■節子への挽歌386:彼岸に単身赴任している節子
節子に会えなくなってから1年以上経ちます。
遠く離れてしまうと、仲が良い友人でも1年に会うか会わずの人もいます。
先週も40年ぶりに会った友人もいますし、先日は3年ぶりの人に2人会いました。
2~3年会うことのない友人は少なくありません。
長いこと会わなくても、そうした友人との関係は変わりません。
それに会わなくとも、とりわけさびしい感情は生まれません。
だとしたら、1年会わなかったくらいで、節子との関係が変わるはずもありません。
節子はいま、彼岸に単身赴任していると思えば、なんでもないはずです。
とまあ、理屈でいえば、そういうことになるのですが、実際にはそうはなりません。
会っていなくても、その気になれば会えるのと、その気になっても会えないのとでは、全く違うのです。
実際に会っているかどうかではなく、会える可能性があるかどうかが大切なのです。
「会える」という保証があれば、会えなくてもさびしさは我慢できるでしょう。
しかし「会えない」ことが確実であれば、我慢などできようがありません。
我慢は「希望」がある場合にのみできることなのです。
「来世で会える」という信仰は、「希望」を与えてくれます。
希望があればこそ、見送った者への供養もできます。
希望があればこそ、前を向けます。
来世信仰は、人が生きていくために埋め込まれた最初の「意識」ではないかと思います。
以前書きましたが、人は「死」を獲得したおかげで、人格を獲得し、「愛」を得ました。
愛と死はセットのものですが、それはまた来世信仰ともセットと考えていいでしょう。
節子はいま、彼岸に単身赴任だと考えると気持ちはやわらぎます。
その発想をさらに進めれば、私が此岸(現世)に単身赴任しているともいえます。
しかも私の場合は、娘まで同行してくれたわけです。
「いつかまた会える」という確信が、いまの私に希望を与えてくれています。
きっと同じ立場のみなさんもそうですよね。
大浦さん、米田さん、上原さん、・・・・
きっといつか伴侶に会えますよ。
会えないはずがありません。
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