■節子への挽歌393:世界は心の鏡
最近はメソメソしていないね、と先日会った友人が言いました。
そんなことはありません。
最初からメソメソしていないし、今もメソメソしているのです。
つまり私の心情には何一つ変化はありません。
そのことは何回も書いてきました。
しかし、よそから見るとそう見えるのかもしれません。
見られる私が、どう見えているかは私にはわかりませんが、
私が見ている風景の変化は実感しています。
同じ風景のはずなのに、節子がいなくなってからは違って見えることが少なくありません。
最近の体験では、滋賀の観音様たちがみんな元気をなくして見えました。
わが家の近くの手賀沼公園の風景は、以前は元気を与えてくれた風景でしたが、最近は寂しさを感じさせます。
わが家の庭の花は心なし寂しそうです。
おしゃれなレストランを見ると目を背けたくなります。
さわやかな青空が心を弾ませなくなりました。
テレビの旅行番組には興味が全くなくなりました。
犬の散歩で近所を歩いてもあまり人の気配を感じなくなりました。
なにか気分が高まった新幹線も飛行機も、気が沈む空間になりました。
病院を直視できなくなりました。
なによりも「がん」という文字に強い拒否反応が出てしまいます。
節子と別れてから、世界の風景はまさに自分の心を映していることを知りました。
節子と一緒に見ていた時の上野と、最近の上野はちがいます。
いまはただただ雑多なだけです。
以前はいつも何か新しい発見がありました。
まさに風景の中に、自分が見えるような気がします。
人は、目で世界を見ているのではなく、心で世界を見ているのかもしれません。
首相になりたての福田さんと最近の福田さんは、私には全くの別人に見えます。
節子と私の関係は大きく3回、変わりました。
それに応じて、3人の節子がいるのかもしれません。
結婚する前の節子、結婚してからの節子、そして会えなくなってしまってからの節子。
一番かわいかったのは結婚する前の節子でした。
一番存在感が無いのは結婚してからの節子です。空気のようでした。
しかし、今の節子は、私には神のような存在です。
その、私に生きる意味を与えてくれていた節子の不在が、私にとっての世界の風景を変えてしまったとしても仕方がありません。
人は自分が見たいように世界を見る。
この頃、改めてそう感じています。
もしそうなら、私の見ている世界がまだ元気になっていないとしたら、私自身も間違いなく元気ではないのでしょう。
いつか抜け出せるのでしょうか。
みんなは、元気になってよかったねといってくれますが、それはきっとみんなの希望的な風景なのでしょう。
以前とは全く違った風景が、まだ私の周りを取り巻いています。
1年経ったのに、その風景は変わっていません。
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