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2008/09/12

■節子への挽歌377:「お元気そうな声を聞いて安心しました」

節子
もう1週間前になりますが、浦和の伊東さんから電話がありました。
昨年、献花に来てくれた時に、たぶん私たち家族から「気」が抜けていたのを感じていたのかもしれません。
以来、ずっと心配していてくれたのです。
電話の最後に、「お元気そうな声を聞いて安心しました」といわれました。
最近、電話でよくいわれる言葉です。
前にも書いたのですが、私自身は感じてはいないのですが、どうも私の言葉の表情は変化しているようです。

伊藤さんは、ある宗教の信徒ですが、その宗教の故人を供養する場でいつも節子を供養してくれているようです。
そういえば、福岡の加野さんも篠栗の大日寺の施餓鬼会で節子を供養してくれたそうです。
いろんな人がいろんなところで、節子を供養してくれています。
うれしいことです。

私もそうした心をもっと高めたいと思っていますが、それはそう簡単なことではありません。
長年の生き方に裏打ちされてこそ、持続できるのです。
生まれながらのものとは思いたくありませんが、その要素もあるように思います。
多くの場合、人は言葉と心は一致しません。
言葉には人の心が現われますが、それは「言葉の内容」とは全く無縁です。
反対のことも少なくありません。
私自身、長い人生で言葉だけか心からの思いからかは、それなりにわかっていました。
しかし、心が弱くなっていると、言葉の奥の心が恐ろしいほどにわかります。
節子がいなくなって1年。そのことを強く感じます。
人に会うのがこわくなったのは、そのためです。
最近はかなり慣れてきましたが、それでも恐ろしいほど見えてしまうのです。
おそらく私と同じ状況にある人はみんな同じなのではないかと思います。

いじめられた子や弱い子が、そうした感受性を強めすぎ、戻れなくなってしまうのがわかるような気がします。
弱い魂には、真実が見えすぎるほど見えるのです。
私は、これまであまり見えませんでした。
病気になってからの節子にはそれがとても良く見えていたような気がします。
だから節子はやさしくなれたのだろうと思います。
節子の、私へのやさしさは言葉では表わせません。
そして、私にもやさしさを教えようとしたのです。
私がそれに気づいたのは、恥ずかしいことに、最近です。
正確にいえば、この挽歌を書き続けてきたおかげです。
それに気づくまでは、私は自分が「心やさしい人間」だと自負していたのです。
全く恥ずかしい話です。

それに気づいたから、私の声に元気が出てきたのかもしれません。
節子にちょっとほめてもらえるでしょうか。
ほめてもらえると、うれしいです。

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