■金融資本主義なる不可解なもの
お金がお金を生む経済がどうしても納得できないと、何回か書きましたが、どうもその真意が伝わっていないよなので、蛇足的なことを書きます。
お金がお金を生むということは、お金が集まることで、何か「価値」の創出に繋がるという意味でしょうが、価値の創出がなくとも、お金が増殖するということが納得できないという意味です。
投機資金が集まって原油価格を上げることは「価値創出」には無縁です。
お金がお金を生む時に、もしそうした実体価値が生まれなかったらどうなるか。
実体価値が不変でお金が増えたら、実体価値の金銭価格が低下します。
インフレです。
インフレは、持てる人を豊かにし、持たない人を貧しくします。
ここで、「持つ」とは、貨幣ではなく実体価値の所有の多寡です。
実体価値のある何かを持つ人はその金銭価格が上昇し、貨幣しか持っていない人はそれで獲得できる実体価値は減少します。
実体価値の総量が不変のままで、お金がお金を生むもうひとつの仕組みは、お金の所在を変えることです。
パイの配分を変えるということです。
おれおれ詐欺のような行為が政府によっても行われます。
おれおれ詐欺は、大きな社会の構造のフラクタルな展開でしかありません。
配分替えの流れは必然的に、お金を持たない人から持つ人へと向かいます。
「権力の集中」と同じで、お金には「集まる」という本性があるからです。
そうした結果が「格差社会」です。
格差社会と金融資本主義はコインの裏表です。
格差を創ることで、金融資本は膨張するといってもいいでしょう。
金融貨幣が生まれるまでは、人々の格差は実質的にはさほどありませんでした。
あったとしても、それを縮小させる仕組みがありました。
絶対君主の時代でも、たぶん今ほどの格差の広がりはなかったでしょう。
そもそも「お金がお金を生む」などということは、本来的にありえないことです。
もしあるとしたら、その後ろには悪魔のからくりがあるのです。
それが金融資本のからくりです。
実体価値と金銭価格とは同値ではありません。
便宜的に価値に価格をつけただけであって、本来は無縁の存在です。
両者の関係は、社会の状況や文化によって決まってきます。
しかしグローバリゼーションで、文化や状況を無視して、価値が価格付けされて、しかも価格が価値よりするようになって来ました。
その始まりは、1970年代の金融自由化です。
当時、私は企業の企画調査部門にいました。
欧米にも調査に行ったこともあります。
しかし、オイルショックやニクソンショックの意味は全く理解していませんでした。
それがおぼろげながらわかりだしたのは、1980年代後半のバブルです。
しかし事態が理解できないまま、感覚的に企業のあり方についていけなくなり、会社を離脱しました。
金融資本の不気味さとすごさに気づいたのは、それから10年以上たった、2000年を超えてからです。
しかし、今なお、金融資本主義の意味が理解できないのです。
お金がお金を生むシステムが持続可能なはずはありません。
持続可能な経済を標榜するのであれば、まずそこを正すべきではないか。
ところが持続可能な経済論者は、みんなお金を生み出すお金に疑問を提示してくれません。
それがどうも腑に落ちないのです。
ましてや、竹中さんがいかに流暢に説明しようと、私には全く理解できないのです。
最近のお金は、もはや50年までのお金とは似て非なるものではないかと思います。
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