■節子への挽歌383:無意味なことを話せる存在
節子
最近また、いろいろな人と会うことが多くなりました。
節子と同じで、私も友人にはとても恵まれていますし、知人もたくさんいます。
そういう人がいろいろと会いにきてくれます。
半分以上は、特に用事があるわけではありません。
一応、相談などと言っていますが、雑談で帰る人のほうが多いです。
これは昔からそうでした。
あの人は一体何のために来たのだろうかといぶかしく思うことも少なくありません。
長い人は3時間もいます。
おかげで、私は時間をもてあますことはありません。
たくさんのとても気持ちのいい人に囲まれていて、話し相手には事欠かないからです。
しかし、どんなにたくさんの話し相手がいても、その人たちには出来ないことがあります。
それは、私のすべての体験に私と同じように関心を持ってくれることです。
節子はそうでした。
伴侶とはおそらくそういうものでしょう。
そうしたことが意識的にではなく、自然にできてしまう関係が夫婦かもしれません。
お互いに、全生活を共有し、相手の体験に関心を持つ関係といってもいいでしょう。
もちろん夫婦とはいえ、別の人格を持つ2人が生活体験をすべて共有することなどできるはずはありません。
しかし、相手の全生活が自分の生活と繋がっていることを実感できれば、その体験に無関心ではなくなります。
損得や理屈で、関心事が選ばれることはありません。
そういう何でも関心を持ってもらえ、なんでも話し合える存在がいないことはさびしいものです。
伴侶を失って、このことが一番辛いことかもしれません。
小難しい言い方をしましたが、要するに、外で体験してきたことを話す相手がいなくなってしまったということです。
私はいま、2人の娘と同居しています。
2人とも私の話を聞いてくれますし、私にも話してくれます。
しかし、女房のようには関心を持ってくれませんし、私もすべてを話そうとは思いません。
彼女らにとっては全く別の世界の話なのですから。
節子だったら、とても喜んでくれるだろうし、悲しんだり怒ったりしてくれるだろう、と思うことも、彼女たちには関心の埒外のことが多いでしょう。
夫婦とは実に不思議な関係です。
-一切の理屈を超えて、何でも話せて、喜怒哀楽を自然と共有できる人がいることが、どれほど幸せなことであり、心安らぐことなのか。
伴侶がいることのありがたさを、もっと多くの人に知ってほしいです。
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