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2008/09/25

■節子への挽歌390:見送るのも、見送られるのも同じなのですね

このブログの読者の大浦さんも、娘の郁代さんを若くして見送っています。
その追悼の本を出版されました。
「あなたにあえてよかった」
北國新聞社出版社から2006年に出版されています。
私は贈ってもらったのですが、読めずにいました。
本の最初に郁代さんの遺書が載っています。
それを読むのが精一杯でした。
大浦さんからは、読めるときがきたら読んでくださいといわれていました。
まだ読めずにいますが、先日、少し読み出せました。
大浦さんからメールがきて、そこに郁代さんの婚約者への遺書の一部が書かれていました。
それを読んで、何だか節子が書いたような、いや私自身が書いたような不思議な気持ちがして、繰り返し繰り返し読みました。
涙が出て仕方がありませんでした。
一部だけ引用させてもらいます。

人よりは少し短めの人生だったけど、この世にまだ未練はたっぷりあるけど、でもとても充実したいい人生だったと思います。
私の意思を尊重し信頼してくれた両親のおかげで、これまで自分の道は自分で決めてこられたし、やりたいことがいろいろ出来たので、後悔は全く無いんだよ。
前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。
そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。
もしかしたら、愛する人と別れることになった人は、みんな同じ思いを持つのかもしれません。
そんな気がしました。

愛する人を見送るのも、見送られるのも、実は同じことなのです。
私の気持ちは節子の気持ちだったのです。
大浦さんのメールを何回も読んでいるうちに、そして大浦さんから贈ってもらった本を少し読んでいるうちに、そのことに気づきました。

きっと彼岸の節子も、いまの私と同じ気持ちでいるのかもしれません。
見送るのも、見送られるのも同じであるならば、見送られるほうが平安かもしれません。
そう考えたら少しだけ心の平安を感じられました。

ブログを書いていると、元気づけられることが少なくありません。
そして読んでくださっている人をささやかに元気づけていると思うと、うれしいです。

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