■節子への挽歌389:見えないものを見る心遣い
このブログを読んでくださっている中に、私と同じように「愛する人」を見送った方がいます。そのお一人の米田さんはブログにコメントくださいました。
そのなかに、私と同じように、「主人を褒めていただく事が何と嬉しい事か」と書いてきてくださいました。
「お褒めのお言葉は何より嬉しく励まされます。そして、本当に真面目に真剣に生きた主人は、やはり家族の誇りです」と書いています。
とてもよくわかります。
米田さんもそうでしょうが、自分をほめられること以上に、うれしく元気づけられます。
でも多くの人は、目の前の、愛する人を失った人に目を向けます。
それは当然のことです。
たぶん私もそうしてきたし、これからもきっとそうでしょう。
目の前にいる人を気遣うのは、自然の心の動きです。
それはとてもうれしいことです。
にもかかわらず、当事者になって気づいたのは、自分への心遣いよりも、愛する人への心遣いがこれほどにうれしいことなのだということです。
もちろん、ただ愛する人への形式的なほめ言葉は、心には入ってきません。
そこがまた微妙なのですが、目の前にいる私を意識せずに、節子のことに言及されることがうれしいのです。
私を通して、私の中にいる節子を感じてくれ、思ってくれていることが伝わってくるからです。
亡くなった人は戻ってこないのだから、などといわれると、この人は私とは違う世界の人だと感じます。
その人は、私のためを思い、元気づけようといってくださっているのですから、感謝しなければいけないのですが、どうもそうはなりません。
お互いに不幸なことなのですが。
こうした経験をして気づいたのは、見えないものを見ることこそが、心遣いなのだということです。
障害のある人は「かわいそうに」と同情されることを好まないとよくいわれます。
私も体験的に、それを実感していますが、どこか通ずるものを感じます。
ケアとは、見えることへの心遣いだけではなく、
その奥にある見えないことを一緒に見ることなのかもしれません。
見えないものを見る心遣いに、もっと心がけようと思っています。
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