■節子への挽歌395:マリーがよろこばないから
節子
この半月、テレビで放映された映画「ボーン・アイデンティティ」シリーズをDVDに録画して、3回も繰り返し観てしまいました。
最近、DVDで映画を観る時間が増えてしまいました。
映画館に一人で行く気はほとんどなくなってしまったのですが。
最近のアクション映画はどうも作り方が粗雑ですが、このシリーズはとてもよくできていて、何回観てもあきないのです。
観れば観るほど、ていねいなつくりに感心できます。
この映画で、気になるセリフとシーンがあります。
「マリーがよろこばないから」というボーンのセリフです。
口には出しませんが、目でそのセリフをいうシーンもあります。
マリーとは、主人公のボーンの恋人ですが、2作目の冒頭で殺害されます。
国家によって殺人マシンに改造されてしまったボーンは、常に生命を狙われており、自己防衛のために送られてくる刺客を殺さなければならないのですが、マリーはそれを好みません。
そんなことをやっていても、きりがないとボーンに言うのですが、その思いからの一瞬の迷いが結果的にマリーを守ってやれないことになるのです。
シリーズの2作目は、そこから物語が始まります。
ボーンは、マリーの言葉を守って、極力、人を殺すことはしなくなります。
たとえば、ボーンを利用した悪事のボスの一人を追い詰めて、彼が早く殺せという言葉に対して、ボーンが言うのが、この言葉です。
「マリーがよろこばないから、殺しはしない」。
洗脳と記憶喪失で人間をやめていたボーンが、人間を取り戻していくキーワードです。
ちょっと「くささ」のある、何ということのないセリフですが、この言葉が聞きたくて、私はこの映画のDVDを繰り返し観てしまっているのです。
自分ならそんなことができるだろうか。
しかし実際には、私もこういう言葉をよく使っています。
娘たちと話していて、たとえば「節子ならこうするだろうな」「節子ならそうはしない」というように、です。
言葉にはしませんが、何か迷った時には、節子だったらどうしろと言うだろうかと考えます。
節子の判断は、私にはこれまでもいつも頼りになりました。
私と違って、小賢しくなく、素直に考えられる人だったからです。
もっとも、その節子の意見と私の意見とが違った場合、節子が元気だったころは節子の意見に従わず、私の考えを優先させたことが多かったです。
ですからわが家には借金が残ってしまったり、新築したわが家に構造的な問題があったりしてしまっているのですが、私よりも節子の判断が正しいことの多いことは、節子がいなくなってようやく認められるようになりました。
正確」に言えば、そのことは前から知っていましたが、それを認めたくなかったのです。
今から思うと馬鹿げた話ですが、これは私の悪癖の一つでした。
自分が間違っていても、それを素直に認められなかったのです。
節子がいなくなってから、そうしたことはほぼなくなりました。
それ以上に、「節子がよろこばないことはしない」ということが原則になりました。
最近の私の行動規範は、節子に共感してもらえるかどうかです。
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