■節子への挽歌374:「そうか君はもういないのか」の連鎖
城山三郎さんの「そうか君はもういないのか」が、先日、NHKテレビで話題にされたせいか、関連記事へのアクセスが増えています。
このブログを読んで、早速、同書を買ったと言ってきた人もいますが、私自身はまだ購入もしていません。
なんだか読めないような気が、まだしているのです。
「そうか君はもういないのか」と言っていた城山三郎さんも、今はもういなくなりました。
今は、城山さんの娘さんがきっと、「そうかもう父はいないのか」と思っていることでしょう。
そうやって人の歴史は続いていく。
「そうか君はもういないのか」は人が生き続ける限り存在する、不滅の連鎖用語なのです。
「節子はもういないのか」と考える私も、いつかいなくなるでしょう。
その時、「修はもういないのか」と言ってくれる人がどれだけいるか。
そこにこそ、私の生きた証があるように思います。
自分が生きた証を残すために立派な作品を残す人もいますが、
私は、そうしたものには全く興味がありません。
それどころか、ついしばらく前までは、生きた証を残すことにはむしろ否定的でした。
証を残すために生きているような人は、私には理解を超える人でした。
しかし、節子がいなくなって、そうした考えが変わりだしました。
生きた証は、本人の思いとは全く関係なく、残ることを知りました。
大切なのは、どこに残るかです。
私が改めてとてもうれしく思ったのは、
「そうか節子はもういないのか」と思っている人が多いことです。
思いも知れない人が、花をもってきてくださったり、手紙をくださったりするのです。
そういう時には、節子は今も生きていると思えて、とてもうれしいです。
人の生きた証は、その人と触れた人の心の中に残ります。
そして、その人の生きた証として、次の人に伝わっていく。
いつか名前は消えていくでしょうが、それと同時にもっと大きな生の証となって、残っていく。
最近、そんな実感がもてるようになって来ました。
すべての人の生が、今の私の生を支えてくれているのです。
一条真也さんが、著書の「愛する人を亡くした人へ」でこう書いています。
現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、まさにそうだなと、改めて実感できました。
はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きている。
わたしたちは個体としての生物ではなくひとつの生命として、過去も現在も未来も一緒に生きるわけです。
その証を伝えるのは、しかし、女性たちかもしれないという気も強くなっています。
それは、子どもを生むことのできる女性に埋め込まれた生命の伝承のシステムかもしれません。
城山さんは「そうかもう君はいないのか」と言っていたそうですし、私も毎日、そう思い続けています。
しかし、本当は、江藤淳さんのように、城山さんも後を追いたかったのではないかと思います。
少なくとも私はそうでした。
それができないから、半身を削がれたまま生きているわけですが。
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