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2008/09/22

■平和の脆さや戦争への道のシミュレーション

最近、不快なことが多すぎるのですが、その一つが似非平和主義者への怒りです。
まあ私が怒りを感じてもどうしようもない話なのですが。

私が参加していて、しかもメンバーの何人かとも顔見知りの平和関係のメーリングリストが2つあります。
以前は投稿したこともありますが、最近はほぼ完全に読むだけです。
そのメーリングリストで、時々、不快な応酬があります。
体験された方もいるでしょうが、メーリングリスト上での感情的な対立はどんどんエスカレートします。
最初は極めて瑣末な話から始まるのですが、横から見ていると言葉遣いも含めて、罵倒しあう状況になっていきます。
とても皮肉なことなのですが、平和の脆さや戦争への道をシミュレーションしているようです。

メーリングリストはとてもいい仕組みだと思いますが、よほど注意しておかないと、劣化しがちです。
無意味な批判の応酬が起こり出すのです。
平和をテーマにしたメーリングリストであればこそ、最初はそれがとても不思議でした。
平和という概念は戦争の裏概念だと前に書いたことがありますが、こうしたメーリングリストに参加する人たちの平和概念は、一人ひとりの平安を大事にするということだろうと私は考えていたからです。
もしそうなら基本は「異質な考えへの寛容さ」でなければいけません。
前にも引用しましたが、ヤスパースは敗戦後、ドイツ国民に向かって「われわれは相互間の甚だしい相違を終局点としてではなく、出発点として承認するのでなければ、われわれの語り合いは意味をなさない」と呼びかけました。
寛容さのない平和志向は、国家の平和観と同じで、極端に言えば戦争の一形式でしかありえません。

幸いに、一つのメーリングリストでは管理者の的確な判断と当事者以外の参加者の適切な反応で毎回聞きは乗り越えられていますが、そのプロセスで、互いの信頼関係が高まればいいのですが、必ずしもそうではないように思います。
繰り返し行われる非寛容なやり取りに、私自身はそのメーリングリストへの信頼感を完全に失っています。
いかに平和主義者を装うと、個人攻撃するような人の平和観にはなじめません。
私にとっては、平和を語る相手では全くありません。
メーリングリストは、似非平和主義者をあぶりだす仕組みとしては有効かもしれません。

もう一つの、比較的インチメイトなメンバーによるメーリングリストで、また応酬が始まってしまいました。
今回は黙って入られなくなってしまい、うっかり投稿してしまいました。
幸いに最初の投稿者の寛容な反応により、いち早く収束しましたが、信頼していたメーリングリストだけにいささか残念です。

顔を見ないネットの世界では、こうした不幸な行き違いがよく起こります。
ネットを使いこなしていくためには、もう少し時間がかかるのかもしれません。

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