■住民の姿が見えないまちづくり
CWSコモンズでは何回か書きましたが、松戸市でいま、「関さんの森」にまつわる問題が話題になりつつあります。
「関さんの森」については、関さんの森を育む会のホームページをご覧いただければと思いますが、2haほどの屋敷林の近くに都市計画道路を通すかどうかで行政と地権者だった関さん側とで合意ができないままに、松戸市が土地収用のための調査に入りだし、ちょっともめているのです。
この話は環境に取り組んでいる人たちの間では、かなり全国的にも広がっており、私のところにまで熊本の水俣市の人から松戸市長に抗議文を送ってくださいというメールが届いたほどです。
私も新聞で、土地収用に動き出したという記事を読んだ時には、行政はまだ懲りないのかと思っていましたが、その後、関係者にちょっと話を聞いてみたら、どうも話はそう簡単なことではないような気がしてきました。
その経緯などはまたCWSコモンズの方で順次書くつもりですが、今朝の新聞によれば、関さん側が提案してきた迂回路案を松戸市の市長が評価し、話し合いが始まるようです。
普通であれば、良かったといって安堵するところですが、今回はどうも割り切れないものを感じています。
それは、どこにも近隣住民のことが出てこないからです。
関さんの森を守ろうという人たちと行政とで決めてしまっていいのかという気がするのです。
私がこの話に大きな違和感を持ったのは、住民が議論の過程にほとんど出てこないことです。
行政からも関さん側からも、つんぼ桟敷に置かれているように感じます。
まちづくりにとって大切なのはフェアプロセスです。
住民のためにどんなにいいものであっても、プロセスがフェアでなければ、いい結果にはなりません。
よくいわれるように、アウトプットではなくアウトカムの視点で考えれば、まさにまちづくりや地域整備とはプロセスが本質なのです。
どんなによい森が残っても、どんなによい道路ができても、住民が主役にならない限り、環境は維持できません。
住民にとっては自然環境と生活環境は別のものではありません。
そこに住んでいない人にとっては別のものとして考えられるかもしれませんが、そういう「市民」に限って環境原理主義に罠に陥りがちです。
住民不在の環境保全などは成り立つはずがありません。
関さん側の案で妥協が成立するとしても、その内容や意味はきちんと住民に公開されるべきでしょう。
住民が見えないということに関しては、昨日書いた銚子市立総合病院の運営休止の話も、住民が見えてきません。
もちろん病院がなくなったら生命さえ脅かされるほどに困るために休止反対を唱えている住民の姿はテレビのニュースにも出てきます。
しかし、その人たちは単なる利用者としてしか見えてきません。
病院の経営が極めて困難なのは誰も知っているわけですが、ではどうするかというところでは、近隣住民は主役にはなれずにいます。
主役になろうとした住民がいたのかもしれませんが、病院も行政も、そうした人を自分たちの仲間とは考えていない構図が伺われます。
だれか一人でも、住民みんなで病院を支えていこうと呼びかければ、状況は変わっていったように思います。
しかし、そうした動きが起きていないのは、やはりここでも住民たちはつんぼ桟敷に置かれていたのでしょう。
各地で、住民参加とか協働のまちづくりとかが盛んに言われています。
しかし私が知る限り、住民が主役になっての活動は極めて少ないように思います。
もし松戸市や銚子市が本気で住民主役のまちづくりに取り組む意思があるのであれば、これは絶好のチャンス、格好のテーマだと思います。
この2つの事例に限りませんが、住民や当事者が不在のままに、問題が設定され問題が解決してしまうことが、まだまだ多いように思います。
私の信条は、「解決策は現場にある」です。
住民の知恵にこそ、常に一番正しい選択の種があるように思います。
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