があるかどうかが大切なのです。
「会える」という保証があれば、会えなくてもさびしさは我慢できるでしょう。
しかし「会えない」ことが確実であれば、我慢などできようがありません。
我慢は「希望」がある場合にのみできることなのです。

「来世で会える」という信仰は、「希望」を与えてくれます。
希望があればこそ、見送った者への供養もできます。
希望があればこそ、前を向けます。
来世信仰は、人が生きていくために埋め込まれた最初の「意識」ではないかと思います。
以前書きましたが、人は「死」を獲得したおかげで、人格を獲得し、「愛」を得ました。
愛と死はセットのものですが、それはまた来世信仰ともセットと考えていいでしょう。

節子はいま、彼岸に単身赴任だと考えると気持ちはやわらぎます。
その発想をさらに進めれば、私が此岸(現世)に単身赴任しているともいえます。
しかも私の場合は、娘まで同行してくれたわけです。
「いつかまた会える」という確信が、いまの私に希望を与えてくれています。
きっと同じ立場のみなさんもそうですよね。
大浦さん、米田さん、上原さん、・・・・
きっといつか伴侶に会えますよ。
会えないはずがありません。

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2008/09/20

■公務員の犯罪とは何でしょうか

年金問題がまた新たな問題を露呈しだしていますが、今朝の新聞に厚生労働省元課長補佐の 国家公務員法違反での有罪判決の記事が出ていました。
こういう事件です。
被告は、2005年9月の総選挙投票日前日に、東京都内の警視庁職員官舎の集合ポストに共産党機関紙「しんぶん赤旗」の号外を配ったとして、国家公務員法違反(政治的行為の制限)の罪で在宅起訴されました。
本人は、休日に個人で配布した行為であり、「公務員の政治的中立性を損なうものではなく、犯罪には当たらない」と主張していましたが、判決は求刑通りの有罪でした。
有罪を求めた検察側は、「政治的偏向の強い行為で、厚労省の事務処理全体の公正な運営への国民の信頼を著しく害するおそれがあった」と主張していました。

まあよくある話なのですが、どこかおかしくないでしょうか。
配布したのが「自由新報」だったら、こうはならなかったはずです。

農水省の公務員や薬害事件の厚生労働省の公務員、社会保険庁の公務員、彼らは国家公務員法に違反していないのでしょうか。
ビラ配りとどちらが国民にとって大きな影響があるのでしょうか。
それに「政治的行為の制限」というのであれば、おそらく例外なく国家公務員の幹部たちはすべて与党に与しているという意味で、まさに政治的行為を行っています。
「反政府的行為の制限」というのであれば、少しは納得できますが、国民主権の国家の場合、政府が「反国民的行為」を重ねている場合はどうなるのでしょうか。
「反政府的行為」と「反国民的行為」とは、どちらが優先されるのでしょうか。

どうも納得できません。
もっと罰する人たちがたくさんいるでしょうに。

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■節子への挽歌385:無念さの中での祈り

暑い夏は病気を持つ人には辛い季節かもしれません。
昨年の夏は、節子にとっては大変な月でした。
思い出すだけでまだ動悸が高まり、頭が白くなります。

しばらく連絡がなかった若い友人からメールが来ました。
彼の友人が末期がんで亡くなったのだそうです。
まだ30代。小さい子どももいるそうです。
「これからという時に死ぬ無念さは計り知れません。
いろいろ自分のこれからについて真剣に考えねばと思いました。」
と書いてきました。
「無念さ」
まさに「無念さ」です。
死にあるのは、当事者にとってさえ「恐ろしさ」ではなく「無念さ」です。
節子と一緒にいて、そう感じました。

近くの方が相談に来ました。
お世話になっている人が肝臓がんなのですが、8月になって調子が悪くなったようでどうしたらいいかわからないと相談に来たのです。
彼女は相談相手が近くにはいないのです。
節子を見送る前であれば、治癒力を高めるためにこんなものがあるとか、こういうこともいいかもしれないなどと言ったかもしれません。
しかし、今の私にはとても言えません。
「奇跡を信じて祈るしかない」ことを知ってしまったからです。
何もできない無念さを噛みしめて、祈るしかない。
しかも、奇跡が起こることを強く信じて、です。

「無念さ」はいろいろありますが、死に発する「無念さ」は特別のものです。
悔しいとか残念さとはちょっと違うのです。
なにしろ復元しようのない現実への直面なのですから、文字通り「取り返しようのない喪失」であり、新しい世界への移行です。
これまでのあらゆるものが、一挙に崩れ去ります。
価値も価値観も、です。
つまりこれまで営々と築き上げてきた自分の世界が、一挙に失われるのです。
仏教での「無念さ」は、無心、夢想と同じく、囚われた心がないことです。
もちろんそれとも違いますが、どこかで少しつながっています。

人生は本当に無常です。
無念さの中で、私も祈らせてもらっています。


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2008/09/19

■節子への挽歌384:花は人をつないでいきます

節子の本拠地は、いまもなおわが家と考えていますが、やはりお墓も気になります。
それで毎週、日曜日に娘を誘ってお墓参りに行っています。
行く前に、節子の位牌に向かって、「これからお墓参りに行ってくる」と声をかけて出かけ、戻ったら報告します。
これは論理的ではありませんが、何しろ節子は彼岸に住んでいますので、現世の瑣末な論理など超えているのです。

先週は、節子の出身地の滋賀に行っていましたので、お墓には行けませんでした。
ところが、私に代わって、花かご会の皆さんがお墓参りに行ってくださったのだそうです。
それも花かご会が手入れしている我孫子駅前の花壇で咲いた花を持っていってくれたのです。
節子はとても喜んでいるでしょう。

花かご会の活動は、節子の支えであり誇りでした。
とてもやさしいメンバーに恵まれ、しかも提案者だったこともあり、みんなが節子を立ててくれていたのです。
とてもいい仲間で花かご会に行くと元気が出ると節子はいつも話していました。
そして病気が再発した後も、仕事場に出かけていくこともありました。
もちろん仕事には参加できませんでしたが、みんなに会って、節子はとても楽しそうでした。
花が好きな人は、みんな気持ちのよい、やさしい人です。

先週、私が留守の間に近くの岡村さん家族が庭のランタナの花を献花に来てくださいました。
ランタナは私の大好きな花です。
その前の週には、吉田さんが花を持ってきてくれました。
節子の花好きは、近所のみなさんも知ってくださっています。

花は人をつないでいきます。
節子はそのことをよく知っていました。
旅行中に、見ず知らずの家に、庭の花を見せてくださいととびこんだこともあります。
そこからは花の苗までもらってきました。
節子が元気だったら、その家をまた訪ねていたでしょうが、私一人ではとても行けそうもありません。

花でつながった人たちに、いまも節子はしっかりとつながっているようです。

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■汚染米事件は農水省の犯罪

今回の汚染米事件は、殺人未遂も想定される犯罪だと思いますが、その主犯者は三笠フーズの関係者などではなく、農水省の役人です。
そう確信したのは、今回の汚染米購入業者の発表の仕方です。
この情報公開のやり方は、明らかに「犯罪性」があります。
自らの管理責任を果たさずに、その結果、被害を受けた人をしっかりした説明も無く、一方的に発表してしまうやり方は、昔の悪代官のやり方、つまり悪徳権力者のやり方です。
それにしても、太田農水相や農水省事務次官の国会での答弁は、常識のある大人とは思えない内容です。
こうした人が政府を構成していることに、大きな危機感を感じます。

本当の責任者の名前は隠したまま、そしてその罪は不問にしたまま、批判の目を違う人に向けさせるのは、権力者の常套手段です。
要するに、弱いもの同士を戦わせるわけです。
パワーポリティクスの定石でもあります。
大分の教員試験不正事件と全く同じ構造です。

まあ、そういうことは今に始まったことではありません。
「悪い奴ほどよく眠る」は時代を超えた真実なのかもしれません。
しかし、今回の事件の影響は計り知れません。
その意味をもし理解したら、関係者は生きてはいられないでしょう。
仲介業者の社長の自殺が報道されていますが、今のままでは農水省関係者の自殺も出てきそうです。
それだけは絶対しないでほしいものです。
自殺しても何も解決しません。
自殺する代わりに、真実をすべて公開し、新しい人生に踏み出してほしいものです。
自殺は、第2の犯罪であることを知ってほしいものです。

この事件が明らかにしたもう一つのことは、国家公務員は仕事をしていないことを露呈したことです。
それも今に始まったことではなく、耐震偽装や年金問題などで、明らかな話です。
問題は、しかし彼らは「仕事している」と確信していることです。
私の友人の公務員の多くも、みんな誠実に仕事をしています。
忙しいですし、時には自分の生活も犠牲にしているほどです。
しかし私には「仕事」の捉え方が間違っているように思います。
仕事の主人は政府だと思っている気がします。
公務員だったら、一度くらい憲法を読んでほしいものです。
もっとも憲法など読んだことのない政治家や社会学者もいる時代ですから、無理な話かもしれません。
いや、人のこと悪く言うのはよそうと思いながら、なかなかそうはなれません。
困ったものです。

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2008/09/18

■home lifeとlife with family

先日、某シンクタンクの研究者と話していて、話題が家族のことになりました。
私が社会の基本は家族だというようなことを言ったのがきっかけでした。
そうしたら、その人がアメリカでは、従業員の多様な生き方を認めるということで、家族という言葉は注意して使われているようだというのです。
つまり、家族とともにある従業員の生き方は、いまや所与のものではないというのです。

私も30年ほど前、「家族」というものが大きく変質するだろうと思っていました。
20年ほど前に「住まい方研究」というプロジェクトに参加した時には、「核家族」ならぬ「拡家族」と称して、血縁から解放されたミニコミューンのようなものが社会の基本単位になるのではないかと提案したこともあります。
しかしたとえミニコミューンが拡がったとしても、さらにその基本になる「家族」はやはり大事だと思い出してきました。
その「家族」の本質は、血縁ではなく親子です。つまり「育児」が社会の基本ユニットになるという考えです。
育児あるいは親子関係は、結婚を前提にはしません。
里親関係もありますし、養子関係もある。
場合によっては、師弟関係でもいいかもしれません。
しかし少なくとも時間の要素が入った関係がダイナミックな社会の基本単位としては望ましいと思います。

話を戻して、アメリカの話です、彼が言うには、アメリカの企業に関するマニフェストなどでは、home lifeという言葉やfamilyと言う言葉はよく出てきても、life with familyと言う言葉はあまり出てこないというのです。
home lifeとlife with familyは、明らかにニュアンスが違います。
家庭生活と家族生活でしょうか。
話を膨らませてしまえば、home based societyかfamily based societyか、家庭社会か家族社会か、です。

まだ整理できていませんが、この話にはなんだかとても大きな意味が含まれているような気がしています。

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■節子への挽歌383:無意味なことを話せる存在

節子
最近また、いろいろな人と会うことが多くなりました。
節子と同じで、私も友人にはとても恵まれていますし、知人もたくさんいます。
そういう人がいろいろと会いにきてくれます。
半分以上は、特に用事があるわけではありません。
一応、相談などと言っていますが、雑談で帰る人のほうが多いです。
これは昔からそうでした。
あの人は一体何のために来たのだろうかといぶかしく思うことも少なくありません。
長い人は3時間もいます。

おかげで、私は時間をもてあますことはありません。
たくさんのとても気持ちのいい人に囲まれていて、話し相手には事欠かないからです。

しかし、どんなにたくさんの話し相手がいても、その人たちには出来ないことがあります。
それは、私のすべての体験に私と同じように関心を持ってくれることです。
節子はそうでした。
伴侶とはおそらくそういうものでしょう。
そうしたことが意識的にではなく、自然にできてしまう関係が夫婦かもしれません。
お互いに、全生活を共有し、相手の体験に関心を持つ関係といってもいいでしょう。

もちろん夫婦とはいえ、別の人格を持つ2人が生活体験をすべて共有することなどできるはずはありません。
しかし、相手の全生活が自分の生活と繋がっていることを実感できれば、その体験に無関心ではなくなります。
損得や理屈で、関心事が選ばれることはありません。
そういう何でも関心を持ってもらえ、なんでも話し合える存在がいないことはさびしいものです。
伴侶を失って、このことが一番辛いことかもしれません。

小難しい言い方をしましたが、要するに、外で体験してきたことを話す相手がいなくなってしまったということです。

私はいま、2人の娘と同居しています。
2人とも私の話を聞いてくれますし、私にも話してくれます。
しかし、女房のようには関心を持ってくれませんし、私もすべてを話そうとは思いません。
彼女らにとっては全く別の世界の話なのですから。
節子だったら、とても喜んでくれるだろうし、悲しんだり怒ったりしてくれるだろう、と思うことも、彼女たちには関心の埒外のことが多いでしょう。
夫婦とは実に不思議な関係です。

-一切の理屈を超えて、何でも話せて、喜怒哀楽を自然と共有できる人がいることが、どれほど幸せなことであり、心安らぐことなのか。
伴侶がいることのありがたさを、もっと多くの人に知ってほしいです。

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2008/09/17

■地方の豊かさ

先週から今週初めにかけて、滋賀と福井にいっていました。
びわ湖を自動車で一周しましたが、刈入れ前の水田がたくさんの残っており、見事でした。
熟した稲穂は、まさに黄金色で、日本が「黄金の国」と思われたことがよくわかります。
まさに秋の湖国はジパング。黄金の国です。

びわ湖周辺の緑も見事です。
最近の山は荒れていますが、それでも山林の緑の豊かさには心が休まります。
日本はほんとうに緑に恵まれた国です。
地方に行っていつも思うのは、都会で騒いでいる環境問題への違和感です。
こんなことをいうと怒られそうですが、小賢しい環境活動をする前に、日本の山林のあたたかさに触れたほうがいいと思います。
そうしたら日本の環境運動は変わっていくでしょう。

地方の暮らしの豊かさもまた、うらやましいほどです。
過疎地の生活が「限界集落」などといわれるように、地方は経済的に疲弊しているようなイメージが作られていますが、地方の暮らしは、とても豊かです。
これは私が地方にささやかに関わりだしてからずっと感じていることですが、とりわけこの10年、地方の生活は豊かになってきています。
もちろん「金銭的」にもです。
道路も施設もどんどん作られています。
都会の住民とは全く別の世界です。

環境問題も貧困問題も、たぶん(都市部ではない)地方にはありません。
しかし、それは今の話です。
今の状況を続けていくと、たぶん20年後には地方は本当に疲弊しだすでしょう。
自然と共に暮らしていく知恵も文化もなくなりますし、テレビなどで喧伝されている「貧しい都会生活」に価値を置く教育の成果が一段と強まるでしょう。
生活を支えていた、アフォーダブルな豊かな環境が、一転して、生活を遮断する存在に変わっていきかねません。
それを仕組んでいるのが、今の政治であり、経済であるような気がします。

先週、テレビで黒澤明監督の「七人の侍」が放映されていました。
その最後に、侍のリーダー役の志村喬が「今回も勝ったのは百姓だ」といいますが、20年後の地方はどうなっているでしょうか。

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■節子への挽歌382:2枚の絵手紙

節子
あなたの絵手紙仲間から絵手紙が2枚届きました。
宛先は私になっていますが、間違いなくこの2枚の手紙は節子宛です。
おそらく彼女たちは節子をイメージしながら書いているはずです。
彼女たちの世界には、まだ節子は元気にいるのです。

2人とも滋賀に住んでいますから、これまでもあまり会うことはありませんでした。
毎年、3人で会うようになったのは数年前からです。
ちょうど子どもたちも独立し、時間が出来てくるにつれて、お互いに会う余裕が高まってくるのが、たぶん50代の後半くらいでしょうか。
これからは一緒に旅行もしようねと話していると、節子から聞いたことがあります。
しかし、そうしだした、まさにその時に、節子の病気が発見されてしまったのです。
そういえば、先週、敦賀に行った時、節子の姉も、これからはお互いに行き来し、一緒に旅行しようねと言っていたのに、ちょっとの間しかできなかったと涙ながらに話してくれました。

私がとても不憫に思うのは、これからそういう形で自分の時間をしっかりと楽しめる年齢になった頃に、節子が発病してしまったことです。
それまで、節子は私の勝手な生き方をほんとうによく支えてくれました。
私自身も、その生き方を変えて、夫婦で旅行などをもっとしようと思い出した矢先でもあったのです。

それでも節子は、病気になっても、いや病気になったからこそ、たくさんの友だちと交流を深めました。
その期間はそれほど長かったわけではありませんが、節子は誠実に真剣に付き合ったような気がします。
ですから節子が亡くなったいまも、花が届き手紙が届いているのです。
病気になってからの節子の生き方は見事でした。
私が節子に改めて惚れこんだのは、そのせいでもあります。
病気になってからの節子は、私には輝くような存在でした。

自分で言うのもなんですが、私もその節子の生き方に誠実に寄り添ったつもりです。
とても満点とはいえませんし、かなり節子に甘えていたとは思いますが、当時の私としてはそれなりにがんばりました。
節子の友人たちとも出来るだけ会いました。
ですから、節子の友人も、私宛に節子への手紙を出せるのではないかと思います。
いなくなってしまった節子の受け皿に、もしなれているとしたら、これほどうれしいことはありません。

節子の法事の節目にも、私は節子の友人たちに節子に代わってのつもりで手紙を書いています。
私の心の中では節子とはまだ一体です。
節子ならこうするだろうなというのが、私の行動の出発点です。
そんな私の気持ちが、もしかしたら少しは節子の友人にも伝わっているかもしれません。
そして、それがまた私に返ってきて、私の中にいる節子を元気にしてくれるわけです。

節子の友だちからの2枚の絵手紙。
節子がそうしていたように、節子の寝室の壁に貼っておこうと思います。
節子はいつも友だちの葉書を枕元にたくさん貼っていましたから。

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2008/09/16

■「システムという名の支配者」

米証券大手のリーマン・ブラザーズがついに米国破産法の適用を申請しました。
それがどれほどの影響を、世界に与えるかは私にはわかりませんし、大きな歴史の転換の始まりにもつながるような期待もありますが、当面はただただ混乱し、そのプロセスの中でまた「悪い識者たち」が活躍して肥え太るかと思うと苦々しさもあります。
日本の金融界のだらしなさとは違うでしょうが、金融界は所詮は「サブシステム」でしかありませんから、その向こうにいる人たちの事業は見事に成功したのでしょう。
郵政民営化よりも大きなお金を得たでしょう。

こうした事件で決まって出てくるのが、サブプライム問題ですが、サブプライム問題などに問題の本質があるわけではありません。
黒幕はいつもその後ろにいます。
サブプライムをカモフラージュした金融工学が生み出したシステムにこそ本質があります。
間違ってはいけません。

同じ問題は最近の日本の事故米(事実を隠蔽する命名です。そこにこそ誰が実行犯かが垣間見えます)事件にもあります。
たしかに三笠フーズは問題ですし、宮崎某の言動はあきれます。
もし死刑制度が認められるのであれば、こうした人物こそを死罪にすべきです。
しかしその後ろにはもっと極悪人がいます。
それを見落としてはいけません。

システミックリスクという言葉があります。
市場の一部において発生した破綻などの異常事態により発生した決裁不能が、市場全体に波及するリスクのことです。
そのリスクは、多くの場合、個人にはコントロールできませんが、レバレッジ効果は極めて大きいです。
それがどこに向かうかは大きな問題ですが。

システムはつねに2面性を持っています。
リスクを縮減する効果とリスクを増幅する効果です。
自然が構築してきているシステムには、見事なホメオスタシスが働き、リスクは縮減され、発生した不都合は収斂されます。
しかし人間が中途半端な知識(知識とはすべて中途半端です)で構築したシステムは、それが複雑になるほどにホメオスタシスが逆作動しがちです。
しかも問題が見えなくなります。
そこにこそ、悪事を考えている人にとっての組織の有用性があるのですが。

よく言われるように、1990年代の日本の金融危機は金融機関の不正行為が出発点でしたし、そこに欧米の金融ビッグバン圧力がかぶさった結果です。
まだ原因やプロセスが見えました。
つまりコントローラブルだったのです。
しかし昨今の金融危機は、システムそのものに内在した問題です。
問題をシステムに内在させることで利益を得ることができた人がいるわけです。
小賢しい金融工学の専門家が、そうした悪事に仕えたのです。
学者は時に悪魔の手先になります。
原爆開発もそうでした。
そして自らを滅ぼしていくわけですが、その悪事に気づかないところが不幸なことです。

また議論が過激になり、拡散してしまいました。
問題はサブプライム問題でも、三笠フーズでもないということを書きたかったのです。
システムの持つ恐ろしさを改めて思い起こす必要があります。

チャールズ・ライクの「システムという名の支配者」(1995 早川書房) という本があります。
前に一度書いたことがあります。
最近の状況を見事に予言している本です。
図書館などで見つけてぜひお読みください.
チャールズ・ライクの「緑色革命」は、若い頃の私に影響を与えた1冊です。

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■節子への挽歌381:節子がいろいろなところに残している贈り物

節子
敦賀で西福寺に行ってきました。
最後に節子と来た時には阿弥陀堂が改修中だったおかげで、足組みを使って屋根裏まで上らせてもらえました。
節子も初めての経験で喜んでいました
ライトアップされた庭も幻想的でした。
節子も私も、改修が終えたらまた来ようといっていたのに、それが実現できませんでした。
とても無念で、でも敦賀に行ったら、ここだけはもう一度行こうと心に決めていました。

改修は終わっていました。
入り口に参拝者の記帳簿がありましたので、節子の名前を探しましたが、なぜか出てきません。
何回も見直したのですが、出てきません。
一度は諦めたのですが、絶対に署名したはずだと思い、もう一度調べてみました。
念のために前の年を調べてみたら、そこにありました。
080914_22年続けてきていたのです。
最後の時は夜でしたので、記帳しなかったのです。
見慣れた節子の字で、私の名前も一緒に書かれていました。
その文字を見た途端に、不思議なあたたかさが心身を包むような気がしました。
久しぶりに節子に会えたようで、とてもうれしい瞬間でした。

私は寺社でも展覧会でも、名前を残すことに消極的ですが、節子は記帳が好きでした。
そしていつも私の名前も書き添えてくれました。
こういう事態を節子は想定していたのでしょうか。
節子が署名してくれていたおかげで、心があたたかくなりました。
これから節子と一緒に行ったところでは、いつも節子の名前を探してみようと思いました。
節子の名前に出会えると、きっとうれしくなるでしょうね。

たった1行の文字ですが、そこに節子の思い出が凝縮しているのです。
節子と一緒に行ったさまざまなところに、こういう形で私たちの名前が残っている。
そこに行けば、節子の肉筆の文字があり、その日のことが鮮明に思い出せるのです。
そう考えるとうれしくなります。
残されたものへのあたたかな贈り物です。
やはり生きた痕跡は、いろんなところに残した方がいいのかもそれません。

今度はどこで節子の名前に出会えるでしょうか。
私のことを、いつもいつも気遣ってくれていた、本当によい女房でした。

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2008/09/15

■節子への挽歌380:観音の慈悲

節子
今日、自宅に戻ってきました。
昨日帰る予定だったのですが、敦賀の姉夫婦に引き止められてしまったのです。
私自身は節子がいる自宅に早く戻りたかったのですが、姉夫婦の気持ちを考えると帰れなくなりました。
妹をなくした姉にとっては、私がいることで節子のことを感じられるのかもしれません。
それで昨日は、節子の両親の墓に報告に行った後、姉夫婦と節子と一緒によくいっていた高月の観音に会いに行ってきました。

節子の実家は滋賀の高月町です。
高月町は「かんのんの里」として有名です。
井上靖が絶賛した渡岸寺の十一面観音があるばかりでなく、周辺に素晴らしい観音様がたくさんいます。
今回は渡岸寺と石道寺の十一面観音をお参りしました。

ところがです。
2人の観音様のいずれもがなんだか以前と違うのです。
輝いていないというか、とても小さく見えるのです。
こんなに退屈な観音様だったとさえ一瞬思ってしまいました。
私の気が萎えているのかもしれません。
節子が観音の生気を持っていってしまったのかもしれません。
不謹慎ですが、とても失望してしまいました。

実は、私を節子に引き合わせてくれたのは、観音たちだという思いが、私にはずっとあります。
そして節子は何時のころか、私には観音のように感じられるようになりました。
観音が節子に乗り移り、その節子が逝ってしまった。
観音はもう私には無縁の存在になったのかもしれません。
そんな気がしてきました。

節子との暮らしは、観音に恋した私に、観音が見させてくれた一夜の夢だったのかもしれません。
観音の慈悲とは何なのでしょうか。
それを確かめる方法が一つあります。
いつか確かめてみるつもりです。
また報告できるかもしれません。

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2008/09/14

■節子への挽歌379:節子は本当に夫不幸な女房です。

節子
今日はあなたに報告したいことが山ほどあります。
おいおい書くとして、まずは節子の両親への報告の話です。

姉夫婦と一緒に節子の実家にあるお墓にお参りし、節子の両親に報告してきました。
節子と何回もお参りしたお墓です。
まさか私一人でお参りすることになろうとは思ってもいませんでした。
お墓の前に立った途端に、節子のすべての思い出が溢れ出てきて、涙をこらえ切れませんでした。
節子をまもってやれなかったことで、節子の両親との約束を守れませんでした。
ほぼすべての人の反対を押し切って、両親が結婚を許してくれたのは、私を信頼してくれたからです。
その信頼に応えることができなかった。
両親にわびる言葉が見つかりませんでした。

節子の実家にはあまりにたくさんの思い出があり、できればもう来たくないと思っています。
生々しい思い出がありすぎます。
節子と一緒でないと、とてもいたたまれません。
それに、道で人に会っても何と挨拶したらいいでしょうか。
みんなからは、「やさしい夫」と思われていました。
今はそれも地に堕ちました。
女房を守ってやれなかった「弱い夫」でしかなかったのですから。

節子の郷里では、節子はいつも私をかばってくれました。
全くの異邦人である私が、みんなに受け入れられたのは節子のおかげです。
節子がいればこそ、この在所での私の居場所もつくれたのです。
そしてそうした経験が、私の人生観にとても大きな影響を与えたことは間違いありません。
思い出すほどに、節子のやさしさが胸を突きます。

墓参りに前後して、いくつかのお寺と観音様のところにいきました。
節子と一緒にいった中でも、2人がとても好きな、そして思い出のあるところです。
その、どこにいっても節子の笑顔が感じられます。
そして寂しさが募ります。

何でお前はいないのか、
何で私一人なのか、
節子は本当に夫不幸な女房です。
悲しくて、寂しくて、恋しくて、愛しくて、仕方がありません。
やはり滋賀には来るべきではありませんでした。

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2008/09/13

■節子への挽歌378:とても辛かった結婚式

節子
昨日から滋賀に来ています。
今日は節子の姪の結婚式だったのですが、節子がいないので私にはうれしさも半減の結婚式でした。
節子がいなくなってから初めて会う人も少なくなかったのですが、できるだけ節子の話はしないようにしていました。
すれば涙が出てくるに違いありませんので。
先方も触れることがありませんでした。
気のせいでしょうが、なんだかとても落ち着かない気がしました。
もちろんがんばって笑顔をつくっていましたが。

結婚式の最後に、新郎新婦から両親への謝辞が述べられました。
それを聴いていて、節子にこの体験をさせてやれなかったことを心から悔やみました。
節子には母親の喜びを与えられなかったような気がしてきたのです。
まだ私たちの娘たちはいずれも結婚していないのです。
もちろんそれは娘たちの問題ではありますが、節子と私の責任も大きいでしょう。
しかし理由や責任はどうであれ、節子がこの機会をもてなかったことは悔やんでも悔やみきれません。

結婚式は大津の近江神宮でした。
ここも節子との思い出のあるところです。
大津の町も私たちの思い出の多い場所です。よく一緒に歩きました。
そんなこともいろいろと思い出してしまいました。

結婚式の終了後、敦賀にいる節子の姉夫婦の家で泊まらせてもらいました。
節子とよく泊めてもらったところです。
ここにも節子との思い出が、山のようにあります。
姉夫婦と話していると、節子がいないのが嘘のようです。

結婚式でおめでたい日だったにもかかわらず、私にはとても辛い1日でした。

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■金融資本主義なる不可解なもの

お金がお金を生む経済がどうしても納得できないと、何回か書きましたが、どうもその真意が伝わっていないよなので、蛇足的なことを書きます。

お金がお金を生むということは、お金が集まることで、何か「価値」の創出に繋がるという意味でしょうが、価値の創出がなくとも、お金が増殖するということが納得できないという意味です。
投機資金が集まって原油価格を上げることは「価値創出」には無縁です。

お金がお金を生む時に、もしそうした実体価値が生まれなかったらどうなるか。
実体価値が不変でお金が増えたら、実体価値の金銭価格が低下します。
インフレです。
インフレは、持てる人を豊かにし、持たない人を貧しくします。
ここで、「持つ」とは、貨幣ではなく実体価値の所有の多寡です。
実体価値のある何かを持つ人はその金銭価格が上昇し、貨幣しか持っていない人はそれで獲得できる実体価値は減少します。

実体価値の総量が不変のままで、お金がお金を生むもうひとつの仕組みは、お金の所在を変えることです。
パイの配分を変えるということです。
おれおれ詐欺のような行為が政府によっても行われます。
おれおれ詐欺は、大きな社会の構造のフラクタルな展開でしかありません。
配分替えの流れは必然的に、お金を持たない人から持つ人へと向かいます。
「権力の集中」と同じで、お金には「集まる」という本性があるからです。

そうした結果が「格差社会」です。
格差社会と金融資本主義はコインの裏表です。
格差を創ることで、金融資本は膨張するといってもいいでしょう。
金融貨幣が生まれるまでは、人々の格差は実質的にはさほどありませんでした。
あったとしても、それを縮小させる仕組みがありました。
絶対君主の時代でも、たぶん今ほどの格差の広がりはなかったでしょう。

そもそも「お金がお金を生む」などということは、本来的にありえないことです。
もしあるとしたら、その後ろには悪魔のからくりがあるのです。
それが金融資本のからくりです。

実体価値と金銭価格とは同値ではありません。
便宜的に価値に価格をつけただけであって、本来は無縁の存在です。
両者の関係は、社会の状況や文化によって決まってきます。
しかしグローバリゼーションで、文化や状況を無視して、価値が価格付けされて、しかも価格が価値よりするようになって来ました。
その始まりは、1970年代の金融自由化です。
当時、私は企業の企画調査部門にいました。
欧米にも調査に行ったこともあります。
しかし、オイルショックやニクソンショックの意味は全く理解していませんでした。
それがおぼろげながらわかりだしたのは、1980年代後半のバブルです。
しかし事態が理解できないまま、感覚的に企業のあり方についていけなくなり、会社を離脱しました。
金融資本の不気味さとすごさに気づいたのは、それから10年以上たった、2000年を超えてからです。
しかし、今なお、金融資本主義の意味が理解できないのです。

お金がお金を生むシステムが持続可能なはずはありません。
持続可能な経済を標榜するのであれば、まずそこを正すべきではないか。
ところが持続可能な経済論者は、みんなお金を生み出すお金に疑問を提示してくれません。
それがどうも腑に落ちないのです。
ましてや、竹中さんがいかに流暢に説明しようと、私には全く理解できないのです。
最近のお金は、もはや50年までのお金とは似て非なるものではないかと思います。


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2008/09/12

■節子への挽歌377:「お元気そうな声を聞いて安心しました」

節子
もう1週間前になりますが、浦和の伊東さんから電話がありました。
昨年、献花に来てくれた時に、たぶん私たち家族から「気」が抜けていたのを感じていたのかもしれません。
以来、ずっと心配していてくれたのです。
電話の最後に、「お元気そうな声を聞いて安心しました」といわれました。
最近、電話でよくいわれる言葉です。
前にも書いたのですが、私自身は感じてはいないのですが、どうも私の言葉の表情は変化しているようです。

伊藤さんは、ある宗教の信徒ですが、その宗教の故人を供養する場でいつも節子を供養してくれているようです。
そういえば、福岡の加野さんも篠栗の大日寺の施餓鬼会で節子を供養してくれたそうです。
いろんな人がいろんなところで、節子を供養してくれています。
うれしいことです。

私もそうした心をもっと高めたいと思っていますが、それはそう簡単なことではありません。
長年の生き方に裏打ちされてこそ、持続できるのです。
生まれながらのものとは思いたくありませんが、その要素もあるように思います。
多くの場合、人は言葉と心は一致しません。
言葉には人の心が現われますが、それは「言葉の内容」とは全く無縁です。
反対のことも少なくありません。
私自身、長い人生で言葉だけか心からの思いからかは、それなりにわかっていました。
しかし、心が弱くなっていると、言葉の奥の心が恐ろしいほどにわかります。
節子がいなくなって1年。そのことを強く感じます。
人に会うのがこわくなったのは、そのためです。
最近はかなり慣れてきましたが、それでも恐ろしいほど見えてしまうのです。
おそらく私と同じ状況にある人はみんな同じなのではないかと思います。

いじめられた子や弱い子が、そうした感受性を強めすぎ、戻れなくなってしまうのがわかるような気がします。
弱い魂には、真実が見えすぎるほど見えるのです。
私は、これまであまり見えませんでした。
病気になってからの節子にはそれがとても良く見えていたような気がします。
だから節子はやさしくなれたのだろうと思います。
節子の、私へのやさしさは言葉では表わせません。
そして、私にもやさしさを教えようとしたのです。
私がそれに気づいたのは、恥ずかしいことに、最近です。
正確にいえば、この挽歌を書き続けてきたおかげです。
それに気づくまでは、私は自分が「心やさしい人間」だと自負していたのです。
全く恥ずかしい話です。

それに気づいたから、私の声に元気が出てきたのかもしれません。
節子にちょっとほめてもらえるでしょうか。
ほめてもらえると、うれしいです。

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■食の安全と食育

食の安全・安心が大きく揺らいでいます。
これを「事態の変化」と捉えるか「事態の顕現」と捉えるかで、問題の意味合いは全く変わってきますし、その対応策も変わってくるでしょう。
もちろんそのいずれもが起こっていると思いますが、その場合も、「何が変化したのか」と「なぜ顕現したのか」が問われるべきです。
その問題設定を間違えると、たぶん事態は変わらないでしょう。

変化したのはたぶん「企業文化」あるいは「仕事観の変化」だと思います。
顕現したのは「食文化」あるいは「食事観の変化」です。
生きるうえでの「仕事」や「食事」の意味が大きく変質したように思います。
その結果が昨今の食を巡る問題の頻発ではないでしょうか。

一時期、「食育」という言葉が流行しました。
もちろん今もよく使われますが、もしかすると、いまの「食育」は、食の安全を揺るがしている「仕事観」「食事観」の文化の延長にあるかもしれません。
生きるという、大きな流れの中で、「食」は考えていくことが大切です。

食は決して、工業的産業の対象ではありません。
工業的な発想での食は、餌でしかありません。
食を支える農や漁業も同じです。
そろそろ産業や経済のあり方を、生命の視点で問い直していく時期ではないかと思います。
今回の事故米・汚染米事件は、それを警告してくれているように思います。

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2008/09/11

■節子への挽歌376:愛する人を亡くした人に元気を与える秘訣は、愛する人のことをほめること

一周忌の前後に、いろんな方からお手紙をもらいました。
その中に、節子に会ったことのなかった女性の方からの手紙がありました。
とても長い手紙でした。
節子に読んで聞かせたい文章が出てきました。
親馬鹿ならぬ夫馬鹿な行為として、引用をお許しください。

お会いした事は一度もございませんが、いつも頂戴していたお葉書のやさしい文章や達筆な文字に、私がファンにならない筈がありません。
お会いできなかった事は大きな悔いを残してしまったように思います。
節子は病気になってからは字がうまくかけないといつもぼやいていましたが、手紙を書くのが好きでした。
この女性は、私の友人の奥様です。
友人にお世話になった時に、私の代わりに節子がいつも礼状を書いてくれていたのです。
それがわが家の役割分担でした。
その方は、節子の手紙が気に入ってくださったのです。
節子は昨年の春以来、手紙が書けなくなり、その人からの手紙を読むほうにまわっていましたが、今回いただいた彼女からの手紙は節子に読ませたかったです。
ずっと節子の位牌の前に置いておきましたから、きっと読んだでしょうが。

いただいた花にこんなメッセージもありました。
「もう1年、節子さんの笑顔を思いだして」
娘の友人は、「お母様の優しさを思い出します」と書いてくれました。
いろいろな人が、いろいろな形で、節子を偲んでくれているのです。

先日、オフィスに久しぶりに来てくれた若い友人は、
私たち夫婦の関係について、とても興味があるようで、いろいろと質問されました。
彼はまだ夫婦暦は10年強なので、まだ10年早いよと応えましたが、夫婦暦40年にもなると、伴侶の喜怒哀楽はすべて自分のそれと同値になるような気がします。
主体性の弱い私だけのことかもしれませんが。
若い友人は、どうしたらそうなるのか興味を持ったわけです。

このブログを読んで、奥さんに会いたかったという人が何人かいました。
手紙も何通かもらいました。
このブログではきっと節子のことが美化されているのでしょうね。
しかし、私の正直な気持ちは、これでもかなり抑え目に書いているのです。
まあ、娘とはかなり評価はわかれるのですが。

伴侶をほめてもらうことがこんなにうれしいことなんだと、最近改めて思います。
しかし、奥さんのことばかり考えていると奥さんが悲しむよと言う人もいます。
これはたぶん「禁句」です。
生きている人のことを思っての発言なのですが、愛する人を亡くした人は、自分よりも愛する人のことを大切に考えているのです。
ですから、そういってくれる人の思いやりは理解できますが、心は冷えてしまいます。

愛する人を亡くした人に元気を与える秘訣は、愛する人のことをほめることと、その思いに浸っていることを肯定してやることかもしれません。
まあ、人によって違うでしょうが、私の場合はそうです。
これは、当事者になって初めてわかることかもしれません。
人の心は本当に微妙で複雑です。

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■政権私物化の実態を明確にするのがマスメディアの責務

自民党総裁選挙に大きなスペースをあけるマスメディアには苦々しい思いがありますが、そういいながら昨夜は報道ステーションの5候補全員と古館キャスターのやり取りを見てしまいました。
後味がとても悪かったです。

何が悪かったかというと、マスメディアの報道のやりかたでたぶん世論を大きく変えられることがあまりに露骨に見えていたのと、古館さんのそれへの自制心が感じられなかったからです。
私は古館さんのこれまでの報道姿勢にとても共感しており、ある期待を持っていましたが、それが無残にも砕かれた感じです。
権力を持つことの恐ろしさを改めて実感しました。
昨夜の古館さんの目線は、あまりに高く、裁く人の目線でした。

誤解のないようにいえば、古館さんの切り込みはかなりのものでした。
ほかのキャスターにはできないでしょう。
しかし態度と配慮にかなりの問題がありました。
反感を持った人は多かったでしょう。
古館ファンだった私でさえ、いやな気がしました。

このブログのようなものと違って、テレビメディアはその存在自体に暴力性がありますから、強い自制力と大きなバランス感覚が求められます。
とりわけ自制力を失った番組は長くは続かないでしょう。
せっかく育ってきたのにと、とても残念です。
昨日の番組を見ている限り、古館さんと報道ステーションは、ほかの報道番組と同じ役割に堕ちたように思います。
自民党を利したことは間違いありません。
つまりお祭りに乗ってしまったのです。それも最悪の形で。

開かれた総裁選挙で政策論議をすることの価値をみんな高く評価していますが、どこの誰が政策論議をしているのでしょうか。
政策論議まがいをすることの弊害の方が大きいです。
郵政民営化を思い出せばわかることです。
それにどこが開かれた選挙でしょうか。
党員が自由に議論するのはいいですが、それがテレビのトップニュースになる価値があるのでしょうか。

まずやるべきは、民意を問うことなく、1年で投げだすことに示されているように、政権を私物化していることの反省であり、償いであるべきです。
そうした不祥事の片割れに、政権担当能力などあろうはずがありません。
みんな共犯者です。
盗人たけだけしい話です。
その事実を明確にするのがマスメディアや報道番組の責務です。
そこを突かずして、何を突くのか。
政権能力のない自民党内部での政策論議などには、微塵も価値がありません。
それをちやほやしているマスメディアには報道能力も失われているのです。
それはマスメディアの私物化以外の何物でもありません。

昨夜のニュース23の冒頭で紹介された国民の声が、唯一の救いでした。
新聞で言えば、読者の投書記事が救いです。
新しい自民党総裁は、衆議院を解散するのではなく、自民党を解散する事を考えてほしいです。

高血圧対策で、怒りを発散させてしまいました。
すみません。

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2008/09/10

■過剰な同調現象の不気味な広がり

自民党総裁選挙のお祭りに乗せられてはいけないとテレビのキャスターたちは口で言いながら、完全に乗っています。
みんな自民党の広報マンになったように、楽しそうに宣伝しています。
マスコミの報道姿勢には、とても違和感があります。
そこであえて政治のテーマはやめて、今回は全く瑣末な話を書きます。

この2週間、ある必要があって、A4版4つ折り用の白い角封筒を探しています。
200枚くらい必要なのですが、その封筒がなかなかみつからないのです。
いつもは近くの100円ショップで購入していました。
ところが近隣の4つの100円ショップのどこにもなくなっています。
スーパーにも行きましたが、なぜかないのです。
今日、自動車で10分ほどのショッピングモールのショップでようやく入手しました。
但し、そこでも入手できたのは100枚ほどです。

まあそれだけの話なのですが、
この状況が私の知る限り2週間続いています。
どこかで大量に使用されたのでしょうか。
不思議な話です。

テレビで話題になった食材がスーパーから姿を消すという話はよく聞きます。
物余りの時代ですが、なにかちょっとしたことで物不足が起こりえます。
かつてはトイレットペーパー騒動もありましたが、人々の行動が同調するととんでもないことが起こるわけです。

そして今、何かとんでもないことでの「同調」現象が起こっているような不安があります。
みなさんの周りで、そういう兆しはありませんか。
社会を構造化していたさまざまなものが壊れだしているように思います。
社会が持っていたホメオスタシスの仕組みも、
多様な意見や行動が新しいものを創発していく仕組みも、
いずれもがどうもおかしくなってきているような感じがぬぐえ切れません。

同調現象は、集中豪雨などの自然界だけではありません。
生命現象としての人間の心も、
無機的にプログラミングされた組織行動も、
情報を扱うマスメディアも、
すべてが過剰な同調志向を強めているようです。

どうすれば止められるのか、わかりませんが、
しかし、こうした危機感を持っている人がいないことの方が、私には恐ろしいです。

社会は間違いなく崩壊に向けて、ある閾値を超えだしているように思えてなりません。
自民党総裁などでお祭りをしている時ではありません。
5人には、そうしたことは全く見えないのでしょうか。

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■節子への挽歌375:人生は終わったのに、悲しさは消えないです

今成さんに会いました。
節子には話していませんでしたが、今成さんのパートナーは節子よりも1年先に亡くなりました。
節子と同じ病気でしたので、節子にはとても言えませんでした。
言えないだけではなく、そのことが受け入れられなかったのです。
ですから、それを知りながら今成さんには声をかけられずにいました。
声をかけたら、必ず節子にわかってしまうだろうという奇妙な確信があったのです。
ですから私の中では、そのことは「ないこと」だったのです。

にもかかわらず、今成さんは節子の葬儀に来てくれました。
節子の訃報は私の関係者には原則として伝えなかったのですが、この種の話はまわってしまうもののようです。
落ち着いたら連絡しようと思いながら、なぜか連絡できませんでした。

節子の命日に、今成さんからDVDが届きました。
今成さんの性格を考えると、これは意図されたことではなく、意味のある偶然です。
そのせいか不思議にも自然に会えるような気がしてきました。
DVDは、今成さんが製作した自主映画「おとうふ」です。
奥さんを亡くされた後、今成さんが打ち込んでいた映画だと聞いていました。

そして昨日、今成さんに会いました。
今成さんは、私と同じ意味で元気そうでした。
会うなり、「人生は終わりました」というのです。
私も全く同じ感覚でした。
私たちは、「一つの人生」を終わったのです。

思い出せば、今成さんとの出会いは不思議な出会いでした。
たしか節子には、その話をしたはずです。
今日は2時間半、今成さんと一緒でしたが、なぜかあの最初の出会いを思い出しました。
あの時もこうだったのではないかという気がしました。
もちろんそんなはずはないですが、今回も今成さんは自らの過去と現在と未来のすべてを語りました。
なぜか、彼岸で会っているような気がしました。

別れ際に今成さんがいいました。
「でも悲しさは消えないです」
本当にそうです。
伴侶を亡くした者同士、言葉を介さずとも通ずることがたくさんあります。
一つ肩の荷がおりました。

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2008/09/09

■節子への挽歌374:「そうか君はもういないのか」の連鎖

城山三郎さんの「そうか君はもういないのか」が、先日、NHKテレビで話題にされたせいか、関連記事へのアクセスが増えています。
このブログを読んで、早速、同書を買ったと言ってきた人もいますが、私自身はまだ購入もしていません。
なんだか読めないような気が、まだしているのです。

「そうか君はもういないのか」と言っていた城山三郎さんも、今はもういなくなりました。
今は、城山さんの娘さんがきっと、「そうかもう父はいないのか」と思っていることでしょう。
そうやって人の歴史は続いていく。
「そうか君はもういないのか」は人が生き続ける限り存在する、不滅の連鎖用語なのです。

「節子はもういないのか」と考える私も、いつかいなくなるでしょう。
その時、「修はもういないのか」と言ってくれる人がどれだけいるか。
そこにこそ、私の生きた証があるように思います。
自分が生きた証を残すために立派な作品を残す人もいますが、
私は、そうしたものには全く興味がありません。
それどころか、ついしばらく前までは、生きた証を残すことにはむしろ否定的でした。
証を残すために生きているような人は、私には理解を超える人でした。
しかし、節子がいなくなって、そうした考えが変わりだしました。
生きた証は、本人の思いとは全く関係なく、残ることを知りました。

大切なのは、どこに残るかです。
私が改めてとてもうれしく思ったのは、
「そうか節子はもういないのか」と思っている人が多いことです。
思いも知れない人が、花をもってきてくださったり、手紙をくださったりするのです。
そういう時には、節子は今も生きていると思えて、とてもうれしいです。

人の生きた証は、その人と触れた人の心の中に残ります。
そして、その人の生きた証として、次の人に伝わっていく。
いつか名前は消えていくでしょうが、それと同時にもっと大きな生の証となって、残っていく。
最近、そんな実感がもてるようになって来ました。
すべての人の生が、今の私の生を支えてくれているのです。
一条真也さんが、著書の「愛する人を亡くした人へ」でこう書いています。

現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、
はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きている。
わたしたちは個体としての生物ではなくひとつの生命として、過去も現在も未来も一緒に生きるわけです。
まさにそうだなと、改めて実感できました。

その証を伝えるのは、しかし、女性たちかもしれないという気も強くなっています。
それは、子どもを生むことのできる女性に埋め込まれた生命の伝承のシステムかもしれません。
城山さんは「そうかもう君はいないのか」と言っていたそうですし、私も毎日、そう思い続けています。
しかし、本当は、江藤淳さんのように、城山さんも後を追いたかったのではないかと思います。
少なくとも私はそうでした。
それができないから、半身を削がれたまま生きているわけですが。

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■弱いものをいじめる社会のさびしさ

昨日のテレビニュースでの若の鵬の謝罪会見は見ていてつらかったです。
家族や友人と離れて外国で暮らす20歳の若者を、みんなで駄目にしてしまっているような気がして、しかもそのダメにしている側にいる自分が、なんともやり切れませんでした。
白露山と露鵬も解雇されましたが、この若者たちもたぶんわけのわからないままに人生を踏みにじられたような気がしているかもしれません。
大麻を吸ったかどうかは、私にはわかりませんが、もし吸ったとしてもなんだか私たちが吸わせたような気がしてなりません。
彼らの気持ちを少しでも考えてやる人がいれば、心も休まりますが、関係者はみんな「科学万能主義者」ばかりで、心を感じさせません。
なぜ彼らの心を汲み取れる人がいないのでしょうか。
弱いものいじめはいい加減にしてほしいものです。
飲酒運転をして事故を起こすことに、これほど寛容な社会が、なぜ今回はこれほど冷酷なのか、私には理解できません。

大阪では橋下知事が、「クソ教育委員会」とまたひとも揉めしているようですが、学校の教育力も問題ですが、それ以前の問題として、教育のあり方自体が問われるべきなのかもしれません。
教育のあり方とは、つまるところは社会のあり方です。
教育委員会に、なぜ自己反省の動きが起きないのか不思議ですが、まあ北の湖前理事長と同じく、自分のことは見えてこないのでしょうか。

その明らかな証拠が、大分県の教育委員会です。
自らが犯罪(不正合格に加担もしくは黙認)を行いながら、被害者(合格した教師)を犯罪者に仕上げる姿勢は、まさに弱いものいじめです。
それが最近の学校教育の実態なのでしょう。
不正に合格させたことのない教育委員会が、日本のどこかにあれば教えてほしいものです。

昨日のテレビを見ていて、日本は弱いものいじめの社会になってしまったような寂しさを感じました。
私が子どもの頃は、反対でした。
弱きを助け、強きをくじく、のが奨励されていたように思います。
そういう文化はどこにいったのでしょうか。

教育というのは、いったい何なのか。
私たち一人ひとりの生き方こそが、教育の出発点であることを忘れたくはありません。

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2008/09/08

■節子への挽歌373:倉敷市で語られた節子の名前

節子
一周忌に来てくれた倉敷市の友澤さんからきいた話には驚きました。

先月、倉敷市で前我孫子市長の福嶋さんの講演会があり、友澤さんご夫妻は聴きに行ったのだそうです。
講演後、福嶋さんのところに挨拶に行き、節子のおかげで我孫子市にも縁ができ、昨年,我孫子に行ったと話したのだそうです。
そうしたら、福嶋さんが顔色を変えて、「節子さんは亡くなったのですか」と驚いたのだそうです。
驚いたのは友澤さんご夫妻のほうもで、まさか節子のことを市長が知っているとは思ってもいなかったのです。
それがうれしくて、今回、ぜひとも私に伝えたかったのだそうです。
私もその話にはいささか驚きを感じました。

節子は福嶋前市長とは何回か会っています。
民生委員をしていましたし、我孫子駅前の花壇整備の活動にも取り組んでいました。
でも福嶋さんが節子の名前を覚えていたとは驚きでした。

私も当初は福嶋さんを応援していました。
我孫子市で総合計画を策定する時には、福嶋さんが指名してくれて、私も審議委員になりました。
しかし、次第に福嶋さんの市政は私には違和感のあるものになっていきました。
3期目になってからはあまり良い関係ではありませんでした。
そして2年ほど前に関係は決裂してしまいました。
最後の話し合いに行く時、節子は私に興奮して喧嘩にならないようにと注意しました。
しかし、その注意を私は守ることができませんでした。
そのことを思い出しました。

そんなこともありましたので、この話に私はとても複雑な気持ちになりました。
節子の訃報に驚いて反応してくれた。
ただそれだけの話ですが、何だか急に福嶋さんに会いたい気持ちになりました。
人間は本当に勝手な生き物です。

しかしこの話には節子のメッセージが込められているのかもしれません。
節子は今もなお、私のことを心配してくれているような気がします。
ちょうど友澤さんからこの話を聞いた翌日、我孫子市のNPOの人たちから呼び出され話をしていたら、市議の人たちもやってきてくれました。
そろそろ戻って来いといわれた感じです。
これも節子の差し金でしょうか。

節子
今度福嶋さんに会ったら仲直りするようにします。

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■ボーン・アイデンティティと井原勝介前岩国市長の体験

昨日、ついつい「ボーン・アイデンティティ」3部作をテレビで見てしまいました。
シリーズものの映画は、大体において後になるほど面白くありませんが、このシリーズはきちんと創られているので何回見てもおもしろいです。
しかし、面白がってばかりはいられません。
この映画が示唆しているのは、国家のもつ暴力性です。
そこでは「人間」は根本から否定されているのですが、その否定の動機は実は権力中枢に寄生している人たちの利己的な保身なのです。
まさにそれを、福田首相は象徴的に見せてくれましたが、その背後に隠された暴力性にまでは私たちの視線は届きません。
しかし、福田首相の行為がいかに暴力的であるかは、よく考えればわかることです。

ボーンの作品を見ながら思い出したのが、つい最近読んだ「軍縮問題資料」10月号での芦澤礼子さんの記事です。
芦澤さんは7月13日に開催された「井原勝介さんと考える市民主義」の集まりでの、岩国市前市長の井原さんの講演の要旨を報告しています。
そこに、今の日本政府(自公政権)の非人間的な暴力性がはっきりと示されています。
その内容をできるだけ多くの人に読んでほしいと思い、ネットを探したのですが、まだどこにもアップされていません。
そこで、同記事の一部を引用します。

結果的には負けてしまいましたが、私たちの予想を超える、あそこまでいかさまのような選挙をやるとは思いませんでした。デマや誹誘中傷から始まり、何でもありの作戦がとられました。例えば私が勝てば夕張のように財政が破綻し、税金は何倍にも上がる、バスや病院、保育園、児童手当がなくなる、公園のトイレがなくなる。相手方(福田良彦氏)が勝てば五千億円も一兆円ももらって何でもできる。医療費や給食費がタダになり、道路もつくる、野球場もつくると。その陰では企業を挙げて圧力をかける。平日の期日前投票に、若い作業服を着た方がぞろぞろと来るということは、今まで岩国の選挙では見たことがなかったと、立会人の人も言っていました。
選挙前に、井原さんを辞任させるための政府の金を使っての嫌がらせもひどいものでしたが、こうしたことが日本の選挙でも起こっているのです。
アフリカの軍事政権や北朝鮮の話ではないのです。

ちょっと似た内容が、ジャンジャンニュースに掲載されています。
「井原勝介・前岩国市長が再起を語る(下)」

一番不愉快なのは、政府は私たち国民の税金を使って、国民の意識やつながり、生活を破綻させようとしていることです。
さすがに直接の殺害行為は見えてきませんが、実質的には同じ結果を生んでいるように思います。
ちょっと想像力を働かせば、アメリカのCIAと同じことをやっているのが感じられます。

表現が過激ですが、それはボーン・シリーズを観た直後だからです。すみません。
しかし、私自身も全くの間違いで公安警察の人に事情聴取されたことがありますが、その経験から言えば、権力への恐怖感はあります。
私が国家権力に寄生している人たちに、不快感と同時に、時に迎合しようとする弱さがあるのは、その恐ろしさが垣間見えるからです。

自民党政権は、まさに暴力的な政権です。
しかしたぶん、民主党政権になっても同じことでしょう。
それが国家なのです。
それへの対抗力は、マルチチュードとしての市民主義かもしれません。
井原さんの市民主義に基づく活動に共感します。
岩国市の動きには、これからも関心を持ち続けようと思います。

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2008/09/07

■人間を信ずるか、機械(科学)を信ずるか

露鵬と白露山の大麻疑惑は専門機関の検査結果でも陽性の判定になりました。
世界的にも権威あるところの判断なので、2力士の大麻疑惑も黒と考えるのが普通かもしれません。
しかし、これは悩ましい問題です。

2力士は、自分は大麻を吸ったことはないと断言しています。
その顔や目からは、私自身は嘘を感じませんでしたが、私の目はこの種のことに関しては全くの節穴ですので、当てにはなりません。
しかし、一般論として、
「本人が否定している事実」と「客観的な検査結果(科学)が肯定している事実」と、どちらを信ずるかといえば、心情的には私は前者を信じたい人間です。
企業不祥事や行政不祥事などで、権力を持つ人が嘘を言うことは少なくありませんが、状況証拠から見て「本人の否定」が明らかにおかしい場合は別ですが、権力などの利害関係がない場合には、まずは本人を信ずるところから考えていきたいものです。
人間の社会は「信ずること」を基礎にして、なりたっていますから、そうでなければ、人間の社会など成り立ちません。

今回の事件は、2力士が嘘をついているかどうかは、もちろん私にはわかりませんが、先ずはその発言を信ずるところからスタートしたいのです。
但し、親方は別です。
親方は先ずは、弟子の言葉を疑うところからスタートすべきです。
それは子育てと同じです。
子どもを信ずることと、子どもの発言を信ずることとは違います。
自分の子どもを盲目的に信ずることは、子どもをだめにすることにつながります。
それはたくさんの事例があります。
自分の子どもにはどうしても肩入れしがちだからです。
自分の子どもを信ずるためには、言葉ではなく、ふだんからしっかりと子どもを見ていなければいけません。
ですから、今回2力士の両親方が、弟子が吸っていないといっているからそれを信ずるなどというのは、まさに子どもをダメにするバカな親と同じです。
そういう文化を相撲の世界にはびこらせた今の相撲界のトップが、問題なのです。
ここでも問題の設定を間違わないようにしなければいけません。

人間を信ずるか、機械(科学)のよる判定を信ずるか。
答は私には明確です。
みなさんはどうでしょうか。
機械(科学)の判定結果などは参考資料でしかありません。
特に生命現象が機械にわかるはずもありません。
ですから私は、人間と機械(科学)とが違った答をだしたら、たぶん多くの場合、人間を信じます。

しかし、ことはそう簡単ではないでしょう。
だから今回の事件は悩ましいのです。
最大の問題は、こうした状況を生み出してしまう協会のあり方です。
そして、こうしたことに巻き込まれる状況に置かれた両力士の不運さに同情します。
あえていえば、相撲界から追放された若ノ鵬も、不運だったと思っています。
悪いのは彼らではないような気がしてなりません。

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■節子への挽歌372:しんじゃうまえ おうちのまえのおはなをありがとう

一周忌に献花に来てくださった人のなかに、近所の6歳のかおりちゃんがいます。
私はその時、別の方と話していたのですが、後で仏壇の前に折り紙で折った犬の顔が置いてあり、そこにメッセージが書かれていました。
表題は、その一部です。
「おばちゃん しんじゃうまえ かおりのおうちのまえのおはなをありがとう」
なんかとてもリアルですね。
でも子どもの言葉だと素直に心にはいるのが不思議です。
節子が喜んで大笑いしながら、彼女に話している姿が目に浮かびます。

かおりちゃんの家の前の花の一部が枯れてしまいました。
花好きの節子は、そこに花を植えて、水をやっていたのです。
節子のよけいなお世話の一つです。
そういえば、節子は家からかなり離れたところの電柱のまわりにまで花を植えて水やりに行っていました。
今は娘がやっていますが、ともかく花とお世話が好きでした。
でもそのおかげで、今回もたくさんの人たちが来てくれました。

節子は、かおりちゃんの心の中に、花のおばちゃんとして生きつづけるでしょう。
私は、死んじゃうまえに何ができるでしょうか。
これは結構難しいことです。
花は、人と人をつなげる大きな力を持っていますね。

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2008/09/06

■住民の姿が見えないまちづくり

CWSコモンズでは何回か書きましたが、松戸市でいま、「関さんの森」にまつわる問題が話題になりつつあります。
「関さんの森」については、関さんの森を育む会のホームページをご覧いただければと思いますが、2haほどの屋敷林の近くに都市計画道路を通すかどうかで行政と地権者だった関さん側とで合意ができないままに、松戸市が土地収用のための調査に入りだし、ちょっともめているのです。
この話は環境に取り組んでいる人たちの間では、かなり全国的にも広がっており、私のところにまで熊本の水俣市の人から松戸市長に抗議文を送ってくださいというメールが届いたほどです。
私も新聞で、土地収用に動き出したという記事を読んだ時には、行政はまだ懲りないのかと思っていましたが、その後、関係者にちょっと話を聞いてみたら、どうも話はそう簡単なことではないような気がしてきました。
その経緯などはまたCWSコモンズの方で順次書くつもりですが、今朝の新聞によれば、関さん側が提案してきた迂回路案を松戸市の市長が評価し、話し合いが始まるようです。
普通であれば、良かったといって安堵するところですが、今回はどうも割り切れないものを感じています。
それは、どこにも近隣住民のことが出てこないからです。
関さんの森を守ろうという人たちと行政とで決めてしまっていいのかという気がするのです。

私がこの話に大きな違和感を持ったのは、住民が議論の過程にほとんど出てこないことです。
行政からも関さん側からも、つんぼ桟敷に置かれているように感じます。
まちづくりにとって大切なのはフェアプロセスです。
住民のためにどんなにいいものであっても、プロセスがフェアでなければ、いい結果にはなりません。
よくいわれるように、アウトプットではなくアウトカムの視点で考えれば、まさにまちづくりや地域整備とはプロセスが本質なのです。
どんなによい森が残っても、どんなによい道路ができても、住民が主役にならない限り、環境は維持できません。
住民にとっては自然環境と生活環境は別のものではありません。
そこに住んでいない人にとっては別のものとして考えられるかもしれませんが、そういう「市民」に限って環境原理主義に罠に陥りがちです。
住民不在の環境保全などは成り立つはずがありません。
関さん側の案で妥協が成立するとしても、その内容や意味はきちんと住民に公開されるべきでしょう。

住民が見えないということに関しては、昨日書いた銚子市立総合病院の運営休止の話も、住民が見えてきません。
もちろん病院がなくなったら生命さえ脅かされるほどに困るために休止反対を唱えている住民の姿はテレビのニュースにも出てきます。
しかし、その人たちは単なる利用者としてしか見えてきません。
病院の経営が極めて困難なのは誰も知っているわけですが、ではどうするかというところでは、近隣住民は主役にはなれずにいます。
主役になろうとした住民がいたのかもしれませんが、病院も行政も、そうした人を自分たちの仲間とは考えていない構図が伺われます。
だれか一人でも、住民みんなで病院を支えていこうと呼びかければ、状況は変わっていったように思います。
しかし、そうした動きが起きていないのは、やはりここでも住民たちはつんぼ桟敷に置かれていたのでしょう。

各地で、住民参加とか協働のまちづくりとかが盛んに言われています。
しかし私が知る限り、住民が主役になっての活動は極めて少ないように思います。
もし松戸市や銚子市が本気で住民主役のまちづくりに取り組む意思があるのであれば、これは絶好のチャンス、格好のテーマだと思います。

この2つの事例に限りませんが、住民や当事者が不在のままに、問題が設定され問題が解決してしまうことが、まだまだ多いように思います。
私の信条は、「解決策は現場にある」です。
住民の知恵にこそ、常に一番正しい選択の種があるように思います。

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■節子への挽歌371:仏花にバラはダメなのか

私は、いわゆる「仏花」があまり好きになれません。
今回の一周忌にもたくさんの花をいただいたのですが、一周忌ということもあり、仏花らしい花も少なくありませんでしたので、こんなことを言うと送ってくれた人に大変失礼になるかと思いますが、また書くことにします。
お許しください。

一周忌の供養に、お寺の本堂に供える花を娘に頼みました。
いつもお願いしている花屋さんが臨時休業だったので、違う花屋さんに行きました。
一周忌の花だといったら、まず相場は5000円ですといわれたそうです。
そして花もほとんど決まっているそうです。
娘は、それを無視して、バラを入れてくださいと頼んだのです。
節子が赤いバラが好きだったからです。
そうしたらお店の人は、仏花にはバラは入れられませんと言うのだそうです。
それで私に電話がかかってきました。

私は娘と同じく、バラを希望しました。
もしダメなら仏花としてではなくアレンジしてもらえばいいといったのです。
花屋さんも、お寺との関係で「非常識」のことはできないのでしょう。
いろいろと応酬があったようです。
どこのお寺かとも聞かれたようです。
幸いにわが家は、自分流を通すことをご住職も知っていますし、
娘と若住職は小さい時からの知り合いでもあるのです。
それで娘は花屋さんの意見を押し切って、可愛い花束を完成させてくれました。
そこに義理の姉が持ってきてくれた、自分で育てた蓮のつぼみを入れました。
お寺の奥さんがとてもうまく活けてくれたので、5000円の相場以下でもわが家的な花束になりました。
もちろんお寺はバラがダメなどとは一切言いませんでした。

仏花にバラはつかわない。
葬儀の時に、私も葬儀社ともめましたので、私もそれをよく知っています。
しかし、なぜ仏事にバラを使わないのか。
それが常識だという人もいますが、それこそ自分勝手な非常識だと思います。
トゲのないバラは最近仏事でも使うようになっているはずですが、トゲがあっても故人が好きなら使えるようにするべきです。
故人に合わせてこそ、供養に心が入ります。
葬儀社やお寺のためにやるわけではありません。

私より数年先に、伴侶を見送った竹澤さんは、葬儀の時、みなさんにバラをお渡ししたそうです。

夫の好きなウイーンの公園にあったピンクのト音記号を白の花の中に書きました。
お帰りに夫の好きだったバラを一本ずつラップして頂きお持ち帰り頂ました。
バラは葬儀には使用しないそうで葬儀屋さんから断られ、お花屋さんに頼んで。
法事というとなぜかみんな「仏花」イメージに拘束されがちです。
白と紫色が基調です。
しかしお寺は決して無彩色の世界ではありません。
暖色もふんだんに使った、暖かな賑やかな色の世界です。
有名なチベットの砂マンダラを思い出せば納得してもらえるでしょう。

法事の主役は故人と遺族です。
仏教関連の産業界が勝手に創りあげた「常識」に拘束されることはありません。
花屋さんも、献花や供花の意味を考えてほしいものです。

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2008/09/05

■銚子市立病院は市民で再建できないものか

銚子市立病院が行政の赤字負担が限界に達し、とうとう休止になるようです。
実に「無駄」な話ではないかと思います。
いまさら言っても仕方がないでしょうが、なぜ住民たちで再建できなかったのでしょうか。
今朝のテレビでは、年間赤字は12億円と報道されていたようです(不正確かもしれません)。
銚子市の人口は7万人強ですので、年間一人2万円を負担すれば赤字は補填できます。
あるいは市民を対象にした公募債で立て直し資金は得ることも可能です。
住民一人2万円は高いかもしれませんが、病院がなくなることによって発生する住民の負担額増額と比べたら、そう大きな差はないかもしれません。
それに住民が一緒になって取り組めば、そして住民が我慢できることは我慢すれば、赤字は半減できるかもしれません。

そもそも地域住民にとって役立っている事業が赤字になること自体がおかしいのですが、それは日本の医療制度そのものがおかしいからです。
これは全国的な問題として直していかねばなりません。
それが改正されたら、数年後には黒字に持っていけるでしょう。

それに銚子市の住民の中には、きちんとした枠組みをつくれば、かなりの寄付は集まるでしょう。
病院が自分たちのものと思えれば、発想は全く変わってくるはずです。
全住民を対象にして、資金を公募したらオーナーシップが取れるかもしれません。
そうしたら名実共に、住民みんなの病院になります。
公立病院ではなく、共立病院、コモンズ病院です。

せっかくの施設があり、医師や看護師のネットワークもあったのに、赤字だからといってやめてしまうのは、大きな無駄です。
発想を変えれば、いくらでも存続の知恵は見つかるでしょう。
夕張や矢祭を、銚子の住民は学んでいないのでしょうか。
もし住民が中心になって再建するのであれば、私も喜んで負担します。
いつ自分の町でも起こるかもしれない問題ですから。

病院は、行政のものでも企業のものでもありません。
医師と看護師と患者のものです。
そういう原点が、あらゆるところで見失われているような気がします。

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■節子への挽歌370:1年をしのがれたこと、パートナーは評価されますよ

「1年をしのがれたこと、パートナーは評価されますよ。」

先日、15年ぶりに会った友人がこんなメールをくれました。
彼女も伴侶を4年前に亡くしています。
彼女に久しぶりに会った時には、そんな話は全くしなかったですし、お互いに15年前と同じように元気に話しあいました。
その後、メールが届いたのです。

ある薬局の薬剤師の女性が言ってました。
「3回忌過ぎるまでは……」
遺された連れ合いは、元気が出ないというか、前の状態に近づけないということなのでしょう。
3回忌といえば丸2年だけれど、わたしはもうすぐ丸4年です。
仕事がなかったら生きている意味がみつからなかったし、
今もその状態はあまり変わっていません。
そう書かれていました。
胸を突かれました。
彼女のその心の中を、私は全く見ようとしていませんでした。
彼女のこの数年の活動ぶりを漏れ聞いていましたが、その理由が少しわかったような気がします。
このメールに返事が出せないまま、1週間経ってしまいました。

「生きている意味がみつからない」
心に染みる言葉です。
彼女に返信する代わりに、このブログに書いておくことにしました。
それで少し気持ちが楽になります。

それにしても、「生きる」ということは一体何なのでしょうか。
この頃、またわからなくなりました。

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2008/09/04

■堂々と質問に答えられるような生き方

大麻疑惑で、日本相撲協会の北の湖理事長が、記者の質問に対して無言で押し切る姿を見ていて、なんとも言いようのない寂しさを感じます。
質問に堂々と答えられない人が、どうして社会的な職責を担っているのか。
これは日本相撲協会だけではありません。

質問する記者たちの無意味な質問に辟易しているのかもしれませんが、
たとえ相手の記者が非常識で勉強もしていない人たちであろうと、
そのシーンはテレビを通して多くの国民に届くのです。
見識のない記者やレポーターたちに勝手なことを言わせないための、絶好の機会なのです。
自らの発言をテレビで流してもらうなどと言うことは、普通の人には望んでもできることではないのです。
そのせっかくの機会に、黙して語らないのは、それこそ語る以上の明確なメッセージを視聴者には伝えるはずです。
黙して語らないだけで、北の湖理事長は職責を果たさず、どこかに後ろめたいところがあるはずです。
あの力士殺害(傷害致死)事件以来の多くの相撲界の不祥事の黒幕は、私には、北の湖理事長だろうと思えてなりません。
つまり本当の犯人は北の海だということです。
言い方がきつすぎますが、暴力を温存させていた加害者の仲間であり、大麻がもし事実であるとしたら、それもまたそうした状況を作り出してきたという意味で加害者の一角を成しているというべきです。
黙して語らずの言動が、それを明確に示しているように思えてなりません。

何か問題が起きた時に、当事者側の権限ある人は記者の質問攻めを浴びることになります。
それは、実は絶好のチャンスです。
危機管理の出発点は、自らをさらけ出し、多くの目でチェックしてもらい、問題解決に協力してもらうことです。
どんなことでもいいので、まずは話すことから始まります。
多くの場合、責任者には当事者意識が欠落しており、自分たちも被害者だと思ってしまうようですが、関係業界や関係者はだれであろうと、いついかなる場合も、加害者の仲間であって、被害者ではないのです。

マスコミ報道を恣意的に悪用するのはよくないですが、関係者はもう少し真面目にマスコミに対応する姿勢をもってほしいです。
しかし、そういう状況が育たないのは、マスコミ側に大きな責任があるように思います。
マスコミもまた、そういう効用を関係者にしっかりと理解してもらい、その効用を健全に活かす努力をするべきです。
少なくとも、無意味な質問をし、内容のない報道をするのではなく、事件を正しく視聴者に伝えられるように、節度ある取材、意味ある質問、正確な報道にもっと真剣に取り組むべきです。

北の湖理事長のこそこそした惨めな姿を見て、どんな質問にも、堂々と応えられるような生き方をしたいなと改めて思います。

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■節子への挽歌369:勢至菩薩へのバトンタッチ

一周忌から、節子に同行する菩薩が替わることを、一周忌供養の講話で知りました。
これまでは観音菩薩だったのが、一周忌からは勢至菩薩に担当が替わったのです。

私がむかし、衝撃を受けた三千院の阿弥陀堂の阿弥陀如来は、観音菩薩と勢至菩薩を伴っています。
三千院の阿弥陀堂は、昔は堂内に入れ、そこは船底天井のタイムマシンを思わせる空間でした。
当時は間違いなくタイムトリップできたはずです。
静かな動きのある空間で、阿弥陀三尊が動いているのを感じ、衝撃を受けたのです。
時間軸を仏教世界基準にすれば、1年や2年の時間は瞬時に過ぎません。
10年後にきたら、きっと変化を実感できると確信していました。

そして20年くらい経ってからまた訪ねました。
驚きました。
時間が逆行していたのです。
立ち上がりつつあった脇侍の両菩薩の腰が少し下がっているのです。
もうみんなを救うことを諦めたのでしょうか。
その気持ちが分かるような気もします。

脇侍のひとりが勢至菩薩です。
勢至菩薩は知恵をつかさどる菩薩と言われていますが、そのことに魅かれて、観音菩薩の次に好きな菩薩です。
仏教の知恵には、昔からとても魅力を感じています。
この勢至菩薩の真言は、「オン・サンザン・サンサク・ソワカ」だそうです。
この真言を唱えると、煩悩が消え、知恵が得られそうですが、煩悩を消そうなどとは思っていないので、私はこの真言は唱えません。
私が唱えているのは、節子がいつも唱えていた光明真言です。
節子は寝る前にいつも5回、光明真言を唱えていました。
普通よりも2回多いのですが、そこに節子の思いを私は感じていました。
そうしたちょっとした節子の仕草の意味が、私にはいたいほどよくわかりました。
でも何もしてあげられませんでした。

節子の人生における脇侍の勢至菩薩は。まちがいなく私でした。
その私が、実はあまり知恵がなかったのです。
知識はそれなりにありますが、知恵がないのです。
加えて常識が少し欠落していました。
節子がそれに気づいたのは、結婚して20年くらい経ってからでしょうか。
そこから私たち夫婦の主導権は、節子に移りました。
知識は知恵には勝てないのです。

私にもっと知恵があり、賢明であれば、もしかしたら節子はこんなに早く旅立たなくてもよかったかもしれません。
節子がある時、「知恵の有無が生死を決めるのね」とつぶやいたことがあります。
自分への反省のような口ぶりでしたが、私への不満だったかもしれません。
そんなようななんでもない一言や仕草を、時々思い出します。

これからは本物の勢至菩薩が節子の同行者です。
安心していいでしょう。
私に同行してくれる勢至菩薩は、これまで通り節子ですので、少し頼りないです。

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2008/09/03

■不正に合格したのか、不正に合格させたのか

先日書いた大分の教員採用不正事件に関連して、動きが全く変わってこないのでしつこいですが、もう一度書きます。
辞表を出さずにがんばっている教員の方を応援したいです。

今日のテレビでも「不正に合格した教員」という表現がされていますが、それは正しい表現なのでしょうか。
私は「不正に合格させた資格審査関係者」と言うべきではないかと思います。
もしそう考えれば、合格した教員は「不正」とは無縁で、胸を張って教員を継続すべきですし、その資格を剥奪する権限など、あるはずもありません。
教育委員会の責任者はすぐに辞表を出すべきですし、その周辺の人たちも辞任すべきでしょう。
文部科学省も無縁ではないはずです。
教育委員会や監督官庁、あるいは採用決定に関わった人たちは、教員を辞めさせるのではなく自らが辞めることを考えるべきです。
問題の設定を間違えると、解決策は当然おかしなものになり、問題は継続します。
福田首相が見事にお手本を示してくれている通りです。

マスコミは、もっと言葉遣いに気をつけてほしいです。

関連していえば、相撲界の大麻検査陽性事件の報道も言葉遣いが全く不誠実です。
最初の報道と今日の報道を読み比べると、そのおかしさがよくわかります。
マスコミの表現一つで、人の人生を一変させることができることを、もっと自覚すべきです。
新聞やテレビが、最近は「おぞましく」感じます。
まあ、疑いをかけられた力士の親方の発言もひどいものですが。

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■節子への挽歌368:花で囲まれた節子にたくさんの友人が会いに来てくれました

今日は節子の命日です。
昨日までのくもりがちな天気が一変して、雲一つない快晴です。
30度を超す暑さですが、風があるのでさわやかでもあります。

節子の仏壇の周りは、またすっかり花に囲まれてしまいました。
Hana080903

あなたの好きなカサブランカや胡蝶蘭をはじめ、いろいろな花で埋め尽くされています。
こんなに花が集まるのは、やはり驚きです。
この花の中に入ると、1年前を思い出させられますが、できるだけ思い出さないようにしています。
いつも前を見ているのが、私たちの生き方でした。

今日もまたあなたが大好きだった人たちが来てくれました。
朝一番には会社時代の同僚だった木村俊子さん、そして花かご会のみなさん。
続いて長沼さん。午後にはヨーロッパ旅行の仲間が来ました。
なんで節子の友だちなのに、私が相手をしなければいけないのか、
この日くらいこの世に戻ってきて、みんなの相手をしろといいたいですが、どうもまだそれは無理のようです。
夕方、坂谷信雄さんも来てくれました。

今日、来てくださった方は13人です。
その一人ひとりが、節子の思い出を少しずつ持っていてくれます。
私が知らない節子の話も出ました。
なんだか今日は、たくさんの節子に会ったような気もします。
しかし疲れました。
この疲労感は何なのでしょうか。

この挽歌で、節子に報告したい話もあるのですが、
今日はちょっと頭が疲弊していて、書けそうもありません。
また日を改めて、書かせてもらいます。

ちなみに、大日如来像の評判はなかなか良かったです。
キスケもがんばっていました。

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2008/09/02

■国民に問う選挙と代表を選ぶ党内選挙とは全く異質のものです

前項の続きです。

自民党は総裁選挙をするのに民主党は代表選挙をしないのですか
開かれた自民党に対して、密室のイメージを与えませんか
という人がいます。
ある報道番組で、キャスターも含めてコメンテーターがしつこく聞いていました。

選挙にはいろいろあります。
選挙をすればいいというものではありません。
国民に問う選挙と党内の代表を選ぶ選挙とは全く異質のものです。
前者は選挙そのものに価値がありますが、後者の選挙は手段だけのものです。

政策論議をすることと代表を選ぶこともまた、全く別の話です。
それを一括りにして、代表選挙がないのが透明性のないように言う人は、選挙の勉強をやり直すべきでしょう。
党内の代表選挙は、党内の権力闘争でしかありません。
政策論議とは全く別の話であり、政策論議をするのであれば、政策ごとの投票をすべきです。
今のIT技術を活用すれば、そんなことは簡単にできます。
逆に代表選挙の場合は、投票者が限られていますので、いくらでも密室でのやり取りができますから、透明性とは全く別の状況もつくれます。
むしろそこで利権が発生していくのです。

大切なのは民意を問う次元での選挙です。
それには手をつけずに、民意の選挙対策としての小賢しい総裁選挙などは瑣末な話です。
マスコミにもし良識があれば、そんな芸能ニュースは無視し、各党の政策をこそしっかりと報道すべきでしょう。
政策ではなく、人に関心を持っているのはマスコミです。
それが政治を芸能に貶めてしまった一因です。

自民党には政権担当能力があり、民主党には政権担当能力がないとついしばらく前まで語っていた、不勉強なキャスターたちが、福田辞任表明以来、自民党には政権担当能力もないし、政策もないと口をそろえて言い出しました。
1945年の8月と全く同じような状況です。
テレビだけではありません。
新聞の論説委員も同じです。
一夜にして論調が変わりました。

まさにこれはマスコミの犯罪です。
いいすぎでしょうか。
でもいつの時代も、社会を壊すのも創るのもマスコミなのです。
その自覚を持ってほしいものです。

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■マスコミはなぜ首相辞任表明をきちんと糾弾しないのか

もし情報というものが大きな力を持っているとしたら、それを扱うマスコミ関係者はしっかりした使命感と責任をつ必要があります。
どうも最近のマスコミを見ていると、そうした責任感も使命感もなく、ただ営利主義の経済活動という意識しかないような気がしてなりません。
今回の福田首相辞任報道を見ていて、ますますその感を強くしました。

間違っているのは私のほうかもしれませんが、どうもテレビでの報道姿勢やキャスターやコメンテーターの発言には違和感があります。
福田首相の辞任は確かに大きな事件ですが、それを糾弾するように見せながら、その実、自民党の宣伝マンの役割を果たしている人の多さに驚きます。
今日の報道番組で、自民党総裁選挙など興味はなく、問題はそんなところにあるのではない、それをお祭りのように取り上げて肝心の問題を見えなくするマスコミが問題だと、ある人が話していましたが、全く同感です。
しかし、その人もついついそう発言してしまったのか、発言の後、キャスター(小宮さん)に向かって、すみませんと謝っていました。
謝るのは小宮さんだろうと思いましたが、彼女はフォローしませんでした。
がっかりしました。
私が知る限り、そうした認識を持っているキャスターは、古館さんだけですが、彼の番組も古館さんの思いとは別の映像を流したりすることが多いので、たぶん同番組のほとんどの関係者、とりわけ編集者は古館さんのような意識は持ってはいないでしょう。

いろんな政治家も発言していますが、みんな腹に一物がありそうな発言ばかりです。
与党では笹川総務会長が、とても素直に話していますが、それ以外の人はあまりに見え透いた嘘が多いような気がします。
それが政治家だといってしまえば、それまでですが。
首相の辞任表明の内容もなぜもっと糾弾しないのか。
あれは首相の発言としては、とうてい許されるものではないでしょう。
私には犯罪とさえ感じられます。
盗人白々しいという気がします。
船場吉兆の社長と同じレベルだと思います。
わが家の娘たちでさえ、失笑していました。
これが中小企業の経営者だったら、マスコミは徹底的に苛め抜くと思います。
しかしいかにも甘い報道です。
皮肉を言ってごまかしていい話ではないはずです。
日本のジャーナリズムはもう死に絶えたようです。
福田首相も辛かったのですなどとバカな報告をするリポーターにはあきれます。
おまえも少しは辛い思いをして、しっかり調査してレポートしてみろといいたくなります。
芸能ニュースのレポーターのような人が多すぎます。
いえ、それは失礼な言い方ですね。それ以下というべきでしょう。
それに輪をかけて、コメンテーターは脳天気に、福田首相の真似をして「ひとごと」発言しかしません。

長くなりました。項を変えて続けます。

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■節子への挽歌367:節子のことを思い出してくれる人たち

節子
あなたはとても幸せな人ですね。
一周忌にあわせて、節子のことを思い出してくれている人がこんなにいるとは驚きです。
私だけで独占したい気もしますが、たくさんの人が節子を思い出してくれているのは、何だか少し誇らしい気もして、うれしいです。
人の絆は、時間の長さでも利害関係でもなく、心の響きあいで決まります。
私が会社を辞めた時に感じたことですが、改めてそのことを感じました。

昨日から、花がたくさん届きだしています。
節子の友人たちからです。
私の場合は届かないでしょうね。
男性と女性の違いかもしれないのですが、
みんな花にある思いを託してくれていることが私にさえ伝わってきます。

女性たちの絆は、私には見えない世界です。
こんなに届いてどうするのと私自身はちょっと不安ですが、
節子が花になって戻ってきているのかもしれません。
この3日間は、娘も含めてみんな自宅にいることにしましたが、
こんなに花が来るとは思っていなかったので、いささかてんやわんやです。

何人かの方に電話させてもらいました。
電話嫌いの私には結構つらい仕事なのです。
節子の友人の女性ですので、どう話していいかわからず、
相手もたぶん妻を亡くした傷心の男にどう対応すればいいか悩ましいのではないかという気もします。

でも電話で話すと必ずといっていいほど、節子へのライブな思いが伝わってきます。
男性とはどうも違うのです。
少なくとも私にはない情感を感じます。

うまくいえませんが、女性は生命的にみんなつながっているのかもしれません。
女性は生命の本流、男性は支流。そんなふうに思えてなりません。
節子との絆においては、私は誰よりも強いと思っていますが、
そうでないもっと大きな生命的な絆が女性たちにはあるのかもしれないと、
送られてきた花を見ながら思っています。

節子
君はどの花の中に隠れているのでしょうか。

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■教員採用不正事件に関する大分県教育委員会の鉄面皮な犯罪

最近の様々な事件には、分野を超えて何か奇妙な相似性があります。
昨日の福田首相の辞任は、まさにその象徴のよう事件でしたが、記者会見を聞いていて、いつもは腹立たしく見ているタレントの無知のひけらかし番組以上のやりきれなさを感じました。
一生懸命生きているのが、虚しくなるほどの憤りを感じます。

昨日、書こうと思っていたことを今日は書きます。
大分県の教員採用不正事件に伴う教師への対応です。
これにも大きな怒りを感じます。
私の怒りの対象は、解雇宣告された教師ではありません。
それを決めた大分県の教育委員会です。

たとえば昨日の朝日新聞には「今年度の教員採用試験で、得点改ざんにより不正に合格したとされる教員21人の採用取り消しを決めた大分県教育委員会は31日、自主的に退職するかどうかの回答を9月3日までに求め、退職しない教員は5日をめどに採用を取り消す方針を明らかにした」と、昨日の朝日新聞は報道しています。

どうも私には理解できません。
教員が「不正合格」したのではなく、教育委員会が「不正合格」させたというべきです。
加害者と被害者の関係が逆転しています。
合格した人たちに、何の罪があるのでしょうか。
自分の知らないところで、不正が行われただけなのに、なぜ「不正」と非難されなければいけないのか。

それに権威あるところが、一度、合格させたのであれば、それは当事者に不正がなければ、取り消しはできないはずです。
契約を何と心得ているのでしょうか。
このやりかたがビジネスや日常生活にも適用されれば、社会は維持できなくなるはずです。
一度決めた合格を当事者には無縁の理由で一方的に取り消すことは、まさに「不正」であり「犯罪」です。
大分県の教育委員会は、二重の犯罪を重ねています。
この構図も、最近の政治や行政、企業に見られる共通の構造です。

でも試験に合格する得点を得ていないのだからと言う人がいるかもしれません。
そういう人には問いたいのですが、試験の点数がそんなに大事でしょうか。
試験の点数で教育が出来るのであれば、コンピューターに任せればいいでしょう。
それに試験の点数が良くて、出世した人が、何をやっているか良く考えましょう。
優等生は、首相になれても国政などできないことが、この数年、いやと言うほど知らされたのではないでしょうか。
官僚も、企業人も、試験の点数で選んできたために、みんなおかしくなっているのではないかとさえ、私は思っています。
知識や試験が不要だというのではありません。
現在の試験で問われていることの内容がおかしいと思っているのです。念のため。

しかも大分県の教育委員会のやり方は「いじめ」のようなやり方です。
先ずは自分たちが辞職すべきでしょう。
親や関係者を断罪すべきでしょう。
相手を間違ってはいないでしょうか。
被害者は生徒と先生です。

資格試験は利権に繋がっています。
大分のみならず全国で、多かれ少なかれ抗した「不正」は行われているでしょう。
そして、たぶん多い他のようなやり方で、本当の加害者はいつも安泰なのでしょう。
ほんとうにやりきれない話です。

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2008/09/01

■自分を客観的に見られる自分のない福田首相:我思う、故に我なし

福田首相が突然に辞任を表明しました。
記者会見を娘たちと見ていましたが、みんな思わず笑ってしまうほど、めちゃめちゃな内容でした.
責任を人に転嫁するだけで、しかも「国民目線」どころか「目線が高い」のがあまりに露骨で、恥の意識の全くない発言でした。
発言のほぼすべてが「いいわけ」と「ぐち」でした。
まるで幼稚園の児童が先生にしかレレt、べそを書きながら言い訳しているみたいでした。
しかも、記者の質問にはほとんど全く答えていませんが、それを強く突っ込まない記者も情けないですが、質問しても何も答が戻ってこないと諦めたのでしょうか。

最後の記者から、「首相は他人事のように話すが」と言われて、福田さんは「私は自分を客観的に見られるので、あなたとは違うんです」と声を荒げていましたが、娘も思わず笑っていました。
漫才を見ているようですね。
要するに、この人は全く主体性がないのでしょう。
きっと客観的に見る対象の自分がいないのです。
デカルトと違い、「我思う、故に我なし」なのです。
いやはやややこしい話です。

能力のない人が、みんなに支えられて責任ある職につくのが日本の文化ですが、これまではそれを組織や黒幕が支えてきていました。
しかし、それがいまや失われてしまっているのでしょう。
それに気づかずに、安倍さんも福田さんも利用されたわけです。

今日、実は、大分県の教員採用不正事件のことを書こうと思っていたのですが、まさに福田首相は、そうした不正行為によって合格点も取れないのに首相になってしまったのでしょう。

それにしてもひどい記者会見でした。

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■節子への挽歌366:夜来香(いえらいしゃん)

庭に夜来香があります。
もう咲き終わっていますが、今年の夏はよく咲きました。
香りがとても強い花です。

節子は我孫子の女性合唱団「道」に入らせてもらっていましたが、
そこで「夜来香(いえらいしゃん)」の歌を練習していたことがあります。
節子が生まれる1年前に中国で作曲された歌で、日本でも山口淑子(李香蘭)が歌って有名になりました。
夜になると香りを強く発します。

今朝、庭で娘から、この木はコーラスで習っていた時に節子が花屋さんで見つけて買ってきたのだと教えてもらいました。
昨年の夏、節子の病室の外で初めて咲いたのだそうです。
昨年は、あまり余裕がなく、はっきりとは覚えていませんが、
そういえば、あけた窓から香りが少し届いていたような気がします。
ベッドから見えるところに、ジュンが持ってきてくれていたのです。

そんな話をしながら、コーラスの誰かが来るかもしれないねなどと娘と話していました。
でももう1年も経つし、まさかこないだろうと思っていました。
ところが、です。、
午後、来客がみんな帰ってだらっとしていたら、女声合唱団「道」のメンバーが献花に来てくれたのです。
しかも12人もの大勢です。
熟女がこれだけそろうといささか狼狽します。
いささかあわててしまいましたが、とてもうれしくて、
献花だけではなく、昨日、開眼供養してもらったばかりの大日如来をお引き合わせさせてもらいました。
大日如来も毎日、こんなにたくさんの人たちが拝んでくれるので、驚いているかもしれません。
いえ、不思議なことに、この大日如来がやってきてから、
いろんな人が来てくれますから、
これこそまさに大日如来のお心遣いかもしれません。
あるいは、夜来香の香りのおかげでしょうか。
みなさんにも夜来香の話をしました。

それにしても、みなさんが節子のことを気にしていてくださるのが、なによりもうれしいです。
節子からは、皆さんのお名前もお聞きしているのですが、
いつも大勢で来てくれるので、お名前と顔が結びつきません。
いつもうまく感謝の気持ちが伝えられずに、節子がきっと気にしているだろうなと思います。
節子は本当にやさしい仲間に恵まれていました。
うらやましいほどです。

道のみなさんは、鉢付きの赤いミニバラを中心にしたパケットを持ってきてくれました。
節子のことをよく知っていてくれているのだなと、それもまたうれしくなりました。
赤いバラは節子の好きな花ですし、鉢付きの生きた花が好きでした。
このミニバラは、きっとわが家の庭に根づくでしょう。

それにしても、どうしてみんな、こんなにやさしいのでしょうか。
歌を歌っているからでしょうか。

今日は2回も挽歌を書いてしまいました。
いつか1回、挽歌休刊日ができそうです。

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■節子への挽歌365:仏の生みの親のジュンのこと

昨日、魂を入れていただいた、わが家の大日如来は、むすめのジュンの作品ですが、
彼女はリアルな人形が好きではありません。
そこに魂を感じるのか、子どもの頃から怖いと言っていました。

実はこんなことがありました。
同居していた私の父が病気になりました。
ジュンは、紙粘土で父の像をつくりました。
それをジュンは、父の誕生日にプレゼントしました。
とてもユーモラスに父の特徴をうまく捉えていて、それをもらった父はとてもうれしそうでした。
家族のみんなが、私のも創ってほしいと言い出すほどでした。
ところが、その人形を仕上げてから3ヵ月後、父は息を引き取りました。
父も胃がんで、実はもう医師の宣告期間をすぎていたのです。
もう20年以上前の話です。

ジュンは、それ以来、人形をつくるのをやめました。
私も人形をつくってくれないかと頼みましたが、つくってはくれませんでした。
人形をつくったことで、父が死んだのではないかという思いがどこかに生まれてしまっていたようです。
父の人形は、その後もわが家で母と一緒に過ごしていました。
父の人柄を見事に表現している、その人形を、私は大事にしたいと思っていました。
しかし、母が亡くなった時に、ジュンは父の人形も一緒に送ろうと言い出しました。
誰も反対しませんでした。
父と一緒に旅立てれば、母も心強いだろうと思いましたし、その時はそれが当然のように思ったからです。
しかし、きっとジュンの思いは少し違っていたのかもしれません。
子どもは、大人よりも彼岸に通じていますから。
その後、わが家からほとんど人形はなくなりました。

母の葬儀の時、その父の人形を菩提寺の住職も見ています。
それがよほど印象深かったのでしょう、節子の葬儀を終わって、住職にみんなで挨拶にいったら、最初に出てきた話題が、その人形の話でした。

節子の仏壇に合う仏様をみんなで探しました。
節子も含めて、家族みんなが納得できる仏様ですが、そんな仏はありませんでした。
そのうちに、ジュンが私がつくってもいいならつくるよ、と言い出しました。
そして生まれたのが、この大日如来なのです。

私にとっては、この如来像の後ろにたくさんの物語がついているのです。
そうした物語を思い出しながら、これから毎朝、拝んでいくつもりです。
私にとっては、ジュンは運慶よりも優れた仏師です。

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